旅しながらやってます。

写真を撮ったり、山に登ったり、生活したり、旅しながらやってます。

カブール その11 出会った子どもたち

2006年09月30日 | Around the world 2005-2007
 
 TV塔の建つ山で。今回はカブールで出会った子どもたちの写真です。


 
 路上で遊ぶ子どもたち。
 ここの子ども、もちろん男、もいったん相手をしだすととどまるところをしらない。なかなか離してくれません。


        
 保守的なイスラム国家、アフガンでは小さな女の子でもむやみにレンズを向けてはいけない雰囲気だった。
 許可を取って、レンズを向けても恥ずかしがって逃げる子もいた。


        
 多くの子どもは何らかの仕事を持っている。ストリートチルドレンもいる様子だった。
 左:廃材集めの少年。
 右:バザールで。買い物客に大きな袋を売っている。


        
 左:トイレットペーパー売りの少年。
 右:車のタイヤ交換の少年。しばらく見ていたが、見事な手際で一連の作業を一人でこなしていた。
   作業を終えた後、どうだという感じで私を見てくる、すごい。


        
 兄弟で働いている子どもたちもいる。兄のほうが弟の相手をしつつ感じかな。
 左:靴屋の兄弟。靴磨き、修理屋も兼ねている。
 右:辺りをぶらぶらしていた私を発見して「写真を撮って」といってきた羊飼いの兄弟。
   しばらく遊んでいたら、親に「羊の世話をしろ」と怒られていた。申し訳ないです…。


        
 多民族国家、アフガニスタン。
 左の少年は日本人そっくりなハザラ人、右の少年はロシア系?欧米人のような顔つき。


 
 バザールで。大きな袋を抱えて、道端に座ると、一つのジュースを二人で変わりばんこに飲んでいた女の子たち。
 廃プラを集めるのが仕事ようだった。毎日、いっぱいに詰まった袋を担いでいるのだろう、たくましい腕をしていた。

カブール その10 カブールの謎② シャーリー・ナウ15番通り

2006年09月29日 | Around the world 2005-2007
 
 夕方のシャーリー・ナウ15番通り付近。


カブールでの滞在は予想外に長引いていた。そろそろ移動をしようかなと思い始めていたが、このままだと移動中にビザが切れてしまいそうだった。
ただでさえ検問や職質が多いのにビザが切れていたら、警察署連行、日本大使館に通報なんて厄介な事態になりかねない。
そんなことを避けるために早めにビザ延長の手続きを開始した。

ガイドブックの情報に従って、延長手続きに必要なレターを貰うために空港近くの事務所に行くと、若い職員に事務所は移転しているといわれる。
彼はちょうど中心地の役所に行くところだったようで、車に同乗させてもらった。
車内で私の名前や年齢、職業、そしてカブールの印象など何気ない会話が続く。
そのうち、結婚をしているかどうかを尋ねられ、夜の生活の話になっていった。
私と同い年の彼は「私は一晩に7回できる。君はセックス好き?」と聞いてくる。
私も男だから嫌いなわけはない、「Of course」と答えると、助手席から身を乗り出して、後部座席に座っている私に「チャイナレストランに行ったか?」と言う。
何のことだかさっぱりわからない、「なにそれ?」と聞き返すと、「カブールには中国人の売春宿があるんだ、一晩100ドル、一回なら50ドルだ」と興奮気味に話してくる。
「それだけじゃないぞ、チャイナレストラン以外にもフィリピン、ウズベクレストランもある、今夜いってみるか?」と紙に自分の電話番号を書き出した。
今夜、7時に電話してくれと言い残し、彼は情報文化観光省のビルに入っていった。
車内に一人残され、ただ唖然としていた。
今の人はアフガニスタンの役人で、その人が勧めてきたことは…、んん、騙しにきているとも思えないし…。
そのまま乗せてもらった車で、レター発行オフィスまで連れて行ってもらい、レター発行手続きは難なく進んだ。
すると、今度はそこの職員がニヤニヤしながら一枚の名刺を見せてくる。
そこには「Chinese Restaurant SHUSHU」とあった。
どこにあるの?と尋ねると、アフガン語で住所を書き、これをタクシードライバーに見せろといってきた。
かなり保守的なイスラム国家であるアフガニスタンに風俗があるのも驚きだが、もっと驚いたのは、親切心?からなのだろうが、アフガンの役人が売春の斡旋をしていることだった…。


