旅しながらやってます。

写真を撮ったり、山に登ったり、生活したり、旅しながらやってます。

トルコ その1 長いアジアと遅いヨーロッパ ‐トルコ東部‐

2006年10月31日 | Around the world 2005-2007
テヘランからトルコとの国境に向かうバスが発着するバスターミナル、テルミナール・ガルフはいやに賑やかだった。ただ賑やかなだけなら、中国やインドの鉄道駅やバスターミナルもそれに劣らないものがあったが、夜行バスを待ち、トルコに向かうというシュチュエーションがいやに気持ちを昂ぶらせていた。
ターミナルのベンチに腰を下ろし、発車時間を待つ。バスターミナルの客引きたちはイランや周辺国の地名を威勢よく連呼しながら、客を集めようとターミナル内を歩き回っている。そんな光景を眺めていると時間はあっという間に流れているいく。
前日にチケットを買った、背は低いがでっぷりと太り突き出た腹と豊かな口ひげを持ついかにも人のよさそうなバス会社の人間がニコニコしながら手招きで私を呼ぶ。今回もボルボのDXバス、快適な移動だ。
テヘランからトルコに向かうバスは夜8時に出発した。暗くなった街には暖かい色の街灯が煌々と照っている。

早朝にトルコとの国境の町、マークーに着くとそのまま一気に国境へ向かった。テヘランに比べると気温は急激に下がった。冬用のナイロンジャケットをバックパックから取り出す。吐き出す息は白い。二度目の冬はもう目の前だ。
国境審査はイミグレもカスタムあっけなく終わった。トルコ側に出るとアララット山が大きく見える。10月30日早朝、12カ国目トルコに到着した。

 
 イラン、トルコ国境、トルコ側で。
 雲がかかってしまっているが写真右上に見えるのがアララット山。
 左に見えるのはトルコ共和国建国の父、ケマル・アタチュルクの像。


 
 同じく国境から、イラン方面を望む。
 トルコはラテン文字を使用する国家。久々にまともに文字を読める国に来た気がする。


国境からドルムシュと呼ばれるミニバスに乗り、トルコ最初の町、ドウバヤズッドに向かう。前日の移動はあまり眠ることもできず、バスが出発すると同時に眠ってしまった。目覚めたと同時にバスは到着。少し寝ぼけたままドウバヤズッドの町に降り立つと、イランに比べて何だか街の雰囲気が一気に変わった印象を受けた。変わったというよりもまったく違ったものになった気がする。


 
 到着した翌日。すっきり晴れてアララット山がきれいに見えた。
 富士山に似た外見でそんなに高く見えないが5137mある。


 
 ちなみにここは旧約聖書にでてくるノアの箱舟が漂着したとされる山でもある。


 
 中心部から少し離れたところにある学校で。
 アララット山は少し開けたところに行けば見える。


何が変わったのだろう。イランと比べてそこまで劇的な文化の違いを感じる国ではない。ゆるいとはいえ相変わらず住民の大半はイスラム教徒だし、顔つきもイラン同様半端なく濃い人たちばかり。確かに女性は黒ではなく、柄のついた色のあるスカーフをかぶっているし、イランでは外車といえばプジョーばかりだったのが、欧米各社の車が走っているからだいぶ印象は違う。でも、そういう表面的なことではなく、目に見えないもっと気分的なことだ。区分的にはまだまだここはアジアなのかもしれないが、自分が持っているトルコがヨーロッパの入り口という感覚は人や町に対する印象や旅の仕方を変えているかもしれない。 長いアジアの旅を終え、今、冬のヨーロッパへと入ろうとしている。でも、やっぱり少し遅かったかな…。


                
                ドウバヤズッドの街角で。


                
                ドウバヤズットの少女。


 
 ドウバヤズットのバザールで。


                
                トルコの小学校の制服。


最初の町、ドウバヤズットは不思議と居心地のいいところだった。町自体は半日もあれば十分な程度の広さで、名所と呼べるところは付近にあるイサク・パシャ宮殿ぐらいだがここには3泊滞在した。物価が高いと聞いていたトルコにしては(それでも最初はイラン、発展途上国との物価の差に戸惑ったが…)まだいいかなと思える範囲の物価だった。そして、ここではその値段に対して食事のクオリティがとても高かった。久しく食事の楽しみなど忘れていた気もするが、一説によれば世界3大料理の一つに数えられるトルコ料理は自分の舌にはとてもよくあった。ロカンタと呼ばれる大衆食堂では出来合いの料理がいくつか見せの中に並べられていて、ドウバヤズットではそれが一皿3リラ(約240円)で食べることができる。基本的にオリーブオイルが使われおり、米を炊く際にもオイルが使われているようで、こってりしたご飯は少々しつこいけど香ばしくておいしい。大半の料理がトマトベースの味付けだが、種類は豊富で手の入った料理は選ぶ楽しみも食べる楽しみもあった。それに加えて、このドウバヤズッドのロカンタでは無料のサラダとチャイ、それに食べ放題のパンがつく。地球の歩き方には「世界一おいしいパンといっても過言ではない」と書かれているエキメッキ。最初、その文章を見たとき「そんなおおげさな」と思ったが、実際に食べてみるとそれもまんざらではない。見た目はいわゆるフランスパンを太らせた形で外はかりっと中はもちもちしている。朝昼晩と食べる安くてうまいエキメッキはトルコでの主食になりそうだ。


 
 イサク・パシャ宮殿。


 
 イサク・パシャ宮殿付近から見るドウバヤズット。


 
 イスタンブールまで1535km。

トラブゾンにはバスで向かった。トルコで感じた最初の物価の壁がこの移動だったかもしれない。前日チケットを買いに行くと40リラ(約3200円)といわれた。もちろんそれぐらいの料金は覚悟していたのだが、面と向かってそういわれるとなんだかショックにも似た感覚に襲われ本当にクラクラしてきた。そして、どちらにしてもここから動くためには買わなくてはいけないのに、少し交渉しただけで買わずに帰ってしまった。それぐらい自分にとっては衝撃的な料金だった。半日移動で、たった7、8時間の移動で3200円だなんて!!イランと比べてしまうと天文学的な値段に感じてしまう。でも仕方なく翌日、再度交渉し5リラのディスカウントでトラブゾン行きのバスに乗ることにした。トルコのバス事情はその高さにしょうがないと思わせるほど発達している。車体は大抵メルセデスやMANなど欧州メーカー新しいDXバスだ。座席もゆったりしていて乗り心地は最高。車内サービスもあって水やコーヒー、お菓子などが配られるし、休憩後も含めて発車するときは車掌がコロンヤと呼ばれる香水を乗客の一人ひとりにふるまう。けど、そんなサービスするならその分を安くしてくれとほしい…。


 
 宿近くの路地で。


トラブゾンには夜、到着した。標高が高く、寒かったドウバヤズットに比べると黒海に面するトラブゾンは生暖かさを感じた。安宿街に行き、何軒かあたってみるが、どこも今までに比べれば高く、1泊15リラもする。こう高いといつものように長居しようという気はしぼんでしまう。
宿代は高くなったけど、翌日はいつものように当てもなく散歩してみた。トラブゾンの街は都会だった。近代的な高層ビルなどが林立しているわけではないが、中心部の歩行者専用道路には人があふれ、おしゃれをしている人ばかりだ。自分の格好がひどくみすぼらしく思えてくる。そして、ここには顔も髪もあらわにして化粧をしている女性の姿があった。イスラム教徒であるトルコ人女性ではそういった格好をしている人たちは少数派かもしれないが、一部の若い女の子、それにここは地理的にロシア系の女性が多いだけにそういった人たちが目立つ。こういうのをイスラム後遺症というのだろうか、しばらくおんなっ気のおの字もない地域が続いたからこの光景はまぶしかった。正視できない自分がいて、なんだかおかしい。華やかな街は面白い、でも華やか過ぎて少しさびしくもある。


 
 トラブゾンの繁華街で。


 
 トラブゾンの路地裏。


海を見たのも久しぶりだった。数えてみれば去年のタイ、パンガン島以来、およそ1年1ヶ月ぶりの海だった。横浜生まれで、学生時代は船上でバイトをしていた私にとって海はとても身近な存在だ。海を見ない日がこんなに続くのは生まれて初めてのことだった。だから、トルコに来る前からずっと海が見たいみたいと思い続けていた。
街を散歩しつつ、海岸線に向かって歩いていく。近づいていくにつれ段々と波音と海風が強く響き、流れてくる。さわやかな潮風ではなく、少し鼻につく潮の臭い、やっぱりたまらなく懐かしいものだった。その臭いに誘われて、海水を舐めてみるが黒海の海水はあまりしょっぱくなかった。黒海という名前だからといって別に海の色が黒いわけではない。とはいえ、一般的な海の色がどんな色をしていたのか今となってはよく覚えていない。黒いといわれれば黒い気がしないでもない、そんな黒海を眺めたり、海岸を歩いたり、手に触ってみたりする。


