旅しながらやってます。

写真を撮ったり、山に登ったり、生活したり、旅しながらやってます。

ラサ その6 大晦日

2005年12月31日 | Around the world 2005-2007
年の瀬、大晦日…、
日本にいるときは年末の浮き立つような感じや正月のひっそりした感じが好きで、
この時期を楽しんでいた気がする。
日本を離れ、カレンダーに関係のない生活をしている今の自分には、
大晦日といわれても何かぴんとこない。
ただ今年も終わるなという意味のない感慨を持つだけかもしれない。
とにかく今日は姉が来る日だ。
約束の時間にホテルに出向き、半年振りに会ったが、
特別変わった感じもなく、久しぶりな気はしない、まぁ、そっちのほうが気楽でいいけど。
とりあえず、姉の現地人ガイドと昼食をとることに。
ガイド、名前忘れちった…、は熱心にオプションツアーを勧めてくる。
と思っていたら、食後は土産物屋めぐりをしようと言ってくる。
買いそうにもない態度をずっとしていると、
あきらめたのか、仕事の打ち合わせがあるとかで早々に帰っていった。
一人ならずっとここでうろうろしていてもいいが、二人でいるとそういう訳にもいかない。
しかも、短期間、見れるものは全部見たいという気持ちもわかる。
とりあえず、日本から持ってきてもらった荷物を宿に置いてから行動開始。
なぜか早速、お土産、サラリーマンは大変だ…、を買うことになり、
それを置くために部屋に戻るが、お湯が出ないし、どうもエアコンの効きも悪い。
そもそも日本から手配をしているのにそういう設備が整っていないのはふざけた話しだし、
フロントが英語のまるで話せないというのも不親切だ。
修理をしているのか、していないのかわからないまま無駄な時間が過ぎていく…。
何とか解決し、とりあえずポタラの外観だけ見て回る。

 
 ポタラ前で。

が、約束していた食事の時間にすぐなる、忙しい…。
食事を取り終わり、ゆっくりしているとあっという間に12時は迫っていた。
何かイベントはないのかとみんなでジョカンに行ってみるが何もない。
あるいはと思い、ポタラ前に行くがここにも特に何もない。
それぞれの時計の時刻はばらばらで正確な時間がわからない。
気がつくと市販品の小さな打ち上げ花火をどこかで誰かがあげていた。
どうやら年はもう明けているらしい、なんとも気の抜けた年明けだ。
こちらでは旧正月がメインなので、街には新年を祝うという雰囲気はほとんどない。
それも手伝って、本当に、あ、今年も始まった、あけましておめでとう、程度の感慨にしかふけられなかった。
でも、それだけでいいのだ、結局、新年に決意を語るとか、来年からあれをやるではなく、
今、これからのためにどうしても必要なこと、やりたいことを、ただ今やるだけだ。
ラサは都会だけあって、夜でも道路には街灯がともり、十分明るい。
その中をヤクホテルに泊まっているみんなと騒ぎながら帰っていった。
明日からは姉のスケジュールで動く、久々に忙しくなりそうだ。

 
 ん~、どっかの兄弟が一番はしゃいどる…。御姉様、PC&救援物資ありがとうございました。

ラサ その5

2005年12月30日 | Around the world 2005-2007
散歩先で撮った写真です。


バルコル側面入り口付近にある香炉。これでサンと呼ばれる香草を焚く。

 
 リキシャ(人力車)の座席から。ラサ市内には多くの二人乗りリキシャが走っている。
 そんなにぼってこないので短距離移動に便利です。

 
 ポタラ前の通りで。これはリキシャ…、ではありません。荷台が付いているだけの自転車でも乗せてくれます。

 
 宿近くで。日中はみんな、陽光を浴びながら井戸端会議をしています。

 
 外で遅い昼食を食べていた二人。これは14時半に撮影をしましたが、こっちの人は昼食の時間が遅い気がする。

 
 ヤクホテル屋上から。ラサもすぐそばに高い山が迫っている。2月ぐらいになるとここも真っ白になるようです。



ラサ その4 ジョカン 

2005年12月29日 | Around the world 2005-2007
 

バルコルに毎日行く…、ということはもちろんそこにあるジョカンも毎日見ることになった。
1300年の歴史あるゴンパらしいが、先にカム地方を見てきたこともあり、
ゴンパ自体には特別なものは感じなかった。
それよりも私が心を奪われたのはジョカン前での五体投地だった。
聖地ラサの巡礼の最大の目的はジョカン参拝だ。
各地から集まったチベット人たちはそこで五体投地をしていく。
朝夕は特に人が多く、足の踏み場もないほどだが、
その中を飽きもせず人々が激しく同じ動作を繰り返しているのをよく見ていた。

