ハリアフメッドザイカダヒール・ホテルの部屋から見たカブール。
カブールに到着した翌日からこの街を歩き回ってみた。
この時期(9月中旬)のカブールの街は乾燥した空気に包まれ、午前中は少し肌寒さ感じる日本の秋のようなさわやかな陽気だ。最初、泊まっていた旧市街の宿からすぐのところにバザールがある。果物や乾物、フルーツジュースを扱う露店が集まる一帯を抜け、プルへシティモスクを眺めつつ、カブール川沿いに歩いていくと本格的にバザールが始まる。
そこには数え切れないほど無数の露店が連なっていた。
まず、豊富な野菜、果物の種類に驚かされる。トマト、ジャガイモ、タマネギ、ブロッコリー、ナス、キャベツ、ニンジン、そしてオクラまである。果物もリンゴ、ブドウ、ザクロ、スイカ、メロンなどアフガンの大地がこれほど肥沃だとは知らなかった。
中国製品を中心に日用品を扱う露店では、およそ生活する上で決して不自由はすることはないだけの豊富な物資に溢れている。他にも、時計、服、靴修理の露店、おもちゃ、多額の現金を見せびらかすように路上に並べる両替商などが途切れることなく軒を連ねている。
さらにその両端には屋内に店を構える商店や貴金属商があった。
プルへシティモスクは旧市街、バザールの入り口に建つ。
人が行きかうカブールのバザール。
左上:野菜の露店で。
左下:日用品は中国、パキスタン、イランからやってくるよう。
右上:肉屋では頭がごろごろしている。
右下:ポケモンゲット!!何でも売っています。
左:本当にお金を見せびらかしてくる両替商。
右:世界各国の紙幣が並ぶ両替屋。こんなに多くの通貨を他の国では見たことがない。
川沿いを15分ほど歩き、官庁街に行き着いても、その露店群がなくなることはない。
携帯電話からiPod、プロテインまで売っており、食事時ともなると食堂は満席になり、店員が忙しく動き回っている。
バザール群はこれだけではない。川沿いの道から一歩、路地に入っていけば、そこにはさらに多く商品を並べた露店、商店が並び、そして人が集まっている。
また、各バスターミナル周辺にも同様に多くの露店がある。
大通りに出れば、他の成長中の発展途上国にも引けをとらない、むしろそれを上回る量の車がきちんと舗装された道路を走り回り、渋滞が発生するほどだ。そのほとんどは日本車で、さらに言えばトヨタ車ばかりが目立つ。
私にはその全てが意外なものであり、驚愕するほどの光景だった。
カブール中心部付近の山、TVタワー山?から見た市内の様子。
左:街に何件もあるジムの看板。
プロテインを扱う店も多く、写真を撮らせてもらう時、力をこめるポーズをとる人も。
とにかくマッチョ願望有りなアフガン人。
右上:シャーリー・コナ(新市街)のビル。近代的なビルの建設も進んでいる。
右下:高級ホテル内のカフェ。国連職員など外国人用の施設も多くある。
ちなみにラマダン(断食)中は外国人用といえども営業していなかった。
カブール市内の渋滞。何車線道路なのかわからないほど車が入り乱れている。交通ルールはなきに等しい。
最初もっていたカブールに対するイメージとあまりにかけ離れた現状に戸惑いすら覚えた。
私の持っていたアフガニスタン像は長期の戦争によって混乱した国内状況、疲弊しきった経済だった。そして、戦争が終わり、数年たったとはいえ、それはあながち間違った想像ではないと思う。
だから、そのイメージどおりのカブールをあるいは必死になって探すようにひたすら街を歩き続けた。イメージどおりの、負の遺産にまみれたカブールがあるはずだと。
確かにそれはあった。バザール近くにも崩れかかり、鉄筋がむき出しになった建物が多く残っている。人々でにぎわう街中には物乞いや廃プラ収集や車の窓ガラスを無断で拭いて金を請求したり、仲間だけで商売をする子供たちがいた。手足がない人たちも、6年前に行った、ここ同様に最近、内戦が終わり、地雷被害が多発していたカンボジア以上に多くいる。
なるほど、これが戦争の傷跡かと勝手に納得し、今度は別の場所に行ってみると再び、活気溢れる生活を目の当たりにし、既成イメージは崩されていく。
ジャーダェ・マイワンドに面した建物。
そんなギャップの激しいカブールは様々な想念を湧き起こしてくれ、毎日、飽きもせず歩き続け、感動すら覚えていた。
しかし、そのギャップは同時にこの活気に満ち、表面的には豊かな光景に対して異様さを感じさせ、疑問を感じさせた。一体、これだけの物資はどこからやってきているのだろう。カブールの街を歩けば歩くほどその疑問はますます膨れ上がっていった。
最初、1週間ほどでここを出ようと思っていたにもかかわらず、それは2週間になり、結局、3週間もカブールにいることになった。
理由はいくつかあった。カブールに対する疑問もそうだが、一つは、最初、泊まっていた宿とは比べ物にならないぐらい快適な宿を手に入れたからだ。
汚物が溢れ出し、この世のものとは思えないほど臭いトイレの前にある部屋に耐え切れず、他の宿を探していた時に、偶然、アフガニスタンを研究している大学生、レイ君と知り合い、彼が見つけたアパートをシェアさせてもらうことになった。(現在、ここはゲストハウスとして経営している。仲介しているのはアマノディンさん。1泊5~7ドル。チキンストリートで「アマノディン、コジャー?」と聞いて回れば見つかると思います。)そこは自炊設備もついており、カブールの豊富な食材を使って、久々に料理をすることもできた。
そして、その日に見てきたことを話したり、アフガンのことをレイ君に聞いたりする時間は充実したものだった。何より、カブールで生活をしているというシュチュエーションが面白い。
もう一つは、私はこの町にいるとなんだかわくわくしてならなかった。それは、今、自分はあのカブールにいるという優越感のようなものであり、この町の雰囲気に見せられていたからでもあったと思う。
そして、その雰囲気を形作っているのはここに住む人々だ。
カブールの人たちは本当に陽気だ。街を歩いていると必ず多くの人に声をかけられる。今日はあそこに行こうと思い、ついでにバザールを経由していくと、目的地にたどり着けないほど人々から声をかけられる。そして、写真を撮らせてもらい、それを見せると誰もが嬉しそうに満面の笑みで喜んでくれる。デジタルだと知らない人たちは、写真を見せると、目を見開いて驚き、あわてて周りの人を呼び集めて、子どものようにはしゃぎだす。
これもギャップの一つだった。こんなに純朴な人々が本当にソ連との戦争を戦い抜き、泥沼の内戦を長年続けたという事実を私はカブールの人々からは見出すことができなかった。それともだから一部の権力者たちに蹂躙されて内戦は長引いたのだろうか。
陽気…、もっと言えば変な人たちばっかり。
3週間過ごしたカブールを発とうと決めたとき少し切なくなっていた。
それぐらいカブールは気に入った所だった。だから、まだまだこの町にはいてもよかった。でも、少しずつここに対して、好奇心が薄れていく自分がいた。それはカブールに対してだけでなく、アジア的な雰囲気に対して、飽きている自分がいた。好奇心を磨耗させてまで一つの場所にとどまり続けるには、自分の旅は長くなりすぎている。
全く違うものを見たくなった。文明に溢れた大都会を。イスタンブールに行きたいな、そう思い始めた時、ひとまずバーミヤンに向けて移動をすることにした。