 
 黒海で釣りをする。


 
 黒いかね、黒海。。。いやきっと黒くない。


海を後にして、散歩を続けると市場にたどりついた。都会的で取っ掛かりをつかめなかったトラブゾンでもやはり市場の人たちは陽気できょろきょろと周りを見つつ歩いている私をすぐ相手してくれる。市場の中に入り、写真を撮りつつぶらぶらしていると中に店を構えている一軒のチャイ屋に招かれた。この国の人たちも他のイスラム国家の人間同様もてなし好きだ。招かれるがままにお店でチャイを飲ませてもらう。トルコのチャイは小さな湾曲したグラスに入っている。基本的には煮詰まった紅茶をお湯で薄める。渋みが強く、さわやかな香りが強いその紅茶はそのまま飲むと少々渋みが舌に絡み付いてうまくないが必ずついてくる角砂糖を少し多いかなと思うぐらい入れて飲むと渋みも消え、かといって砂糖のしつこさもなくおいしく飲める。不思議な紅茶だ。
招いてくれた本人も私と何かが話したいというわけではない。トルコ語はわからないし相手は英語をわからない。言葉でのコミュニケーションは取れなかった。でも、それでよかった。チャイを2杯ご馳走になって店を後にした。


 


 


 
 トラブゾン市場の様子。ここの港で水揚げされたアジやサバなども並んでいた。


トラブゾンの夜はなんとなくすることがなかった。街歩きに疲れてもそれでもまだ宿に戻る気起きず、でも街歩きをする気も起きず、バーで呑むことにする。これも久々にまともなうまいと思える冷えたビールだった。ゆっくりと呑みながら、外の光景を眺める。窓の外には都会的な格好をした人々が歩いている。たった500mlのビールを一杯しか呑まなかったが、それだけでそれなりに酔える自分はなんて経済的な男だろう。ほろ酔いで夜の街を少し散歩する。視界が開ける高台から海を眺めていると風が気持ちいい。決して退屈ではなかったのだけど、でもトラブゾンの夜は少し長かった。

トラブゾンも3泊で切り上げた。その後のルートをなかなか決められなかったが、寄り道をせずに一気にトルコ中央に位置するカッパドキア地方に行くことにした。

イラン その5 エスファハーン 街中と川沿いで

2006年10月25日 | Around the world 2005-2007
                
                  チャイハネの恐ろしく老け顔の少年を。
        今回はエスファハーンの街とザーヤンデ川沿いを散歩した時に撮った写真です。


 
 シィ・オ・セ・ポル橋のたもとにあるチャイハネ、水パイプ屋で。
 ポットにはいったチャイを飲みつつ、時間をかけてゆっくりとパイプを吸う至福のとき。
 チャイハネでのひと時は毎日の日課だった。


 
 ラマダンが終了した日の昼飯時にケバブ屋で。
 物価の安いイランでも食事を安く上げようと思ったら、このケバブかハンバーガー。
 特にハンバーガーはいたるところに店があり、イランの、イランなのに、ナショナルフード化している…。
 ケバブは少し高いのでひたすらハンバーガーを食べる日々。
 ちょっとしたレストランに入ればそれなりのものを食べられるが、
 気軽に手軽に済ませたいと思うとあまりに食事のレパートリーが少ないイランです。


 
 昼下がりの公園で。
 この少年たちは買い食いだろうが、イラン人はよく家族そろって公園などでガスコンロなどを広げて食事をしている。


 
 ラマダン終了の休日を川沿いで過ごす人たち。
 芝生の上、みんなで昼寝をしたり、水パイプを吸ったり、ゆったり素朴にすごしている。


 
 川沿いに健康器具?がいくつか並んでいる。
 じいさんたち、冗談ではなく本気でせっせと運動しています。
 健康に気を使う余裕があるということか。


 
 街中にあるモスクで。エマーム広場だけでなく、街中にも凝った建築物が点在している。
 イラン全体に言えることだが、エスファハーンは清潔できれいな町。


 
 中心部から少し離れたところに建造中の巨大モスク。
 外周をゆっくり歩くと20分程度の広さ。
 現代になってもこんな巨大宗教施設を作れるイランはやはり少なくとも国家レベルにおいては厳格なイスラムだ。


 


 
 中心部から離れた住宅街にある公園で。


                
                街中にある公園で。エスファハーンは緑豊かな街。


 
 再び川沿いハージュー橋で。
 連休になるとイラン人はよく国内旅行をするらしい。観光名所でみんな写真を撮っています。


 
 ハージュー橋で。


 
 ハージュー橋の下で。


 
 川沿いの芝生は柔らかく、子供たちは裸足で転げまわっていた。
 私も寝転がって本を読んだり、一服したり、昼寝したり。
 この川沿いは久々に心からのんびりできる空間だった

イラン その4 エスファハーン 世界の半分とバザール

2006年10月22日 | Around the world 2005-2007
 
 エマーム広場で。


 
 バザールの貴金属商で。
 今回は、「世界の半分」エスファハーンのエマーム広場とその周辺バザールの写真です。


               
              エマーム広場にある…何モスクか忘れてしまった…の前で。。。
              ここはイランで一番美しいといわれているモスク。


 
 上のモスク、ドーム内部の装飾。細密そのものの幾何学模様。
 すばらしいものですが、私が訪ねたとき外部は修復中。
 加えて内部はぜんぜん掃除がされていなかった。
 その分、マシュハドのエマーム・レザー廟に比べると見劣りしてしまう。


 
 こちらはバザールの天井の装飾。
 上をしばしば見上げる必要があるイスラム建築は首が疲れます。


    
 バザール内部の様子。
 迷路のような内部も地元の人たちにとっては通行路でもあるよう。
 建物が連なっているが天井からうまく採光されている。
 この日はラマダン中のためか、閉まっている店もちらほら。


 
 貴金属商の前で。ショーケースを見る女性。全身チャドル姿でも中は着飾っている?


 
 すべて民族工芸品屋で。
 ここのバザールは日用品も多く売られているが、同時におみやげ物屋も多くある。



 
 夜のエマーム広場で。


 
 エマーム広場も夜になるとライトアップされる。
 ここはイラン人にとっても屈指の観光地であるだけあって、夜でも人でにぎわっている。
 そして、地元の若者のたまり場でもある様子。神聖な場所でしょうが深夜の治安は…。

イラン その3 反米・イスラエルデモに遭遇する

2006年10月20日 | Around the world 2005-2007
     


 
 デモの様子。


2006年10月20日、この日は前日知り合った旅行者たちとペルセポリスにタクシーをシェアして行くことになっていた。待ち合わせの場所に出向くと、彼らは今日、反米デモがあるらしいからそれを見ていこうという。
私がイランで見てみたいと最も望んでいたのはペルセポリスなど遺跡でも、エスファハーンのエマーム広場に代表されるモスクやイスラム建築でもなかった。反米の空気、それを一番見てみたかった。国際的に反米の立場を明確に打ち出しているイラン国内の雰囲気を自分なりに見てみたかった。

デモがあるとわかったものの、それがどこで行われるかはよくわからない。昨日の夜あれだけ車が走っていた大通りは閑散としている。デモが行われそうな雰囲気はあるが、そこを歩いている人の姿はまばらだ。たいした規模のデモじゃないのかなと思い始めていたが、それでもしばらく歩いていくと、旗を抱えた人やスローガンの入ったベストを着ている人が目につきはじめる。その先の大きな交差点に車の上からスピーカーを通してがなりたてる人間がいた。そして、その先にはのぼりやプラカードをもった群集が通りすぎていく。
反米デモが始まった。


 
 兵士、空手道場、女子学生など多くの団体が参加、動員さている。


     
 張りぼての人形を手に行進中。


               
           当然こどもも参加している。まぁ、何のことかわかっていないでしょう。


 
 これはおそらくユダヤ教ウルトラオーソドックス(超正統派)の人を連行しているということか。


               
          市内のいたるところに米国、イスラエルを非難する看板が立てられている。


デモの最中、英語を話す青年がしばらく私と一緒に歩いてくれた。彼はシラーズの学校に通う大学生だという。説明と共に米国に対する私の印象を聞かれた。はっきりいって、私は米国のやり方は気に入らない。だからリップサービスではなく、自分の考えをそう伝えた。彼は同意も否定もしなかった。ただ、気のせいかもしれないが口数が減り、その答えが不満そうな感じを受けた。もしかしたら「米国とは仲良くしたほうが得だぜ、そんなに頑なに対抗してどうすんだよ、経済的に損するばっかじゃないか」とでもいって欲しかったのだろうか。
イランにおけるイスラム革命は1979年に起こったものだから、それからまだ27年しかたっていない。その前はここまで厳密なイスラム国家ではなく、近代化、産業化を進め、いわゆる近代的な西洋的な生活を営んでいたと思う。しかし、今は180度体制の違う政権がイランを厳密なイスラム国家として運営している。
一人の人間には長い時間が過ぎたとはいえ、以前を知っている人たちからしたら息苦しい面もあるに違いない。そして、それは若者にとっても同じことなのかもしれない。若い男の中には何かにはけ口を求めるかのように、車やバイクを暴走させている者が多くいる。私は遭遇しなかったが、ツーリストと見るや突然、小突いてきたり、あるいはとび蹴り、殴りかかってきたりする人間もいるという。イランの女性は化粧もしているし、パキスタンやアフガンの女性に比べれば格段におしゃれに気を使っているが、服装に関しては法律によって、基本的には顔だけしか見えない黒いチャドルを着ている。しかし、若い子はそれに反抗するかのように頭の部分を思いっきり後ろにずらし、髪をさらすような着方をしている。宗教警察がみたら問題になりそうな格好をしている子もいる。
アフガンとイランどちらが敬虔なムスリムかと問われたら、私はアフガン人だと答える。でもそれは彼らが都市文明を知らないからだと思う。もちろんイラン人も敬虔なムスリムである人が多いのだが、都市文明を知ってしまったイラン人には現在の厳しい戒律のイランの現状と相反する面を感じないわけにはいかない。人間の欲望を無理に押さえつけるような戒律を万人に強いても結局、人はそれに対して抜け穴を作ろうとするし、それに不満を持っていくかもしれない。