 
 レター発行オフィスの職員。デスクには何もない…。


名刺の住所には「シャーリー・ナウ15番通り」とある。
シャーリー・コナは泊まっている宿の住所でもあったが、正確な場所はわからなかった。散歩がてらどこにあるかだけ調べてみるか、と言うのは嘘で下心丸出しにして15番通りを自力で探してみることにした。
住所周辺と思われるところをうろうろしていると、地元の男たちが「おい、今からチャイナレストランか」と笑いかけてきた。
「どこにあんの?」と聞くと今、歩いている通りを指し示す。
くだんの「SHUSHU」は見つからなかったが、「Shanghai Restaurant 」「Bobo Restaurant」など怪しげで、高い塀に囲まれ、頑丈な門があるレストランらしからぬ店がそこにはあった。
レクサスのランクルが路上に止まっていたり、とても自分が入り込んでいけるような雰囲気ではない。
すごすごと宿に戻り、詳細な地図を見てみると、今日見てきた通りが間違いなく15番通りだった。
ちなみにこの周辺は各国の大使館街であり、外国人が住む高級住宅街でもある。


 
 左:シャーリー・ナウ15番通り。
 右:上海レストラン前。


これらのものは地元アフガン人向けのものではなく、外国人向けのもので、そこにいるのも外国から出稼ぎに来ている女性のようだが、カブールの男の間では15番街の存在は有名なもののようだ。
カブールを歩いているとよく「チン」と呼ばれる。これは「中国人」と言う意味だが、「違う、ジャパンだ」と答えると、急に顔がほころぶから、そこには多少、軽蔑をしているようなニュアンスも含まれているように感じる。
異教徒がやっていることだから、面白半分にそのことを話のねたにしたり、からかったりするが、ムスリムとしてはそのことは軽蔑の対象となるようだ。

話は変わるが、カブールのネットカフェは発展途上国にしてはかなり充実している。
PC自体の性能も上々だし、通信速度も速い。パキスタンに比べると、後発の優位性から最新のものが入ってきている。
また、ほとんどツーリストはいないので、アフガン人の利用者が多い。
そして、ネットを利用している男の中にはポルノサイトばかり見ているものもいる。
一度、URLを打ち込んでくれと頼まれ、入力をしてあげた。
しばらくして、その男を見てみると、股間を押さえて、画面を凝視している。
画面をちらっと見てみるとそこにはいわゆるエロ動画が映しだされていた…。

長年の戦争が終わり、急激に入り込んできた物資、情報。
そこには異文化のものであり、イスラム的でないものも当然、含まれている。
若い男たちは今まで知らなかったものを知り、それがイスラム的でないものであった時、
そこから生まれる欲望とどのように向き合っていくのだろう。
アフガニスタンの社会問題、特に女性問題をテーマにした「アフガン零年」という映画があるが、彼らと同じ悲しきオスとしてこんな行為を見せられると今は「アフガンエロ年」だなと冗談ではなく思ってしまう。
イスラムが彼らの欲望を抑えてくれるのだろうか、それとも大きく社会は変わっていくのだろうか、アフガンのこれからが少し気になる一日だった。