 
 ジョカン前広場。

朝夕には巡礼者のためにジョカンが開かれている。
ある日の夕方、チベット人たちに紛れ、中に入ることにしてみた。
開門後、狭い正面門には人が殺到して、酷い状況になっている。
うぅ、並ぶとか譲り合うとか言う考えはないんかい!!
狂騒状態は続く…。
その門を通過すると今度は皆走り出す、
人にぶつかろうが、誰かが転んでいようがお構いなしでどっかに突っ走っていった。
関西のどっかの神社で元旦に行われる福男レースみたいだ…。
そんな状態に唖然としながら進んでいくと、何かを見るためだったようで、
もう人が詰まり始め、係員が列を整理していた。
何の行列かわからずに並ぶが、すぐ後ろの人が完全に密着してくるほどに接近してくる。
周りを見ていてもどこも同じようで、
まるでなにがあっても割り込ませないという決意を示しているかのようだった。
のんきに構えていた私は実際に割り込まれたりしながら、
やっとのことで到着した先には御本尊があった。
といっても、なんとなくきてしまったことに加えて、
御本尊との対面は流れ作業で行われており、30秒ほどだけ…、正直、ありがたみなし…。
その後、ジョカン内をコルラするが、
一周するとこれならバルコルをコルラしたほうが面白いなと思い、出てしまった。

とは言っても、ジョカンがつまらないとか、よくないと言う訳ではない。
ジョカンあってのバルコルであり、ここに来ると、あ、バルコルに来たな、ラサにいるなという気分にさせてくれた、ここの風景には欠かせない存在だった。

 
 大晦日の夜。やっぱ神妙な気分にさせてくる場所だ。

ラサ その3 バルコル

2005年12月26日 | Around the world 2005-2007


ラサには長く滞在しただけあって、何もしない日というのも何日かあった。
しかし、そんな日でもバルコルにだけは毎日顔を出していた。
ジョカンの周りを取り囲むようにあるバルコルは私たち外国人にとっては観光地だが、
同時にバルコルの周りにあるというだけあってここは重要な巡礼の場だ。
毎日、行っていたのは、宿から近い、という理由もさることながら、
バルコル周辺に行けば、チベットの装飾品や小物から日用品、屋台で出ている乾物までたいていのものは揃うし、
うまいローカル食堂もあったためだ。

 
 こんな感じで道に露店が広がり、人はコルラをしています。

そして、もっといえるのはバルコルという場所が好きだった。
門前町の機能として土産物屋街を形成しているバルコルには
地元民や巡礼者、観光客で日中は常に人でごったがえしている。
その大半を占めるのはコルラを、つまり時計回りで歩いている人々なのだから
必然的にバルコルの通行の流れは時計回りの一方通行だ。
どこか店を出て、路地に抜けるために逆走もできないわけではないが、
暗黙の了解での流れを一人、逆に歩くのはちょっと気まずい…。

 
 みんな、結構な勢いで歩いてる。

 
 バルコルにある商品。
 布製品が多い中、カーテンやダシュー(カム地方の男性が頭につける髪飾)なども。

 
 アクセもかなり豊富にあります。毎日、衝動買いの危険が…。

そんなバルコルを毎日、何周か歩き、時には路地に抜けてみたりもする。
ジョカンを中心とした一画は一部の回族地区を除いて、チベット人地区になっている。
商店や土産物屋だけでなく、中庭を大きく取った集合住宅がひしめきあうように立ち並び、
チベット人の都市生活を見ることもできた。