 
 アメリカが世界を食っちまう。


               
             再びヒズボラの議長、ハサン・ナスラッラー氏の看板前で。
             カメラ持つ学生風のイラン人女性が何人もいた。
             報道関係者も多数いたが、なぜか誰もが私の写真を撮っていく。
             デモ隊の着ていたベストを何着ももらい、あげくに着て、
             はしゃいでいたから要注意人物として撮られた気がしないでもない…。


 
 デモ行進終了地点付近で。


デモにはすべての年代の人々が参加していた。参加者が自主的に参加しているのか、それとも所属団体からの動員なのか、彼らの思想が反米なのか、それともそのことに疑問を抱いているのか、何も考えていないのか、当日にデモを知り、全くペルシャ語を話すことができない私にはまるでわからない。
座ってデモ行進を眺めていると、一人の男が私に英語で話しかけてきた、「これをどう思う」と。正直な感想を言えば、機械的に動員されているだけの行為に見えたが、この場でそんなことをいうこともできず、「興味深い」と答えた。男は「crazy」といった。「こいつらは狂っちまってるんだ」。
そもそもイスラム革命とは何だったのだろう。正確な知識を持っていないが、その目的は西欧文明が入り込み、一部の特権階級の支配の下で広がった貧富や矛盾を是正し、彼らの根本ともいえるイスラムが定めた法に基づいた社会を建設し、自国を主体的に運営することにあったのだと思う。その過程で、あるいは米国が障害となったために生まれたのが反米的な姿勢であり、実際に大使館襲撃や中東におけるテロ工作などの行動の結果、対立が対立を生み、今日の状況があるのだと思う。先鋭化する行動を否定するわけにはいかない。政権はその正当性を保持するために反米を謳い、そして扇動する。手段であったはずのイランにおける反米は時間が経つにつれて目的へと変化してしまっているようにも感じる。主体性を持つための運動はいまや一般大衆においては逆に主体性を失った運動になっているのかもしれない。
私はイランの行動に対し、共感を持つ、そして、取っている立場正反対だが状況に対して日本を見る。日本の親米というものはもはや本質的な損得から目をそらした思考停止的な盲目的な親米だと思う。そして、イランの反米姿勢にも同様のものを感じてしまう。
客観的に思想に対して良い悪いと判断を下すことはできないし、反米親米どちらにしても結果は一方しかわからないから正しいか間違いかもわからない。自分の国のことは主体的に決定したいと思う人がいるのも、妥協しても物質的に豊かな生活を持ちたいと思う人がいるのも当然で、いずれにしてもそれはイラン人自身が決定することだ。
けど、超大国アメリカ合衆国ににらまれた国の人間同士として思う。アイデンティティーや主体性のために他国の理論を排除するのと、合理性のためにアイデンティティーや主体性を犠牲にするのと、いったいどっちが幸せなのだろう。


 
 デモもほぼ終了して。モスクの前に集結してこれから集団礼拝というところで帰ることにした。

イラン その2 イランで出会った人たち

2006年10月16日 | Around the world 2005-2007

        
 イランのおじいさんたち。マシュハドとシラーズで。今回はイランで出会った人たちの写真です。


        
 左:マシュハドで。ここのおっさんたちも陽気で面白い、そして親切な人たち。
 右:ヤズドで。一緒にバス会社を探してくれた二人組み。
   急に明日、ここを発とうと思い、バス会社を探していると英語をまるでわからないにもかかわらず、
   私がシラーズに行きたいことだけを理解して、手伝ってくれる。
   時にしつこいと感じたこともあるが、親切なイラン人たち。


 
 イランの子供たち。マシュハドとヤズドで。


                
                シラーズの水パイプ屋で。


                
               シラーズ、ペルセポリスで写真の撮り合いをしながら。
               イランの携帯普及率は高い。カメラつきの機種を持っている人も多い。
               今までは撮ってばかりだったがここでは撮られることも多かった。


        
 イランの男たち。カメラを向けると笑ってくれたり、ポーズをとってくれたりする人が多いのはこの周辺の地域共通。共にシラーズで。


                
             シラーズ、ペルセポリスで。観光に訪れていたイラン人の親子。

イラン その1 中途半端な

2006年10月13日 | Around the world 2005-2007
 
 イラン側から見たアフガニスタン、イラン国境。


イランには10月13日から10月30日にかけて18日間滞在した。正直な所をいえば、イランでの旅は私にとっては少し退屈なものだった。かつてのペルシャ帝国は広大な地域を支配した偉大な文明を持った国であっただろうし、現在のイランもイスラム文明諸国の中で重要な地位を持つ国家に違いない。
しかし、長くアジアの発展途上国を旅し、近代化を達成し、現代社会を持つ外国を見たいと思っていた私にはなにか中途半端な印象を拭うことはできなかった。
都市文明を持ち、でもアジア的な曖昧さ温かさも持つ国、それがイランといえば確かにその通りなのだが。

 
        
 ヤズドのマスジッデ・ジャーメ。


 
 ヤズドの旧市街で。


 
 ヤズドの住宅街で。ラマダン明けの食事に備えて大きな鍋で豆を煮込んだスープを作っていた。


 
 ヤズドにあるゾロアスター教(拝火教)寺院。内部には西暦470年以来消されたことがないという火が燃えている。
 まぁ、失礼ながら、そんなにたいしたものじゃなかったです…。


イランはかなりのレベルまで発展した国だ。もはや先進国といっても過言ではないほど物質的に豊かな生活がここにはある。インフラに関してはここ一年ほど旅した地域とは比較にならないほど整備されている。人々の生活も豊かに見える。ただの生活用品だけでなく、電化製品など生活を楽しむための物品も豊富にあるし、大抵の人は清潔で整った服装をしている。聖地やイラン人にも人気の観光地に行けば、家族連れの旅行をしている人々がごく普通にそこにはいるし、マニュアル化されたお土産グッズもある。
しかし、それにもかかわらず、物価は非常に安く抑えられている。発展しているのも物価が安いのもやはり産油国であるということが理由だろう。ガソリンの値段は1ℓあたり、800Rls、約10円だ。バスはVOLVOのDXバスであるにもかかわらず、7、8時間の都市間移動を30000~40000Rls、375~500円ドルでできる。宿も電気は24時間、ホットシャワーも充分出るから、その設備からしたら非常に安い。食事はバリエーションに欠けるが、高いと感じることはない。イラン経済の実状も人々の生活の実態も知らないが、大半の階層で生活が苦しいと感じてはいなさそうだ。そしてそれはツーリストにとっても同じことで、平均すれば1000円あれば何とか一日暮らすことができる。こんなに費用対効果でツーリストに優しい国はそうないと思う。