カブール その9 夕暮れの街

2006年09月27日 | Around the world 2005-2007
 
 夕暮れのカブール。


カブールはとても夕日がきれいな町だ。それは標高が高いということと、ほこりっぽいことが理由の一つだが、街並みや地形も夕日を美しく見せる要素だった。カブール市内は基本的には平坦な土地だが、所々に小高い山が点在している。大きな夕日はその山に落ちていき、その絶妙な光の加減が空を幻想的な色に染める。そして、旧市街を東西に走る大通り、ジャーダェ・マイワンドを夕暮れ時に歩くと、ちょうどその先に夕日は落ちていく。一日の終わりはどこの国でも賑やかで、忙しい。通りは人や車で埋め尽くされ、露店は夕食の食材を買い求める人が集まり、それとともに店仕舞いのために忙しく動き回っている。それらの光景が強烈で温かい色の西日に照らされてシルエットだけを映し出す。自分はカブールでこの時間が一番好きだった。
今回は夕暮れのカブールの写真です。


 
 ちょうどTV塔のある山に夕日は落ちていく。


 
 ジャーダェ・マイワンドで。夕方、この通りを歩くとちょうど夕日に向かって歩いているような感じになる。


 
 夕方の中央バスターミナル付近で。
 市内でも一番道路が混雑するこの付近は夕方にもなると大渋滞が発生する。近くにある野菜売りの露店も活気づいていた。


 
 崩れ落ちた住宅街で。不謹慎だけど、廃墟は夕日がよく映える。


 
 破壊されたコンテナの前で。


 
 市内に点在する山は日の角度によって刻々とその姿を変えていく。
 西日に照らされたその姿はとてもきれい。地元の人たちもここで夕方の時間を過ごしていた。


 
 バザールで。ちょうど日が沈みきった頃にバザールの一日も終わる。

カブール その8 戦いの跡

2006年09月25日 | Around the world 2005-2007
1979年の旧ソ連のアフガン侵攻以来、戦争に明け暮れたアフガニスタンにはいたるところにその痕跡が見えた。戦災を逃れた建物も多くあり、新市街を中心に新しい建物も建ち始めているが、旧市街や郊外には破壊され、崩壊寸前の建物がまだまだある。その多くは個人の持ち物であるのだろうし、数が多すぎて手がつけられないのが現状なのだろう。


 
 旧市街バザール入り口で。崩壊寸前の建物は市内のいたるところに当たり前のように建っている。
 写真奥の建物も上部は崩壊しているが一階は商店として利用されている。


戦いの跡は建物だけに残っているわけではない。物乞いや働く子どもたちは何もアフガンだけに限ったことではないけど、やはりその数は多いように思える。
ラマダン中はその日のラマダン終了と同時に家で食事をするため、18時にもなるとカブールの街からはさっきまでの喧騒と人並みが嘘のように一気に人がいなくなり、街は静まり返る。露店で働く子どもたちもその付近から姿を消すから帰る家があるのだろう。しかし、18時を大きく過ぎても集団で歩いている子どもたちを何組か見かけた。戦争で両親をなくした何人が仲間を作って路上で暮らしているようだった。


 
 わざわざ道路に寝転ぶ物乞いの少年。
 日中の日差しが強い中、近くを人が通ろうが、車が通ろうがピクリともしない。全てのことに無関心な感じだった。


手足のない人も多く目に付く。長年続いた戦争の結果、アフガンには大量の地雷が埋められた。カブール市内にも戦略的な要衝であった山の上などにはいまだに地雷が埋まっているという。さらにタリバン時代には盗みなどをした犯罪者に対する刑罰はタリバン流に解釈されたイスラム法で行われていた。犯罪者に対する処刑は市内にある競技場で公開されていたという。


                 
           手足のない人が多くいる。足のない人たちは地雷被害によるものが多いのだろうが、
           手は…、タリバン時代の処刑者なのかもしれない。


道路やダムの建設などインフラ面での復興は急ピッチに進んでいるようだったが、地雷にしろ、世界に出回っているヘロインの大半を供給しているケシ畑の問題にしろ、アフガン南部やパキスタンのトライバルエリアを中心にいまだ多く潜伏し、破壊活動を繰り返すタリバンの問題にしろ、問題は山積しているのが現状のようだ。
アフガンの未来は、明るいのだろうか。