 
 これはジョカンの区画にあるものではありませんが、こんな感じのアパート?です。

     
 路地には食料品も並んでいる。右側は香辛料とバターの量り売り。

 
 巡礼者のための土産物屋街だから、マニ車など仏具ももちろんあります。

 
 ペアルックで散歩中?彼らは観光客かもしれないが、散歩でもするようにみんな歩いていた。

しかし、バルコルのどこがいいと問われても答えに窮してしまいそうだが、
まず思ったのは環状バザールであるおかげで引き返すことなく、
何度も見て回ることができるという点。
そして、次に、どこか今までの中華文明圏的な市場ではなく、
ヒンドゥー文明の雰囲気を感じたからかもしれない。
売っているものの影響も大きいと思うが、
狭い路地も埋め尽くすようしている露店の並び方に違った印象を受ける。
日本を出てからここまでの間、6カ国を訪れたが、
どこの国も中国の影響を多かれ少なかれ受けてきた国だった。
それは例えば、歴史であり、美術や建築などの文化的な面、
政治、経済に強い影響力を持つ華橋の存在、あるいは共産主義という形でも見えた。
もちろん、ここは現在進行形で中国の支配下にあるのだから、
それらの国よりますます中華文明的な存在になってしまうはずなのだが…。
チベットに入って一ヶ月、見れば見るほど、チベットと中国は「違う」と思わざるを得ない。
百歩譲って、中国のチベット侵略を肯定したとしても、
歴史の、文明史のおおきな枠組みで「中華」と規定しても、
「やっぱ、なんか違う」というのが率直な感想だ。
おそらくネパール産なのだろうが、インドで見たことのあるお香が売っている。
いずれにせよ、長くいた「中華」から「ヒンドゥー」に移動する日もそう遠くない。

 

ラサ

2005年12月23日 | Around the world 2005-2007
デルゲを出てから、自分でもなぜそんなに急ぐんだと思うほどの勢いで移動を続けた。
ざっと列記すると…、

デルゲ~マニカンコ ローカルバス、37元、3.5時間
マニカンコ~セルシュ石渠 ヒッチ、70元、4時間
セルシュ~ジェクンド ローカルバス、35元、5.5時間
ジェクンド~西寧 寝台バス、139元、19.5時間
西寧~ゴルムド 寝台バス、100元、12時間
ゴルムド~ラサ 寝台バス、550元、19時間

ゴルムドに向かうまでの間、ろくに観光もせずにひたすら移動を続ける日々だった。
特に寝台バスに乗り始めてからは、真ん中の寝台だったり、
窓が凍り付いて外が見えなかったりしたため、
移動中の景色もよく見ることができなかった。
ただ、だからといってどこでも見ることができるような景色ではなかった。
セルシュや西寧に向かう途中の風景はやはりチベットの自然は凄いとうならされてしまうようなもので、
草原が広がり、時々、遊牧民の姿を見ることもできた。

ラサに着いたのはまだまだ夜が明けていない7時だった。
暗く、周りがよく見えない近代的な町に降り立っても、
ラサに着いたという実感はまるでわいてこなかった。
今、自分がいる場所が何もわからないため、ひとまずタクシーに乗って、宿を探す。
時間が早いために門が閉まっているホテルが多い。
開いていたヤクホテルに宿を決め、ひとまず眠ろうかとも考えたが、
別に眠いわけでもない、
早速、夜明け前のラサを散歩することにした。
まずは宿に向かう途中に見かけたジョカン大昭寺の周辺に行ってみる。
朝のジョカン前はすでに多くの人で埋め尽くされており、皆一心に五体投地を繰り返していた。
ジョカンの周りはバルコルと呼ばれている。
聖なるジョカンの周りなのだから当然ここも時計回りに人は歩いている。
バルコルではまだ夜明け前にもかかわらず、多くの人がそこをコルラしていた。
ただその人並みの中を何周か歩き続けていると、
日が昇ったころにジョカンに入ってみようとするが、
係員に「チケットは?」と引き止められる。
チベット人以外は有料で料金は70元だった、ちょっと払えん…。
仕方なくあきらめ外に出て行くと、昆明、大理で一緒だった日本人とばったり会った。
あ~、本当に久々に日本語を話した気がする。
彼女に色々と案内をしてもらい、一旦宿に戻るが、
やはりラサについて興奮しているのだろうか、
疲れてはいたが、1週間ぶりにシャワーを浴び、洗濯、散歩と忙しく動き回った。
ざっとポタラ周辺を回っただけだったが、
ラサはさすが大都市であり、宗教都市と前書きがつくだけあって多くの巡礼者でにぎわっている。
その光景に今まで通ってきたチベットとは違った印象を受けた。
地方のチベットと違って、都会のチベットが楽しめそうな町だ。