 
 マシュハドのエマーム・レザー廟の前で。


イランに入国した時点では一気にトルコまで駆け抜けてもいいかなと思っていた。しかし、イラン最初の町、マシュハドで数日間過ごすうちにやはり他の町も見ておこうと思い始めた。イランという国そのものに対して期待を抱かせるほどマシュハドのエマーム・レザー廟(ハラム)はすばらしいものだった。そして、退屈に感じてしまったのもあるいはハラムに最初にいったためかもしれない。
厳粛な宗教施設であるハラムには持ち物検査、ボディチェックをしてから入り、もちろん写真撮影は禁止だ。門をくぐり広場に足を踏み入れると信仰心というものを知らず、第6感的な感覚にうとい自分にも空気が変わり、パワーがみなぎっている印象を受けた。敷地内にある建物はすべてペルシャ文明、イスラム建築の美の極致だ。巨大な建物を見上げ、そこに施された細密で緻密な装飾を眺めていると思わず感嘆の声を上げずには入られない。棺が納められている中央にある金色の屋根を持つ建物の内部にはさらに圧巻させられる。床には一面に踏むのをためらってしまうような美しいペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には幾何学模様が切り取られた鏡で描かれている。シャンデリアや無数の照明から照らされる光がそこに乱反射し室内はこれまでに見たことがない別世界のような光景が広がっていた。
しかし、私がここにパワーを感じたのは建築物のすばらしさもさることながら、ここに巡礼に訪れている人々の姿に対してだった。エマーム・レザー廟は生きている宗教施設だ。特に棺が納められている建物内では皆、メッカの方向に向かって座り、さまざまな書物を読み、祈りをささげている。
棺の近くでは周りの粛然とした雰囲気とは打って変わって誰もがそれに少しでも触れようと人々が入り乱れていた。必死に棺の柵にしがみつき、感激のあまりに叫び、泣き出す人もいる。誰もが感情をあらわにし、信仰に生き、喜びを持っているように思える。自分はただそれを見ている傍観者だ。
ハラムには毎晩、食事を終えるとここに通った。静謐な雰囲気は心を落ち着かせてくれたが、同時にここの雰囲気と光景は気持ちを深く深く思考の渦に沈ませる。
ハラムには家族連れや仲間とあるいは一人で祈りをささげに来るさまざまな人が行きかっていた。
イランにおける人間関係は非常に温かさを持ったもののように思える。
家族の絆はとても強い。父親は大きな父権を持ち、家族に対して絶対的な存在のように見える。そして、ただそれだけではなく、それにともなった大きな責任を背負っているように見えた。イスラム社会において女性は差別を受けているという意見もあるかもしれないが、私には母親は女性として別段、大きな不幸も悲劇も背負っているように見えない。子供たちは格好の遊び場を見つけた様子で広場を駆け回り、敷き詰められた絨毯の上を転がりまわる。そんな家族連れが手をつないで私とすれ違い、通り過ぎていった。男は男らしく、女は女らしく、子供は子供らしく振舞っている。
若い男の二人組みが何かを話しながら、目の前を歩いていく。その自然な感じは彼らが同年代で長年の関係を持っていることを表しているようで、なんだか懐かしさを覚え、しばらくそういったもの触れていない私はそのうしろ姿を目で追っていた。
マシュハドにきて3日目も夜になるとハラムを訪ねた。その日は何か特別な日らしくハラムは屋内だけでなく、広大な広場にも絨毯が敷き詰められ、そこは人々で埋め尽くされていた。そして、屋外では聖職者によるコーランではない聖典の朗誦が生放送で流され、それに続いて巡礼者たちもその聖典を詠み上げていく。
そんな壮大な祈りの光景を端に座り見続けた。そうこうしていると込み合った絨毯に座る場所を見つけられず、隅に座る場所を求めてきた、私と同年代の男が横に座ってきた。彼は聖典を詠みつつも、地べたに座っていては冷たいだろうと私を彼の敷物上に座らせてくれ、私にいろいろと気を使ってくれる。そして、ときおり、片言の英語で今日の日の意味をなんとなく教えてくれる。伝えたい言葉がわからないのだろう、困ると彼はとりあえず「I love」そう何度も繰り返した。そういう時の彼の目は確信に満ちていた。なんだか急にいたたまれなくなってくる。途中で退席して宿に戻ることにした。
彼らはイスラムという唯一無二の確信を持っている。そして、ある程度の生活をもち、信じるものがあって、守るものも、頼るものもある彼らは自分の目にはとても充足し、幸せそうに見えた。毎晩、ハラムの中でそんな人々を見ていると自分はよくわからなくなった。自分は一体、何を信じて、何を守って、何に頼ればいいのだろう。


                
                シラーズの旧市街で。


    
 シラーズのバザールで。


 
 シラーズの水パイプ屋で。
 タバコを吸う水パイプもあるが、これはストロベリーやオレンジ、バナナなどの味があるキャンディー状のものを炭で燃やして吸っている。
 ぼこぼこと小気味の良い音を立てながら吸っていると、…少しくらくらしてきて気持ちが良いです。


マシュハドの後、ヤズド、シラーズ、エスファハーン、そしてテヘランと回り、旧市街やバザール、モスク、遺跡、名所と見て回った。しかし、モスクや遺跡はヤズド、シラーズもペルセポリスもエスファハーンのエマーム広場でさえもマシュハドのハラムに比べれば数段劣るという印象は拭えなかった。
街やバザールを歩いても、エスファハーンに気に入った場所はあったものの、しかし、のめりこむといった感じではなった。イランのバザールは私にとってははじめての屋内に広がるイスラム圏のバザールだったが、そこにしても旧市街にしても、活気というか人の生活というものを強く感じることはがない。扱っている工芸品や絨毯、貴金属類はきらびやかでレベルの高い品物ばかりなのだろうが、自分のように特別ほしいものがない人間には最初のうちはものめずらしさからもいちいち見て回っていたが、しばらくすると何も感じず、ただ写真を撮っているだけの自分に気づく。ラマダン中であることもあり、夕方には店を閉めるところも多く、昼にも閉めていることもあり、そのことも活気のなさを感じた理由のひとつかもしれない。
電力が充分にあるためバザール以外の店は夜でも営業している。街灯が煌々とつき明るい夜の街には人通りもあったので久々に夜の散歩もしてみたが、同じようなものしか並んでいない店や食堂しかなく歩いていてもすぐに退屈してしまう。


    
 シラーズ近郊にある古代ペルシャ遺跡、ペルセポリスで。


 
 シラーズのバザール内にあるペルセポリス風のオブジェ。


イランの街並みは退屈だったが、しかしイラン人とはよく話した。聞いていた話では一部の不良イラン人はかなり激しいことをやってくるというので少し身構え、楽しみ?にしていたがそんなイラン人には一度も会わず思わず拍子抜けをしてしまうほど、この国も気さくで親切な人が多い。若い男は相変わらずだんだんと調子に乗ってくるが、インドやアフガンの人に比べると親切の種類が違うというか、どことなく紳士的に振舞う人が多かった。
バスの路線がわからないでいると途中までわざわざついてきてくれた人がいたり、ピクニックをしているイラン人家族の食事風景を眺めていたら、相当卑しい目つきだったのかもしれない、一緒に食べないかと誘われたりもした。
水パイプ用の炭の火をおこせないでいた若者たちを手伝い、火をおこし、一緒にパイプを吸いながら話をする。英語は得意ではないので連続の会話はとても疲れるし、たいてい果てしない長話になることが多いので、きりのいいところでさっさと切り上げようと思っていた。けど、不思議と疲れることもなく、あたりが暗くなるまでそのまま話続けた。
中学生、高校生ぐらいの女の子からも何度か、これは逆ナンか、と思うような感じで話しかけられた。まさかイランでチャドル姿の女性から話しかけられるとは思っていなかったので、よからぬ思惑があるのではとも思ったが、イラン女性は外見や外聞とは違い、一部の人は結構リベラルなようだ。エマーム広場で二人組みの女の子と30分ほど立ち話をしていた時は家族の所にまで招かれて、結局2時間も話し込んでしまった。しかし、同時に保守的な人々も当然いて、一度、公園にいた兄妹の写真を撮らせてもらおうと兄に同意を取り、撮影をした。しかし、その後、母親から兄は叱られたようで、私にその写真を消せといってきた。どんなに小さな子供でも女である以上は写真に撮られることを望まない人々もいる。


                
                エスファハーンの川沿いでピクニック中に。
                イラン人は公園など屋外でよく食事をしていた。


 
 エスファハーン、エマーム広場で。娘さん二人に誘われ、家族で夜のお茶を楽しんでいるところにお邪魔させてもらう。


        
 エスファハーンの児童公園で。付き添いの大人と雑談をしつつ。
 自主的に嫌がる子も積極的にカメラの前に立つ子もいる。


だから、別にイランのせいではなかった。きっとイランのみを単発で旅すればもっと違った見方ができたのだろう。それにひとつの町に1、2泊しかしないのは自分のスタイルじゃない。ひとつの場所に長居して、その町のことをいろいろと知り、町の人間と知り合う。いまさらながらそれが自分のスタイルなんだと確認したイランの旅でもあった。しかし、エスファハーンでゆっくりと1週間過ごしてそう思っても、良いか悪いか次に行きたい場所が決まってしまうとどうにも落ち着かない。全く矛盾しているのだが、テヘランも2泊で切り上げ、ヨーロッパの入り口となるトルコへ向けて夜行バスでイランを後にした。

ヘラート

2006年10月11日 | Around the world 2005-2007
 
 街角で。今回はヘラートで撮った写真です。


 
 ヘラートのランドマーク、マスジッデ・ジャーメで。


 
 マスジッデ・ジャーメ内にあるマドレセ(神学校)の生徒たちと雑談しながら。
 この後、聖職者である彼らの先生がやってきて、イスラムについて少し教えてもらった。


 
 マスジッデ・ジャーメの手洗い場?で。礼拝は手足を清めてから行う。


 
 同じくマスジッデ・ジャーメ内で。敷地内は芝生が敷かれ、花が咲いている。


 091 路地裏の住宅街で。基本的な家の作りは変わらない。子供たちには歓迎されたが、部族社会アフガンにおいては、あまり部外者が生活区域に入り込みでくるのを好まない人もいる。通りがかりのおじいさんに「危ないから早く出なさい」とやんわり注意され表通りに出て行くことに。


 
 アフガン人にお茶に招かれ、単語だけの会話ながら、楽しいひと時。
 がしかし右端のおっさんはヘロ中だった…。
 アフガンで製造されたヘロインはヘラートを通じて、イランへ、そしてヨーロッパへと流れ込んでいく。


 
 住宅街にある商店で。イラン商品が多く並んでいる。


 
 ヘラートの大通りで。この街の道路沿いには街路樹として松の木が植えられている。ヘラートはアフガン内で最もインフラの整った都市であるらしく、同じアフガンでもカブールと比べると街並みは整然とし、だいぶ違った印象を受けた。