 
 大通りから一歩はいった住宅街で。
 自然崩壊した建物もあるだろうが、あたり一面ぼろぼろのものばかり。実際に人も住んでいる。


               
               コテサンギバスターミナルにあるモニュメント。
               鉄筋むき出しのまま放置されている。


 
 カブールの中心部から車で約20~30分のところにあるダルラマン宮殿。
 ここは内戦時に戦略的な要衝として争奪戦が繰り広げられた場所でいたるところに砲撃、銃弾の後が見える。
 宿を紹介してくれたアマノディンさんはここで戦っていたらしい。


 
 ダルラマン宮殿近くで。激戦地の側だからか、この周辺の建物はほぼ破壊されている。
 ひと気がないから、まだ地雷があるかもとびくびくしながら踏み込んでいったが、
 わずかに残った家に住んでいる人たちがいる。


 
 瓦礫が撤去され、広々とした空き地でたこ揚げをする子どもたち。
 アフガンの子どもたちはよくたこ揚げをして遊んでいるが、タリバン時代はそれすら禁止だったらしい。
 女性に関することや処刑方法はイスラム法を拡大解釈すればそこにいたるのかもしれないが、
 たこ揚げを禁ずる教えとは…。コーランを読んでみたくなった。


        
 ソ連の攻撃を幾度も撃退し、タリバン政権時代には北部同盟司令官として活躍した
 「パンジシールの獅子」、故マスード将軍の肖像画は市内のいたるところで見ることができる。
 左:「THE NATIONAL HERO OF AFGHANISTAN」マスード将軍の写真。
 右:チキンストリートの土産物屋で。絨毯のモチーフとしても登場。


 
 車にもブロマイドが張られている。バザールにはブロマイド屋があるが、
 そこに置かれている写真の内、政治関係者では8、9割はマスード将軍のもの。
 ペシャワールのアフガン領事館でも職員が自慢気に写真を指差し、
 「誰だか知っているか?」といってきた。
 正直、もうこの世にいないために当たり障りのない人物を
 国民統合の象徴として祭り上げている気もしなくはないが、大変な人気がある。
 ちなみにカルザイ大統領のブロマイドは申し訳程度に置かれているだけだった。



カブール その7 街中

2006年09月23日 | Around the world 2005-2007
 
 旧市街の通りで。今回は街中を散歩中に撮った写真です。


                
 路地裏で。保守的なイスラム国家のアフガンでは街を歩く女性はほとんどいないのかなと思っていたが、
 意外にも出歩いている女性はある程度いた。 それでも男性に比べると圧倒的に少ないが。
 多くの人はブルカ(あるいはチャドル)と呼ばれる布を頭からすっぽり被っている。
 正確に数えていないが、感覚的には6、7割の人が着用。


 
 中央バスターミナル付近で。写真奥のように住宅の多くは山の斜面に建てられている。


 
 競技場で。付近を散歩中、競技場に入っていく人を見かけ、何かもわからず、つられて入ることに。入場料10AF。
 場内では審判もちゃんといる公式試合が行われていた。ちなみに一つの会場でサッカー、ボクシング、テコンドーが行われている。
 中でもテコンドーは人気があるようで多くの人が見ていた。やっぱり格闘技好きなのか、この民族は。
 ところでその影響もあってかブルース・リーやジャッキー・チェン、ジェット・リーの知名度はかなり高い。
 しかし、大半の人間が彼らのことを日本人と思っている…。


        
 左:㈱椎名工務店さんの車は乗り合いタクシーとしてカブール市内を走っている。
   業務用に使われていた車が輸入されているようで、いたるところで日本語を見かける。
 右:フラワーストリートで。
   この通りはその名の通り花屋何件か並んでいる。イスラムの休日は金曜日なので、木曜日には飾りつけのために結婚式用の車が何台か並んでいた。