ラサへ その3 西寧

2005年12月21日 | Around the world 2005-2007


青海省の省都、西寧の駅前から。緯度が高いだけあって寒さも本格的、最高気温0℃でした・・・。


せっかくなので西寧近くにあるクンブムに。


八宝塔前で。


寺院内はきれいに整備されている。
チベット仏教にとってかなり重要な寺らしいが完全に観光地化してしまっています。

ラサへ 

2005年12月18日 | Around the world 2005-2007
体調にはまだ多少の不安はあったが、今日デルゲを発ち、ラサに向かうことにした。
ここから先は外国人非開放地区で、次の大きな町チャムド昌都に行くバスはない。
ヒッチで行くしかないために前日に程度交渉を済ませていたドライバーは5時にここにこいと言う。
料金は150元と言われたが、まだまだ交渉の余地ありという感じだ。
料金交渉は明日しようと決め、約束どおり5時にトラックストップへ。
他のドライバーは徐々に動き出しているが、
私が交渉をしたドライバーは出てこない。
待っている間に他のドライバーに「チャムドに行くか」と聞いて回るが、
そちら方面に行くが乗せない、と言われる、うう、大丈夫かよ。
6時半になり、やっと表に出てきた昨日のドライバーは寝坊でもしたのだろうか、
仲間たちと急いで準備を始めた。
声をかけ、「100元でいいでしょ」と言うと、あまりにもそっけなく「150元」と返される。
トラックは今にも出て行きそうだ、ここで逃したくない。
はっきりいって交渉に負けてしまったのだが、焦りから150元払うことにした。
ところがドライバーは私を乗せることに乗り気ではないのか、
他のドライバーに私のことを押し付け始めた。
押し付けられた方も仕方なく受けたような感じだ。
もちろん何を言っているのかはまるでわからないのだが、いやな予感がする。
そして予感は当たった。
チベット人の親子がヒッチのために現れるとそちらの方を優先して、
私は乗せないと言い出した。
他のトラックはほぼ出てしまったので、今日出たければこれに乗るしかない。
「さっき乗せるといったじゃないか」と食い下がるが、まるで相手にしてもらえない。
そして「公安、公安」と言い、だめだと手を振る。
試しに「200元」と言ってみたが、それでもだめだった。
もし外国人を乗せ、捕まった場合は免取の可能性もあるらしい。
彼らが拒否するのも当たり前なのだが、もう乗れる気でいただけにきつい。
性格的に動きだすともうここにもう一日いようとは思えない。
とりあえず、今日はバスで行けるところまで行こうと考え、
そこを後にし、今度はバス停に行く。
バスの発着場所に着くとジョムダ江達行きのバスはまもなく出発しそうだった。
チケットは持っていなかったが、乗り込んでしまうと、
カンゼからのバスでも一緒だった僧がそのバスに乗っていた。
彼もチャムドまで行くつもりのようだ、
お願いすれば色々と手伝ってもらえるかもしれない。
しかし、ついていない時は最後までついていない。
乗車券のチェックが始まるとバスは満席だったようで降りろと言われる。
通路でもかまわないから乗せてくれと頼むがだめだの一点張り。
中国というのは不思議な国で、
例えば輸送トラックや建物、食堂などには安全基準などなさそうなのに、
ことバスだけは超ローカル路線でもチケットに番号をふり、定員以上は乗せない。
もっとこだわる所があるんじゃないかと突っ込みたくなるが…。
この時点で取ろうとしていたルート、川蔵公路北路での移動はやめようと決めた。
正直な所を言えば、カンゼの時点で迷いはあった。
実際、行ってしまえばどうということはないのだろうが、
仮に今回のようにヒッチが捕まらなかったり、
もし公安に捕まったりするようなことが起きれば、ラサまで10日間ほどかかってもおかしくない。
そして、相当しんどい移動になるだろう…、心配性で小心者の私にはきつい。
やっぱり色々な意味で今は疲れていると思う。
今からきついことをするには精神的な余裕に欠けていたし、
姉にPCのほかにも頼みごとをしていた以上は約束の日にちに遅れるわけにもいかない。
今まで悩んでいたのが嘘のようにルート変更を決断した。
ゴルムドからのルートを取るためにまずはマニカンコ馬尼干戈に行くことにした。