 
 果物屋の前で。ここにも安くてうまいフルーツがたくさんある。
 日課のように毎日、夕方になるとフルーツを買いに行く。


       
 ヘラートの子供たち。
 どこがといわれると正確に表せられないが子供の顔つきも少し変わった気がする。
 服装も洋装の子が増えて、清潔で都会的な感じがある。


       
 ヘラートの男たち。左の人のようにビーズを付けたり、刺繍を施した帽子をかぶっている人もいた。


 
 ヘラート最後の日に喫茶店の前で。次はイランに向かいます。

アフガン横断 その3 着ヘラート、そして…

2006年10月09日 | Around the world 2005-2007
チャクチャランで迎えた4日目の朝は遅くまで眠ることができた。その日も2時にはいったん起き、食事をしたが、ヘラート行きの車は7~8時に出るということだったので、再び眠ることにした。7時半ごろに車がたまる場所でヘラート行きを探したが、トヨタのランドクルーザーしかないという。ハイエースはもう全て出発したようだった。ランクルとハイエースでは料金が200AF違ったので、それでもしばらくハイエースを探したが見つからない。一台のランクルは私が乗れば出発するようだった。20~30年落ちのいわゆる高級車としてのランクルではなかったが、最後にランクルの乗り心地を楽しんでみるかと思い、1000AFでヘラートまで向かうことにした。
前日、チャクチャランの手前から道は急激によくなった。町中の道路もある程度、整備されており、もしかしたらヘラートまでこんな道路が出来上がっているんじゃないかと淡い期待を抱いていたが、そんなものは一瞬で打ち砕かれた。すぐにこの二日間よりも酷い悪路になっていった。ランクルしかなく、200AF余計に払ったのはむしろついていたのかもしれない。外見からは想像もつかないような性能を持っているハイエースといえど走れるとは思えない道なき道をランクルは突き進んだ。


 
 今回の車と運転手のおっさん。
 前回に続き、助手席に座らせてもらったが、そこは二人用ということで体格のいいおっさんと相席をすることに。
 常に体を密着させていたからか走行中やチャイハネでも何かと世話をしてくれた。


 
 車内から。雄大な景色がどこまでも続く。


今回の乗客は全員が敬虔なムスリムだった。チャクチャランまでの乗客は休憩中、食事をしていたし、車内でタバコも吸っていたので私もそれに習い、食事もたべ、タバコも吸っていた。異教徒や外国人はラマダンを強制されることはないが、今回は誰もやらないのでやはりそれに習い、食事も水もタバコも控えた。食事とタバコは我慢できるが、日中の日差しが厳しく、のどは渇く。しかし、何かを飲もうにも商店のあるような場所に休憩しないので飲みようもなかった。次第にのどはからからになっていった。そんな時、我慢しているのを察してくれたのか、私の隣に座っている男性がタバコを勧めてくる。腹も空いていたし、のども渇いていたので、タバコはむしろ吸いたくなかったが、運転手もしきりに吸え吸えといってくる。あまりにも何度も勧められるので半ば仕方なく吸うことにした。タバコを吸うとますます空腹感を覚え、口が気持ち悪くなっていった…。


 
 今回の乗客はみんなで1日に3回礼拝を行っていた。写真は昼の礼拝の様子。


 
 運転手さんの礼拝を撮らせてもらう。最初に神の声を聴いて、


                
                精神統一をし、


                
                この後、二つポーズがあるが、神に頭を下げた後、祈る。
                ムスリムの礼拝方法はジェスチャーが何を示しているかわかりやすい。


 
 礼拝終了後、野原でくつろぎながら撮った今回の同乗者たち。


チャクチャランからの風景は変化に富んでいた。砂埃の舞う、砦のような廃墟が点在する山道を走っていたかと思えば、谷間にできた草原の中を走ることもあった。その草原には遊牧民が暮らしており、多くの羊や山羊が草を食んでいた。途中の村に暮らす人々は都市部の人々に比べると素朴でさらに保守的な印象を受けた。特に女性はカブールでは見なかった色鮮やかな衣装をまとっていた。主に赤や緑、ピンク色の布に金銀に輝く金属片をつけている。都市の文明から遠く離れ、伝統的な習慣や風俗が根強く息づいているであろうこの地においては、イスラム教の影響も強いようで、女性たちは車内から顔を突き出して外を眺めている私と目が会うとスカーフで顔をさっと隠す。小さな女の子で恥じらいを持っており、あわてて顔を隠すか、目をそらしていた。


 
 休憩地の村で。
 最初は誰も寄ってこなかったが、何枚か写真を撮っていると、我慢できなくなったのか、子供も大人も寄ってくる。
 木に登っている写真を撮ってくれといわれた一枚。


 
 車内から。谷間を蛇行する川に沿って遊牧民が所々にいた。
 何度か遊牧民の犬が車に向かって吠えてきて、『深夜特急』状態(文庫本第4巻)を体験できた(笑)。


 
 故障したトラックが道をふさいでいる最中に。
 近くにいた少年たちと荷降ろし作業を眺めながら。


                 
                 途中の集落で。


 
 アッラーは偉大なり。しかし、USAはもっと偉大なのかもしれない。
 こんな山奥にもUSA製の植物油がきている。


車は深く山の中に入っていくと、これまで砂埃の舞う山ではなく、ごつごつとした岩山のある山中を走っていった。およそ人が住むことはなさそうな所を1時間も走っただろうか、運転手がしきりに「モナリジャン、モナリジャン」と言い出す。何度もいわれている内にそれはジャムのミナレットを指していることがわかった。しかし、地図で見る限りジャムは道路から大きく離れている。ジャムに行きたいならこの付近で乗り換えろということなのだろうかとりあえず「ヘラート、ヘラート」と返しておくことにした。岩の道が終わり、多少安定した道に入ると再び「モナリジャン」と山の向こうを指で示す。もしかしてここがジャムなのか、そう思いながら、車が山の裾を回りこんでいくとそこにはジャムのミナレットがそびえ立っていた。


 
 山奥に突然現れるジャムのミナレット。
 補強はされているが、川に浸食されていてやや傾いている。世界遺産に登録されている。


 
 壁面には彫刻が施され、青の塗料も若干、残っている。


 
 近くにいた少年と。ちなみにここは警官がいて「鑑賞料」なるものを5ドル請求される。


ミナレットで10分ほど休憩した後、車は畑に囲まれた一帯を走り、村の中に入って行った。これまで見てきた景色はどれもきれいなものばかりだったが、特にこのジャム周辺の景色は素晴らしいものだった。日は傾き始め、車内には強い西日が差し込んでいた。それを避けるために私はずっと外を眺めていた。所々に立っているポプラの葉は緑からグラデーションを描きつつ黄へと移り変わっていた。アフガンの色は濃く、深い。まるで蛍光色のように色の彩度が強い。そんな色を持ったポプラの葉は強い光に打たれて、きらきらと輝き、風に吹かれるたびにその光の渦は幻想的に揺らめいていた。村の中を流れる小川もきらきらと輝き、ラダック同様に乾燥地帯であるにもかかわらず、瑞々しい空気に包まれていた。夕日に染められた村の通りには息子をロバの背中に乗せた親子が歩き、少女たちは鮮やかで美しい衣装を着て、壁や土手に座り遊んでいた。何か全てが超然的で、そんな光景を眺めていると息が詰まりそうになった。あまりにもきれいすぎて、美しすぎて、なんだか悲しくなり、涙が出そうになった。自分の持っている言葉ではその美しさの1割も表現できそうにない。膝に置いたカメラもそのままにしておいた。
そのうちこの村にも物や情報が入ってきて、良くも悪くも変わっていくのだろう。通りがかりの人間のエゴなのだけれど、ずっと変わらないでいて欲しいと思う。

村を通り過ぎると今日も日は急速に暮れていった。18時になり、信仰心の篤い集団であった今回の乗客はこの日、初めての食事を休憩地のチャイハネで取った。もうあたりは暗く、今日はここで泊まるのかと思っていたが、食事を終えると再び出発するぞと車を指差される。
走り出した車はしばらくすると真っ暗闇の中、山肌に沿って走っていった。時々、対向車とすれ違う以外は全くの闇で、道を誤って谷底に落ちてしまいそうで恐ろしい。さらに、このランクルは左後輪に問題を抱えていた。途中の村で修理をしていたが、再び故障が発生したらしく、後方からいやな干渉音が聞こえてくる。運転手は騙し騙し走っていたが、ついに限界が来たらしく、周辺に何も暗闇の中、車をいったん止めて、応急処置をしだした。私も車に関しては少し詳しいのでその処置を、ライトを照らしがてら見ていたが、どうも部品の一部が完全に外れてしまい、デフオイルが漏れているようだった。こんな状態でこの先どれだけ走るか知らないが大丈夫なのだろうか。修理はその部分に当て布をして、紐できつく縛るだけで終わった。思わず「大丈夫かよ」と日本語でつぶやくと、運転手は「さぁもう大丈夫だ、いくぞ」と車をまた走らせた。
暗闇では景色を見ることもできず、だが時間も気にならず、もうどうにでもなれ、どこまででも走ればいいと、ただ闇の中に視線を送り続けていた。途中途中に小さな集落らしきものはあるものの、どこからも灯りは見えず人が住んでいるのかどうかすらわからない。そうかと思うと、暗闇の中をライトも持たず歩く男性が現れたりする。その集落のことや男性のことをぼんやり考えているうちに下のほうにいくつかの灯りが見えた。私の隣に座っている男性もその存在に気づき「デリタクト」と指差す。
山を降り、川にかかる鉄橋を渡るとそこがデリタクトの村だった。時計を見ると21時を過ぎていた。移動も4日目になり、さすが疲れてきた。この日のチャイハネは込み合っていて、他の客と足を絡ませあいながら、そして、移動中のチャイハネでやられたダニの痕をかきむしりながら眠りに落ちていった。