                
 夕方のコテサンギバスターミナルで。礼拝の時間前後になるとほとんどの人が祈りをささげている。


 
 礼拝時には手足を清めなければいけないので、水のあるところがいいようだが、こんな場所でも行われている。


 
 空港近くの住宅街で。一般的な家は泥レンガを泥で覆ったもので作られている。
 下水道はあっても写真のように大抵はただの溝を掘っただけのもの。アフガンの衛生状況は極めて悪いと思う。


 
 ジャーダェ・マイワンドの突き当たり付近で。自転車に乗る人もちらほら見かける。
 路地裏バザールには大きな自転車屋街があるが、そこで扱われているのはほとんど中国製だった。


 
 町外れにあったバスの墓場。
 内戦の最中に破棄されたものなのだろうか、あたり一面にバスが積み上げられている。
 現在、カブールの市内バスは各国の援助で新しいものが走っている。


 
 ポリソフカバスターミナル付近で。この通りにも露店が二重三重に並んでいる。
 統計では確か人口300万人のカブールだが、難民が帰還している現在、統計の2倍、3倍に膨れ上がっている印象を受けた。


 
 日が暮れきったチキンストリートで。夜の礼拝をして一日が終わる。

カブール その6 出会った人たち

2006年09月21日 | Around the world 2005-2007
 
 路地裏バザールで会ったおじいさん。今回はカブールで出会った人たちの写真です。


 
 チキンストリートの土産物屋で。ここには片言の日本語を話す人もいた。日本のマスコミ関係者がよく来るらしい。

 
 
 路上で。私には民族の見分け方は、顔つきではハザラ人、もしくは特定の服や帽子を着ている人以外、見分けがつかなかったが、
 この人たちはおそらくアフガンで一番の多いパシュトゥン人。
 アフガン人とは本来この人たちの事を指すらしい。顔の彫が特に深く、目の色素が薄い。


                 
 プルへシティモスクの前で。民族衣装、シャールカミースの着用率が高いが、洋服をちらほら見かけた。


 
 かつては各民族間で激しく争っていたのだろうが、他民族同士でもじゃれあっていた。
 これから先も続けばいいけど…。


        
 カブールのおじいさんたち。立派なあごひげをたくわえている人が多い。
 そして、お年寄りのほうが英語を喋る人が多い気がする。
 戦争が始まる前に教育を受けることができ、ヒッピーの聖地であった頃の名残なのかもしれない。


         
 カブールの親子。
 左:木材屋を営むハザラ人の親子。
 右:シャーリー・ナウ公園で。


         
 バザールおっさんたち。左のおっさんのように威勢よく声を張り上げて商売している。


 
 カブールのおっさんたちは写真を撮るとき、何かしらポーズを撮りたがる。
 子供のまま大きくなってしまっています。でもそれは戦争によって教育を受けれなかったことを暗示しているのかもしれない。


        
 この国の人たちも笑顔の素晴らしい。親切な人たちばかりだった。

カブール 番外編 チャイナコピー

2006年09月19日 | Around the world 2005-2007
 
 「SQMY」の乾電池。


今や中国国内に限らず、世界中に中国製の日本メーカーコピー商品が出回っているが、カブールも例外ではない。
実際、コピーをされている側のメーカー側からしてみれば大問題なのだろうが、ただ、笑ってしまうのが、上記写真のようにもはや元がなんなのかわからないほど変形したコピーがあることだ。
これはおそらく「SONY」をモチーフにしたのだろうが、ソニー製品が身近にない人間にとっては、これがソニーから取ったということにすら気づかないだろう。
ここまでやるならオリジナルの名前をつければいいのにねえ…。いや、これはもはやオリジナルか。

