教育のとびら

教育の未来を提言 since 2007
presented by 福島 毅

ファシリテーション読書会での気づき1

2022-04-20 | 研修・セミナー・講演など

昨日より、書籍「ファシリテーションとは何か」の読書会がはじまりました。
約20人ではじまった、このコミュニティでの読書会。ここでは参加者の一人として、振り返りなどを書いてきたいと思います。

1)ファシリテーションに関する関心の高まりについて
書籍では、検索などで調べてみると「ファシリテーション」や「ファシリテーター」というものの近年の関心の高まりについてが述べられています。昨日の読書会でも、それはなぜなのだろうということなども議論されました。

自分なりの解釈では、もし昔のように、狭い村だけで一生が終わり、身分制度や結婚、職業などもわりと固定されている時代では、さほどファシリテーションも必要ではなかったのだろうなと想像されたということ。固定した人間関係、固定した働き方だと何かをいろいろ調整したり自己決定する機会も少ないからです。

それに比べ現代社会は、関わる人の多さも情報量も各段に上がりました。また社会の仕組みも複雑・多様になっている。こんな中で、調整して決定していかなければならないことも各段にレベルがあがったわけです。そういったときに、その調整機能としてのファシリテーションやそれを担うファシリテーターが必要とされている。そういうことなのだろうなと思いました。

2)ファシリテーターはどこまで介入するか問題
この読書会参加の皆さんはほとんどがファシリテーターの経験者または現役でファシリテーターとして活躍されている方。その共通課題が、「どこまで介入するか問題」であるようです。書籍では、「手綱(たずな)」という言い方で紹介されています。

場を開く中で、具体的な個々の介入もそうであるし、会議やワークショップなどの全体設計やグランドルールなど、全体にかかわる介入や決定なども含まれます。

おそらくこれには、固定的な完全回答はないものの、大方の雰囲気としては、「介入しすぎてもいけないし、介入しなさすぎてもいけない」というような距離感の取り方を皆さん常に考えているのだなぁという感想を持ちました。

自分は、場(ここではわかりやすく会議とします)を開くとき、どこまでを構成的にやるか(会議の目標やゴール、持ち帰りたいもの、この会議で必ず決定したいこと)、同時に、どこは非構成的にやるか(メンバー各自の自由な発想・意見を最大限尊重し、枠にしばられない)の大枠を決めておき、会の冒頭に宣言するということをしています。

完全に構成的な会議だと枠をはみ出た自由度がなくなります。逆に完全に非構成な会議だと、収拾がつかない場合が生じるので、どの塩梅で 構成・非構成を取り入れるかはデザインしておくとうまくいくという実感があります。

3)全員が安心・安全な場というのは難しい
今回の読書会で最大の気づきはここでした。ABCさん3人の会議を想定してみます。
Aさんはたくさん話したくて、(BCさんに比べても)たくさん話ができることが許容される場になったとします。ファシリテーターはそれを認めている場があるとします。そうすると、Aさんにとっては心地よく安心な場になっていても、BCさんにとっては、逆に安心・安全な場ではなくなることもありえる。

逆にABCさんに完全平等でいつも同じ時間しか発言時間が許されない場であるとすると全体最適での安心はあるかもですが、管理コントロール感が全員の居心地の悪さにつながるかもしれないわけです。

そうするとファシリテーターに必要なことは、おそらく観察。
場はダイナミックに常に変化するので、その中で、メンバーが自由に安心に発言したり考えたりできる空間づくりをどうしたらいいか、そこを決めて実行していくのがおそらくファシリテーターの役割なのではないかと感じました。

他にもいろいろ思い出すと、振り返りはありそうなのですが、とりあえずはここまで。

また、気づいたら書き足していきたいと思います。
ご意見・感想などある方は、福島のFacebookコメントなどにいただけると幸いです。

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