 
 休憩地にいた親子。


 
 小高い丘の上に砦のような建物のある村で。


最終日の朝も3時にランクルは走り出した。しかし、故障を抱えた車は急な坂道を登ることができない。坂道で止まりそうになると運転手が怒鳴り声を上げ、その声でみんなが一斉に車を降り、そして、車を押す。その勢いで車だけ坂道を駆け上がっていき、私たちは歩いて山道を登っていった。まだ深夜の山中で月だけがそこにぽっかりと浮いていた。10月上旬でも冬のような寒さだった。真っ白な息を吐きながらいそいそと車に戻っていく。そんなことを数回、繰り返しながら車はヘラートに向かっていった。


 
 途中のチェスト村で。この村には廃墟と化したモスクと新しいモスクがある。
 写真と関係ないが、廃墟のモスクの横には検問所があり、私は荷物をすべてチェックされた。
 道中、ところどころにあった検問所で運転手は毎回、賄賂を渡していた。
 中部ルートには法的に銃をもった山賊がおります。


 
 同じくチェストで日の出を眺めながら。この村には通り沿いに松林があり、ここまでの村とは違った雰囲気。
 この村を過ぎてしばらくいくと平野になり、道の両側には広い耕地が広がっていた。大量のラクダを引き連れた隊商もいる。


ヘラートまで後わずかというところで車はアスファルトの舗装路に出た。この時、感じた感触は衝撃だった。文明というものの凄まじさを知った。ただ、車がスピードを上げて走るというだけで、まっすぐ走るだけで、振動がないだけでこれほど快適になるとは。
ヘラートの町に着くとそこにはカブール同様に車が走りまわり、商店が軒を連ねていた。ランクルを降り、同乗のみんなに別れをいい、宿探しのためにヘラートの街を歩いていると、何だがハイになってきた。そして、同時にいろいろ終わったなぁと思っていた。
今回の移動はこの旅の中で一番きつかった。朝から晩までまるで舗装がされていない道をすさまじい砂埃を巻き上げながら走り続け、時にはただの荒野を走った。ラマダン中で日中、食事も食べられず、水も飲めない日もあった。こんな移動はこの後もうないだろう。
なによりもうこんなことはしばらくいいやと思ったし、同時に深く満足している部分もあった。
旅を始めてからずっとアジアを旅してきた。けど、アジアというのは非常に曖昧な枠組みで、民族も宗教もばらばらなら共有する歴史もないこの地域のどこからどこまでをアジアと呼べばいいのか私にはよくわからない。でも仮にアジアの旅の醍醐味が未開や未知との出会いや冒険じみたことだとするならば、アフガンの旅と今回の移動でそれは十分過ぎるほど満喫できた。
自分の中でアジアの旅は終わった。だからハイになっていた、次はヨーロッパだぞと。久々に旅が動き出していると思った。


 
 ランクルの車内で。みんな本当にお疲れ様でした。

アフガン横断 その2 ~チャクチャラン

2006年10月07日 | Around the world 2005-2007
アフガンの朝は早い。前回も書いたがチャイハネのそれは尋常ではない早さだった。2時起床である。午後じゃない、午前の2時に起きる。普段はどうだかわからないが、これはラマダンの影響もあるようだった。ラマダン中のアフガン人の生活は特異だ。カブールの宿の仲介者、アマノディンさんもラマダン中は2時ごろに起きていた。最初はこんな時間に起きて、食事をしている気配があるので何をやっているんだろうと思っていたが、それはラマダンを守るためのものだった。ラマダンとは日が出ている間は食事をしてはいけないというイスラム教の戒律だが、そのために敬虔なイスラム教徒は日の出の前に起きて、食事をする。そして、食べ終わるとまた寝てしまう。そして、朝に起きて、日中は何も食べずに過ごす。全く、信仰を示すためにそんな生活を少なくとも28日間はするのだから頭が下がる。後日、イスラム教の聖職者の方と知り合い、その理由を尋ねてみた。答えは「胃のため」というものだった…。こんな生活していたら逆に胃を悪くすると思うが…。


                
                2日目、途中の休憩中に。時間は7時半だが食事をしている。
                旅行中は断食をしなくてもよいことになっているが、
                普通の生活を送っていても食べている人は多いようだ。
                イスラム教徒だからといって誰もが守っているわけではなく、
                厳密に守っている人は少数派かもしれない。
                今回乗った車の中で一切、食べ物も水も口にしなかったのは一人だけだった。

チャイハネではほとんど人は食事をした後、そのまま出発していった。私の車も3時には2日目の移動を開始した。
二日目以降、一部の道はもはや道ではなかった。いや、確かに道らしきものはあるのだが、それを道と呼ぶには本当の道に対して失礼だと感じてしまうほど微かなものだった。道と呼ぶのが不適当なら線とでも呼んだほうがいい代物だ。
不思議だったのはいくら走り慣れているとはいえただの荒野であり、ろくな目標物もないそんな線を運転手は何の迷いもなく、ハンドルをさばいていることだった。最初、この人はわかっていて運転しているのかなと不安に感じていたが、しばらくするとわだちや多少、ならされた道に出るからすごい。


 
 旅の道連れたちとハイエース。この車に14人乗っている。
 自分は助手席だったので楽だったが、後ろはさぞきついことでしょう。


                
            乗客の兄さん。アフガン人にとってスカーフは必需品。こんな風にも巻く。


 
 アフガンの農村風景。


 
 トイレ休憩中に。道はこれで良いほうです…。


ハイエースは所々で休憩を取りながら、時速20km程度のスピードで悪路を走り続ける。日本では業務用の車でオフロードを走る車ではないイメージだったが、急勾配の坂道を4WDにして登ったり、時には川の中にまで突っ込んでいったり、オフロードでも充分よく走る。日本で走っているRV車なんてきっとその性能の1割も使っていない。
酷い悪路ではあったが、自分は関係なくよく眠った。他の乗客から笑われるほど、どんな振動にもめげずに眠り続けた。素晴らしい景色だったから見ていたいと思っても、しばらくすると睡魔が襲ってくる。この時だけは自分の悪路に入ると逆に眠くなる体質が恨めしく思った。


 
 途中の村で見た脱穀風景。鍬でまき上げて、自然風で脱穀している。


                
                上記の村に暮らす兄弟。


 
 パンジャオ村で。


しばらくそんな風に寝たり起きたりを繰り返していると、2日目の太陽も徐々に沈み始めていった。人工物が何もない荒野、山の向こうに日が沈んでいく。乾燥したアフガンの大地には埃が舞い上がっており、先の視界は少しぼんやりしている。そんな空気に夕日は反射し、空は真っ赤に染まっていった。
日が沈みきり、灯りは車のライトしかないような状況でも車はこの日の目的に向けて走る。この人たちの体力は超人的だ。今日は朝から12時間以上、車を運転している。日本の道路みたいに前だけを見ていればいい運転じゃない。振動に揺られながら、路面状況のよいところを選んで、頻繁にギヤをチェンジして進んでいく。大きな窪みや乗り上げたら危険な岩もいたるところにあるから先の状況にも注意を払わなければいけない。おそらくこの運転手は毎日のようにこんな運転をしているのだろう。慣れてしまっているといえばそうなのかもしれないが、それでも全く疲れたそぶりは見せず、暗闇の中でも確実に道を選んで走っていった。21時ごろ、この日の移動はようやく終わった。


 
 途中の村で。


                
                中部に住むアフガン人。


3日目の6時ごろ、ハイエースはラールに到着した。当初の予定ではこの車でそのままチャクチャランまで行く予定だったが、多くの乗客がこの町で降りたため、再び車が満席になるまでこの町で待機するようだった。待つしかないので、辺りを散歩したりして時間をつぶしていたが、そうこうしているうちに車内で仲良くなったアフガン人が他の車に乗り換えようと持ちかけてきた。どうもそちらの車のほうに乗客が集まりだしているので、早く出発できるようだった。いずれにせよ、その車も乗客を辛抱強く待っており、ラールを出発したのは13時をまわる頃だった。
ラールから先はなだらかな道が続いた。