カブール その5 カブールの謎① ブッシュ・マーケット

2006年09月17日 | Around the world 2005-2007
(注:今回、書いた内容は全て筆者、猿渡鉄平の推測、私見によるものです。記した金額、聞いた話以外、正確なデータにはなんら基づいていません。)

ある日、不思議な共同生活を送っているレイ君が喜々した笑顔で息を切らせながら宿に戻ってきた。その手にはなんと日清のカップヌードルがある。私も興奮し、久々にあのジャンクな味わいを楽しんだ。値段は1個15AF(1ドル=50AF)、そして「Made in USA」とある。
なんかおかしい、USA製のものがそんな安く手に入るなんてありえるのだろうか。
泊まっている宿の近く、フラワーストリートには多くのスーパーマーケットがある。そこに陳列されている品々をよく見てみるとキャンベルやハインツの缶詰やゲータレードなどのUSA製品が多く並んでいることに気づく。
後日、レイ君が今度は米軍の携行食料品を手に入れてきた。その内容はかなり充実しており、値段は25AF。
一体これらはどこからやってきたのだろうか。


 
 Photo By Ishida Rei
 レイ君、要望にお答えするよ…。カップヌードルをかっ喰らう、I’m hungry, No Border.

     
 左:米軍携行食料。
 右上:充実の内容。水を加えるだけの発熱材もついている。種類はNo.24まで確認できた。
    本当に戦場でこんなものを食べているのだろうか。
 左下:路上で普通に売っている。


レイ君が聞いてきた話では、カブールにはブッシュ・マーケットなるものがあるらしい。あのアメリカ合衆国大統領、ジョージ・W・ブッシュ、その人の名から命名されたマーケットだ。すごい、合衆国大統領ともなると、前政権の行いとはいえ、自分たちの思惑のために様々な勢力を操り、その挙句、思い通りにいかないものだから空爆をした地球の裏側の国に自分の名前のマーケットを作れるらしい。もちろんブッシュ大統領本人が作ったわけでも合衆国が作ったわけでもないが、私も場所を聞いてそこに行ってみた。


 
 ブッシュ・バザールで。写真を撮っていたら、怒られた。
 かと思うと、他の人は撮れ撮れとせかしていくる。よくわからない…。
 基本的にはあまり撮ってはいけない雰囲気。


再びレイ君の話からだが、ここでは米軍をはじめとするISAF(International Security Assistance Force )の放出品を扱っているらしい。さらに「アリババ」(千夜一夜物語の、アリババと何人の盗賊でしたっけ?つまり、盗んできたらしい…)してきたものもあるらしい。
私が行ったときは夕方だったためか、人もまばらだったが、地元アフガン人も買い物に来ていた。写真を撮るのもそこそこにケロッグのコーンフレークやブッシュ大統領がのどを詰まらせるほどおいしいプリツェルなどを買いあさっていたら、「君、ジャーナリストか?」と聞かれた。「いや、ただのツーリストだけど」と答えたにもかかわらず、聞いてもいないことを色々と教えてくれる。それによると、ここからジャララバート方面に4~5km行った所にある「シープマーケット」という所が放出品の取引場らしかった。

     
 左上:アメリカンな品揃え。スーパー、バザールで買うよりも安い。
    例えば、携行食料品は20AF、ゲータレードの粉末は一袋、2.5AF!!激安です。
    しかし、アメリカ製品が圧倒的に多いのが気になる。
 左下:「made in USA」のキッコーマンの醤油もある。
 右:やっぱりここにもいた。制服を着たまま、カウンターに立つ警官。君の本職を聞きたい。