デルゲ その3

2005年12月17日 | Around the world 2005-2007

デルゲ・ゴンチュン前で。


デルゲ・バルカン前。ここで印刷された経典はチベット全域の僧院に納められる。


バルカンの周りには常にコルラをする人で溢れていた。


巡礼路のマニ塚から。

デルゲ その2

2005年12月15日 | Around the world 2005-2007
朝、起きると体がだるく、悪寒がする。
そして、ひどい下痢をしている。
昨日の夜から体調がおかしいと感じていたが、
それがますますひどくなったという感じだ。
泊まった宿は外国人を泊める許可を持っていなく、
今日は泊めることができないと、申し訳なさそうに言われた。
仕方なく別の宿を探すと、そこには暖房つきの部屋もあるという。
値段は120元もするがこんな僻地で風邪をこじらせたら大変だ。
暖かい部屋で休み、しっかり治すためにそこに泊まることにした。
食欲はまるでなく、歩くのもつらかったが、
無理して食事を取り、ようやく半分食べきると、すぐに宿へと戻った。
しかし、胃がうけつけなかったようで、ひどい吐き気に襲われる。
耐え切れなくなり、無理やり吐くが、吐き気は消えない。
とにかく寝てしまおうと目を閉じるが、
うとうとしてくると吐き気に襲われ、寝付くこともできない。
脱水症状を避けるために砂糖を溶かしたお湯を飲んでいたが、
逆にそれが起爆剤となってしまうようだ。
結局、何度も吐き、食事を取ってから20時間近くたっているというのに、まだそれが出てくる。
ああ、何かの細菌に感染してしまったのだろうか、
もしそうなら、早く大都市に行かなければならない。
デルゲ徳格に来たのはラサに向かうためだが、
この体調のままヒッチハイク中心の移動をするのには不安があった。
といっても、それ以外の大都市というと四川省の省都、成都しかなく、
そこに行くにもやはり3日はかかるだろう。
とにかくここである程度は治すしかないようだ。
吐いては寝るを繰り返しているといつの間にか朝になっていた。

昼ごろまでゆっくりしているとだいぶ体は楽になってきた。
それでもまだ何かを食べる気にはなれない。
中国に入ってきてから、街角でよく見かける点滴を打ってくれる診療所がここにもあり、そこで点滴を打つことに。
病状は思ったほど悪いものではなかったようだが、
完全に治してから動くことに決めた。
今日も何もせずに一日が過ぎていく。

デルゲ

2005年12月14日 | Around the world 2005-2007
 
 今日はデルゲ徳格へと向かいます。
 カンゼを9時半に出たバスは、最初は舗装道路を走っていく。料金は60元。

 
 と思いきや、峠道に入ると道は完全に凍りついていました。その道を結構なスピードで走っていく。
 カーブもがんがんと、アグレッシブな運ちゃんじゃ。

 
 車内から見た景色。

 
 ちなみにスタッドレスはもちろんのこと、チェーンもつけていません…。
 みんな平然としていますが、かなり恐ろしい状況…。
 まだ死にたくないっす。。。

 
 ふぅ~、やっと雪道を脱出。この後約2時間でデルゲに到着です。
 所要時間は6時間半。

カンゼ その5

2005年12月12日 | Around the world 2005-2007
 
 カンゼ・ゴンパ近くのチベタン集落で。

 
 タイヤを転がして遊んでいる二人組。またもや何かたくらんでいそうな…。

 
 町の中心部近くで。

 
 コルラ帰りのおばあちゃん。

 
 ダワ・ラモ・アニ・ゴンパで。

 
 抜けなくて困っているわけではありません、私に向かって吠えているだけです…。

     
 ゴンパ近くの草原で。この後、家に招かれてバター茶とツァンパをごちそうに。

 
 ダワ・ラモ・アニ・ゴンパに帰る途中の尼僧。子供たちに声をかけながら帰っていった。

カンゼ その4

2005年12月11日 | Around the world 2005-2007
カンゼの町から少し離れたところにもゴンパは点在している。
日帰りでそれらのゴンパを訪ねることも十分にできたが、カンゼの街をもっと見てみたいと思った。
何も決めずに街をふらつき続ける。

 
 朝のつり橋から。

 
 朝の出勤風景?お坊さんたちも自分でバイクを運転して寺にお勤めに行っているのだろうか?

  
 後ろに乗って行くお坊さんも。

 
 町外れにある耕作地で。

 
 遊牧民が羊を追い立てるチベタン。この何倍もの家畜を管理している遊牧民もいる。

 
 街から少し離れれば民家もまばらになってくる。

耕作地を歩いているとカンゼ・ゴンパの裏にもゴンパがあることに気づく。
次の日に行ってみると、そこには小規模ながらも整然と僧坊が立ち並んでいた。
ゴンパ内は人影もまばらで、そこを歩いているともう人が住んでいない古い町にいるような気分になってきた。
丘の頂上にある本殿までたどり着き、そこで休憩をしていると、そこの住職さんらしき男性の僧から話しかけられ、家でお茶をふるまわれた。
家のテラスは南側に位置しており、そこからはカンゼの山々を見ることができる。
出されたのはどこにでもあるようなバター茶とパレ、チベット風のパンだったが、
こんな景色を見ながら毎日お茶を飲めるとはなんて贅沢なティータイムなのだろう。

 
 ダワ・ラモ・アニ・ゴンパ。

 
 コルラをする尼僧。このゴンパでは尼さんしか見かけなかった。もしかしたら尼寺か?

カンゼにもまだまだいてもよかったが、明日、デルゲ徳格に行くことにした。
いよいよラサも目の前だ。