 
 ラール村で。


 
 乗り換えた車とラール目抜き通り。奥地の村だが、物資は豊富にあった。NGOの施設もある。


 
 ラールのチャイハネで。この地域はハザラ人が多く住む。日本人といっても通用しそうな顔つき。


 
 ラールの子どもたち。


 
 チャクチャランのチャイハネで。3日目の夜にひとまずチャクチャランに到着。
 車によっては2日でここまでつけるかもしれない。


 
 同じくチャイハネで。
 ここは小さいチャイハネだが、大体これぐらいのスペースの中、みんなで雑魚寝する。

アフガン横断 その1 出カブール

2006年10月06日 | Around the world 2005-2007
私は移動をする時に二つのルールを設けている。
まず大西洋に達するまでは「飛ばない」。
そして一度行った町に「戻らない」だ。一回、バンコクに戻ってしまったことがあるが、それ以来は、馬鹿馬鹿しいがわざわざルートを工夫して戻らないルートを作ってきた。
今回の移動も一度カブールに戻らずにバーミヤンから直接マザリシャリフに行きたいと思っていたが、バーミヤンから北部へと向かう車を見つけることはできなかった。2、3台の車が行くといったが、それらは全てチャーターで、400~500ドルの料金はとてもじゃないが払うことはできない。
確実なのはカブールに戻ることだった。カブールからならマザリシャリフ行きは多数ある。それにメジャーでない道をたどり、ヒッチをせざるを得なくなったとき、治安面での不安もあった。カブール、バーミヤンでの安穏とした日々はアフガンの治安に対する認識を確実に甘くしていた。料金のこともあったが、安全のためにも一旦、カブールに戻ることにした。
カブールに戻り、すぐにでも、マザリシャリフに行こうと思ったものの、実際にはまだ迷いがあった。それはカブールからイランに近いヘラートに行くにあたって北部、南部どちらのルートをたどってアフガンを横断するかだ。
戻ってはしまったものの、飛行機を使うことだけは選択肢に完全に無かった。南部ルートは道路も整備されており、2日でヘラートまでいける。アフガン人がバスでヘラートに行く時は通常このルートを通ることからも車の往来は相当あるようだ。しかし南部はタリバン勢力が多数存在し、いまだに戦争状態にある地域であり、治安面で相当な不安が残るカンダハルを経由していく。料金も安く、移動も楽ではあるだろうが、あまりにリスクが高い。
北部ルートはマザリシャリフまでは簡単にいけるとわかっていたが、しかし、そこから先は車があるかどうかもわからず、仮にあったとしても2、3日間、ひどい悪路を走るらしい。その上、山賊が出る可能性もあるとのことだった。
いずれにしても、陸路を取る以上はどちらにしてもリスクがあるのは間違いなかった。

カブールに戻って3日目、いよいよ明日、マザリシャリフに行こうと思っていたとき、一人の日本人旅行者と出会った。話を聞くと、つい先日、アフガン中部に位置し、世界で2番目に高いミナレットがあるジャムに行ってきたという。そして、その人の話によれば、今までないと思っていたが、中部ルートでもヘラートまで行くことはできそうだった。ジャムのミナレットには特別な興味を持っていなかったが、最新の確実な情報であり、治安面でも相当な確信が得られため、即、そのルートを取ることを決定した。

所要日数5日間、費用はカブール、ヘラート間の飛行機代と同じ50ドル。移動だけで考えれば全く何のメリットもない中部ルートだったが、きついかわりにきっとここでしか体験できないことばかりだった。
今回から3話は中部ルートによるアフガン横断編です。


アフガンの朝は早い。バーミヤンに行く時も、帰ってくる時もそうだったが、バスは大体、早朝4時から5時ぐらいに出発し始め、6時にもなると大方の車は出払ってしまっている。今回も前日に予約をしておいたタウンエースは5時半に出発する。まだ日が昇っていない深夜のカブールを車が出るカブール郊外のポリホシュカに向けて出発した。
大体の相場から150AF程度だろうとにらみ、捕まえたタクシーの運転手に行き先の住所と交渉対策でまずは100AF札を見せると、よくわかっていないようだったが、乗れといってくる。タクシーの車内から最後のカブールを眺めた。これで本当にこの町ともお別れだ。
運転手は案の定、場所をよく理解していなかった。私は場所を知っていたので身振り手振りで伝え、何とか到着し、運転手に100AFを渡すと、なんだこれはとさらに200AFを要求してくる。住所を正確にわかっていないくせに乗せる方が悪い。払う気はさらさらなく、立ち去ろうとすると、私のバッグをひったくろうとしてくる。ひと気のない場所だったが、恐ろしく力の強いアフガン人とつかみあいをしながら、お互い怒鳴りあっていると、人が集まってきた。仲裁が入り、そのうちの一人が運転手と話し始めた。誰も英語がわかる人はいなかったので、推量になるが、運転手は最初から300AFだといっていたらしい。仮にそういっていたにしろ、距離からしても彼はボル気まんまんだったという訳だ。
アフガン人は基本的に皆、かなり親切だが、結構、ぼってくる。外国人料金の概念があって、宿などは最初から高めの設定をしてあるし、野菜やジュース、タバコなどでも1、2AFと細かくぼってくる。特にタクシーなどの運転手は、これはどこの国でもどうだが、質が悪い。バーミヤン行きで乗った車も到着後に「荷物代だ」と私のバッグを蹴りながら100AFを追加で要求するというわけの解らないことをしてきた。
仲裁者はシャーリー・ナウからここまでで300AFは高すぎるだろうという感じのことを言っている。それをいわれると運転手も返す言葉がないらしい。ぶつくさと文句を言っていたが、いずれにしろ100AFは少し安いようだ。仲裁者も外国人だからいいだろうと、もう100AFを払えといってきた。これ以上、事を荒立てるのも面倒くさくなり、100AF払い、その場は収まったが、これから大移動だというのに幸先が悪い…。
仲裁者はバス会社の人間だった。彼に前日、別の人に書いてもらった紙を見せると、それはもう出たといってくる。前日、予約をしたいなら100AF払えといわれ、レシートももらっていた。長距離用のタウンエースは席が埋まると発車する交通機関なので、おそらく、乗客が早々に集まったために私のことなど関係なく、出発したようだ。ふざけている、何のための予約金だ。「今日はもうだめだ、明日ね」といっているが、しつこく食い下がっていると「しょうがねえな」という感じで別の場所へと連れて行かれた。


 
 まずはアフガン中部の主要都市、チャクチャランへ向かう。料金は1500AF。所要3日間。
 写真は今回、乗った車、5列シートのハイエースと運転手のおっさん。6時15分に荷物を車に載せたが、ここからが長かった…。


出発時間を聞くと最初は10時だといっていた。10時を過ぎても出る気配がないので、また聞くと今度は12時だという。12時を少し過ぎた頃、車は動き出した。しかし、意味不明の行動を取り出す。出発地と最初に行った場所を2往復し、途中のチャイハネで再び停車した。全く理解ができなかった。幸い、一人、英語が堪能な人がいたために理由を聞くと、警察対策、つまり、賄賂を避けるために出発は16時になるという。それならそれで最初から言えばいいじゃないか、君たちはインド人か…。


 
 バス会社にいた兄弟。二人とも外で寝ていた所を見ると親はいないのかもしれない。
 早朝、仕事を始めるために邪魔になっていた弟を兄がたたき起こすと、弟は泣きじゃくった後、隅のほうで放心状態になっていた。
 あまりに動きがないし、兄のほうは忙しく動き回っていたので、相手をしてやろうとしたが、何をやっても関心を示さない。
 しばらくして、見てみると兄と普通にじゃれあっていた。二人で強く生きているんだな。


16時を過ぎ、ようやく車は出発した。結局、10時間もカブールを出るのにかかってしまった。待ちくたびれて、車が動き出すとすぐに眠りに落ちてしまった。
中部ルートは途中までバーミヤンに行く道と同じ道路を走るようで、目覚めると見覚えのある風景が見えた。ちょうど18時になる前でこの日のラマダン終了に備えて、皆、リンゴを買い、そして、夕方の礼拝をしていた。再び車は走り続け、20時過ぎに、これもやはり見覚えのあるチャイハネに止まり、この日の移動は終わった。
アフガンのチャイハネはただの喫茶店ではなく、食堂であり、簡易宿泊所でもある。食事をすると、無料で雑魚寝ができるシステムだ。
食事を終えると皆、思い思いの方法で夜を過ごす。チャイを飲みながら、雑談をする人もいれば、TVをかじりつくように見る人もいる。早々に毛布に包まり、眠りにつく人もいた。TVからは爆撃や砲撃の音を聞き続けて、耳がおかしくなっているんじゃないかと思わせるほどの音量がでていたが、私も明日に備えて寝袋に入り込んで眠ることにした。

バーミヤン その4 出会った人たち

2006年10月04日 | Around the world 2005-2007
 
 集落の子供たち。今回はバーミヤンで出会った人たちの写真です。


 
 カブールに続いてここにもいた変なおっさんたち。
 到着早々に会ったおかげでバーミヤンも変わりなく過ごせた。


                 
                 カンダハルのパシュトゥン人男性は目張りを入れているらしいが、
                 ここの子供にも目張りを入れている子供が何人かいた。


        
 バーミヤンの少女。色の鮮やかな服を着ている子が多い。


 
 バーミヤンの子供たち。やはり水汲みや子守など仕事を持っている。両端の子は石窟の中に住んでいた。


                
               畑であった子供たち。遠くから撮ったがカメラに気づいて近づいてきた。
               やっぱりしばらく開放してくれません。


 
 畑を散歩中に会ったおじいさん。英語で少しだけ会話をすると「家でお茶を飲んでいきなさい」と誘われる。
 散歩を続けたかったので断ったが、アフガン人は少し仲良くなっただけの人間でもお茶に招いてくれる。