バザールやスーパーの品揃えもそうだが、カブールには、なぜこんなものがここにあるんだと思うものがいくつもある。中央バスターミナル周辺やコテサンギバスターミナルからポリソフカに向かう道の途中には古着や古靴を扱う露店が並んでいるが、その中にはイングランドのプライベートフットボールチームのユニフォームやリーバイスのジーンズなど海外の古着が多く置いてある。それも多くは1~2ドル程度の安値で売られている。
どう考えてもアフガン人がわざわざ買い付けに行くとも、イギリス、アメリカの古着屋がここまで売りに来るとも思えない。これは邪推なのかもしれないが、私は援助物資が横流しされているのかなと思った。
さらにブッシュ・マーケットだけでいえば、基本的には賞味期限切れのものを放出するようなのだが、中にはまだまだ使える、賞味期限が切れていないものも並んでいる。キッコーマンの醤油などその典型例だ。米軍の食料品や消耗品の管理方法など何も知らないが、まさか…、少し汚職のにおいがした、まぁ、勝手な想像だが。
それとも、アメリカ製品をアフガンに溢れさせて、親米感情を育てているのか、それにキッコーマンの醤油が米軍にあるなんておかしいじゃないか、これはキッコーマンの陰謀、世界戦略だ、きっとバグダッドはここよりも醤油まみれになっているぞ、などとレイ君と笑い話もしていたが。

私が感じる限りでは、今のカブールの活気は援助特需といった感じだ。とにかく、これだけの物を買う金の出所が全くわからない。現在、アフガンにこれほど大量の輸入品を買い付けるだけの輸出品はないと思う。とすれば、ここの経済を支えているのは難民が持ち帰ってきた財産か、戦争中に集められた援助のストック、麻薬、密輸に代表されるマフィア経済、それに国際機関や各国からの援助しかない。
この先、マフィア経済が駆逐され、援助も止まった時、アフガン経済はどうなるのだろう。その二つが同時にとまることは無いのかもしれないが、金がなくなった時の人間ほど怖いものはない。限られたパイを巡って、再び争いだす、なんてことにならなければいいが。

カブール その4 警官たち

2006年09月15日 | Around the world 2005-2007
 
 カブールの警官たち。


カブール市内にはそれこそいたるところに警官がいる。ただ交通整理のために働いている警官もいるが、その大多数はテロ対策など治安維持のために動員されている。
ということで、不審な人間は当たりかまわず職質するのが彼らの仕事なわけで、カメラ片手に民族衣装の国籍、人種不明な私など格好の職質対象だ。街中で呼び止められるのは一度や二度ではなかった。
大抵はパスポートを見せ、「日本人だ、旅行者だ」というとそのまま終わるが、英語がわからず、パスポートの見方も書かれている内容がわからない警官は律儀にも、私にとっては迷惑だが、警察署まで連行し、上官に報告をする。
しかし、まじめに仕事のためだけに職質をする警官は少数派だ。街を散歩していると、警官に呼び止められる。パスポートを見せても、逆さに見たり、全く関係のないページを見ただけで終わったり、何のために見ているのかわからないことが多い。その後、日本語とアフガン語で会話になっていない会話をするが、結局、最終的には、「俺の写真を撮れ」になる。それはそれで自分にとっては面白いのだけれど。


 
 信号機らしきものはあるが、基本的には交差点の往来は警官の誘導でさばかれている。


 
 どこにでもいて、どこでも写真を撮らせてくれる警官。
 左上:競技場の警戒に当たる兵士。
 左下:ダルラマン宮殿の前で。ここは一応、撮影禁止場所。
 右上:空港前に飾ってある戦闘機の前で。空港なので撮影禁止のはず。
 右下:ある役所の前。あちらから声をかけてきて「アクスビギ」(アフガン語で「写真を撮れ」)といってくる。