 
 畑で働くおっさんたち。ここでも行く先々で声をかけてくれる。
 部外者を無視することなく温かい好奇心をもって迎えてくれた。


 
 バンデ・アミールのチャイハネのおっさんたち。
 実際に食べなかったが、ここでは湖で取れた魚料理も出している。


                
           バーミヤン最後の日、畑からの帰り道にあった集落の中で。
           この女性が歩いているのを見かけ、あっちには何があるのだろうと思い、ついていくと集落に入った。
           集落内で私がどっちに進もうか考えていると「バーミヤンはあっちだよ」と教えてくれる。
           若い女性から声をかけられるとは思っていなかったのでびっくりしていると、
           家から母親らしき人が出てきて、ジェスチャーと単語で会話した。
           アフガン人の女性といえど、誰もが部外者の男と話さない訳ではないです。

バーミヤン その3 畑の中で

2006年10月03日 | Around the world 2005-2007
 
 畑の中で。今回は畑の中を歩いた時に撮った写真です。


 
 仕事中の兄妹。ジャガイモを持ってにっこりです。
 バーミヤンの畑で作られているのは主にジャガイモのようだった。チャイハネで出てきたものも新ジャガなのか心なしかうまい。


                 
                 ジャガイモの詰まった袋の上に乗って。


        
 私が訪れた時期(9月下旬~10月上旬)は収穫も終わりに近づいた頃で冬支度が始まっていた。
 左:収穫したジャガイモは穴に入れて保存する。
 右:保存用の穴掘り風景。


 
 畑の傍らで何か語り合っていたおじいさんたち。
 この日は晴れ渡り、暑くも寒くもない、思わず日向ぼっこをしたくなる最高の天気だった。


 
 ロバが一頭だけたたずんでいた畑で。


        
 バーミヤンでロバは荷役に乗り物にと重要な家畜。いたるところで乗っている人を見かける。
 左:兄弟でロバに乗って移動中。
 右:ロバと同じ体格を持つおっさんたちも乗っている。


 
 村と村をつなぐ道の途中で。


 
 牛を使って土起こしをしていた。運搬もロバで機械を使っている様子はない。
 日本時代でいったら、明治とか江戸ぐらいの農業をやっているかもしれない。


 
 同じく土起こしの様子。
 お父さんが牛を操って、娘さんが後ろから追いかけ、取り残していたジャガイモを拾っていく。


 
 なんかロバの写真ばかりになってしまったが、このロバはきつく縛られ、身動きができない状態にされているなか、
 離れた所にいる仲間にむかって、しきりに鳴き声を上げていた。
 ロバの鳴き声は本当に泣いているみたいな切ない声だが、顔が間抜けなので笑ってしまう。


                
                日が暮れ始めても仕事は続いていた。
                最後まで見ていたかったが、日が暮れる前に帰らなければと、その場を去ることに。
                日の出と共に働き出し、日の入りと共に仕事を終える、そんな生活がここにはあった。


バーミヤン その2 大仏跡とバンデ・アミール

2006年10月02日 | Around the world 2005-2007
 
 東大仏跡の前で。今回はバーミヤンの石窟群とバーミヤン近郊の湖、バンデ・アミールの写真です。


 
 朝日の下で見る西大仏殿。石窟群は南側を向いているので日中は常に日が当たっている。


     
 左:東大仏殿を見上げる。
 右上:現在、バーミヤンの遺跡は修復作業が行われている。
    写真は大仏殿の崩壊を防ぐための補強作業中の様子。イタリアチームが行っているようだった。
 右下:アフガン人作業員の面々。


                 
            西大仏殿で。うっすらと大仏の跡が残っている。こちらも現在、修復中。


 
 高台から眺める東大仏殿と周辺の石窟群。遠くから眺めると石窟の多さがよくわかる。


 
 同じく高台から見る西大仏殿。崖は複雑な形で垂直に切り立っている。


        
 左:石窟群はバーミヤンの村に隣接してある。高台からは石窟群と共に村の風景を眺めることもできた。
 右:石窟の中に入ってみる。中には何も残っていなかった。一部の石窟には今も人が住んでいる。


 
 崖には登ることができる。写真は西大仏殿の上で。


 
 バーミヤン滞在3日目に訪れたバンデ・アミールで。
 バーミヤンで知り合った日本人旅行者チュンさんと二人でタウンエースをチャーターして行った。
 所要片道約3時間、往復で1台40ドル。アフガンの交通費事情からすると仕方ない値段。


 
 湖のほとりにある建物。すわ!!タリバン一味がいるのか、もちろんそんなことはない。写真を撮り終えて中をのぞいてみると、なんとそこは便所だった…。すごいブラックジョークだ。


 
 間近で見た湖。水はとても澄んでいて濃い藍色やエメラルド色に揺らめいていた。


 
 湖の色彩と周辺の山の無骨な感じ、それと空の色がマッチしていてとても雰囲気がある。1泊していいかなと思わせるところ。お勧めです。

バーミヤン その1 今日という日

2006年10月01日 | Around the world 2005-2007
 
 大仏跡の上から見たバーミヤン村。


カブールから北西に約150km、タウンエースで8時間ほどのところにあるバーミヤンは1本の通り沿いに村の機能の大半が集まっている小さな村だった。しかし、かつて巨大な石窟大仏像があり、そしてそれがタリバンにより破壊されたために世界的にも有名な村だ。
大仏跡は村からもその存在を見ることができる。歩いて5、6分かと思っていたが、それは大仏跡が巨大なため距離感を見誤ったためで、実際には15分ほどかかった。近づいていくほどに、広範囲に散らばる石窟群はその全容がわからなくなり、覆いかぶさるように奇妙な形をし、切り立った崖は覆いかぶさるように迫ってきた。
ここが有名なバーミヤンの大仏だという先入観から生まれてくる感情かもしれないが、目の前に立ち、見上げていると、当時の人々がここに石窟寺院を作ろうとしたわけもわかる気がしてくる。
しかし、正直な感想を言わせてもらえば、私はこの遺跡に対してそれ以上、特別な感情を抱くことはできなかった。確かに破壊され、廃墟と化している石窟群は詳細にかけ、想像力を湧き起こしてくれなかったし、極端にいってしまえば、岩山にただ穴があるだけの場所なのだ。しかし、それは別にこの遺跡のせいではなく、私がこういった遺跡の類に対して、単純に感動できなくなっているせいだった。


 
 大仏に向かう途中に。畑の間を通り抜けていく。


 
 チャイハネや商店が集まるバーミヤンのメインストリート、といっても通りらしきものはここだけだが。
 恐ろしく性能の悪いものだったがネット屋もあった。
 道幅は広いのだが、何でこんな状態になってしまったのかと思うほどでこぼこの道。
 夜は気をつけて歩いていても転びそうになってしまう。


 
 メインストリートから少し離れた高台で。
 ここにはソ連軍が置き去りにしていった戦車や装甲車がそのまま放置されている。


 
 この人たちが撃破したわけではないだろうが、近くの警察署に詰める警官が戦車の上で握手。


そんなこともあってか、私も大仏跡を見るためにここに来たのだが、バーミヤンではそれよりも素朴な農村風景に心をひかれた。
住民の大半が日本人と顔立ちの似ているハザラ人だったというのも影響しているかもしれない。
収穫は昔ながらの方法で家族に家畜総出で行われ、誰もが土を掘り返し、忙しく働いていた。子どもたちはちょっとしたことに遊びを発見し、笑いながら、楽しいそうに収穫に励んでいた。
農地の奥深くに入り、秋風に吹かれながら見るその景色は北海道の大地のような印象を受けたが、周りにそびえる滑らかで複雑に色を変化させている山々が幻想的でさらにその雄大さを増していた。


 
 ハザラ人だけでなく他の民族と思われる人たちも住んでいる。実際のところ何人なのかよくわかりません。


 
 石窟群の先にある集落で。バーミヤンは周辺を高い山に囲まれた土地。


 
 集落の中で。ぶらぶらしていたら住民に身振り手振りで「奥の方には地雷があるぞ」と注意される。
 バーミヤンはタリバンの構成民族であるパシュトゥン人と対立していたハザラ人の拠点でもある。


 
 メインストリートからだいぶ離れた集落にあった墓場。簡単な墓標が立っているだけの簡素なもの。
 人口の割には大きな墓場だった。真相はわからないが戦争で多くの人が亡くなったということだろうか。


 
 ジャガイモの収穫風景。


そんな風景の中、地面に寝転び、澄んだ空を流れる雲を眺めていると、今日という日が過ぎ去っていかないで欲しいと切に思う。でも明日が来ないで欲しいと思うわけじゃない。
ある人のブログに「今日という日が愛おしく思える日が来る」というフレーズがあった。この時、ふと、今日が愛おしい今が愛おしいと思った。
残酷に無慈悲に無情に時は過ぎ去っていく。それは止めようと思って止められるものではないし、止まることは決してない。
今日が愛おしいと思う、だから、明日も愛おしい日であって欲しい。旅というのは今を生きているものだと思う。もっといってしまえば、今だけを生きる行為だ。でも、今を生きるというのはきっと未来も生きるということに他ならない。この先も楽しいものであるために今を精一杯、楽しんでやろう。

バーミヤンは4泊で離れることにし、イランに向かうためにいったんカブールに戻っていった。