そして、横暴であったり、職権を濫用したりする警官も目に付いた。
露店の人々に対し、おそらく、道にはみ出しているという理由だけで、くわえタバコをしながら、棒で叩き、蹴り上げている警官がいた。
ある警官にはしつこく日本の金をくれといわれ、「お前はタリバンだ、今から署に連行する」と冗談とも取れない感じで付きまとわれる。いい加減うっとうしくなり、近くのジューススタンドに逃げると、そこまでついてきて、そこのジュースをただ飲みする警官もいた。しかもその警官はそこで公然とハシシまで吸いだす始末である。
アフガンに限らず、大抵の発展途上国において、警官の権力は絶大なものがあるから、人々は見てみぬふりで黙っている。
別にハシシを吸っていることはどうでもいいが、その態度があまりに腹立たしかったので、逆に「おう、警察署に行こうぜ」というとどっかにいけという感じで手を振られる。全てが適当だ。
お世話になった警官もたくさんいたが、はっきりいって、ろくでもない警察機構だ。私がカブールに来た前日とカブールを発った翌日にテロがあったが、こんな警備体制では防げるわけがないよね…。


 
 ダルラマン宮殿前の警官詰所前で。
 外で警備に当たっている警官と話していると、「ちょっと来い」と詰所に招かれ、一緒に昼食をご馳走になる。
 ありがたくいただいていたが、よく見てみると、表に誰もいなくなっていた…、いいのかそれで。
 仕事よりも客人をもてなすことのほうが重要です…。


        
 同じく警官詰所の警官たち。弾倉がついたままの自動小銃を持たせてくれる。
 その後、ラジオから流れる音楽に合わせて狭い部屋で踊りだす。 一体、どれだけ陽気なんだ。
 左の警官はかつてムジャヒディン(イスラム義勇兵)としてソ連と戦っていたらしい。


        
 カブールにはホテルなどを中心に民兵も多くいる。
 左の民兵は「自称」ウサマ・ビンラディン。タリバンやアルカイダのことは既にギャグになりつつあるらしい…。こっちが引いてしまう。

カブール その3 バザール

2006年09月12日 | Around the world 2005-2007
 
 路地裏のバザールで。今回はバザールを散歩中に撮った写真です。


        
 左:小鳥を扱う商店が集まる一画で。
   ペシャワールでも何件か見たが、アフガン人はペットとして小鳥を飼う習慣があるようだ。
   タリバン時代には小鳥を飼うことは禁止だったらしい。
 右:中央バスターミナル付近で。ティーバッグの叩き売り風景。
   サクラなのかも知れないが妙に人が集まっていたので、つられて買ってしまった。


 
 路地裏のバザールで。石鹸に埋もれたおやじたち。


        
 左:肉屋で。前述のように周辺には頭が転がっている。
 右:路上のパラオ屋。肉は入っていないが甘い人参がたっぷりはいって一皿20AF。


 
 乾物屋で。大豆、胡桃、レーズンなど種類も豊富。
 お金を出して品物を指差せばその分だけ売ってくれる。


     
 アイス屋の面々。街中に数軒あり、アフガン人もよく食べている。少し癖のある味だが、中々おいしい。
 基本的に昼だけの営業のようでラマダンに入り、食べられなくなったのが残念だった。
 材料のはいったボールを氷にこすり付けて作るためにアイス職人は鍛えられた腕をしている。


 
 川沿いのバザールで。右端の男性のようにアフガン人はスカーフを噛みながら歩いていることが多い。
 噛んでいるというよりも噛み締めているといった感じ。
 理由はよくわからないが、忍耐強い民族性らしいので何かに耐えているときのポーズなのだろうか。


 
 お菓子屋で。子どもたちが買い物に来て、なにやら話しています。

        
 左:乳酸飲料の屋台。
   うまそうだったので頼んだが、酸味に塩味というなんとも表現しがたい味で、ちょっと日本人の舌には合いそうにない。
 右:人参ジュースの屋台で。野菜ジュースの屋台はいたるところにある。
   その場でミキサーに掛け、氷が浮かんだジュースは冷えていてうまかった。


 
 スイカ、メロンの露店で。バザールのおやじたちはみんないい味だしています。

カブール その2 活気と矛盾

2006年09月10日 | Around the world 2005-2007
 
 ハリアフメッドザイカダヒール・ホテルの部屋から見たカブール。


カブールに到着した翌日からこの街を歩き回ってみた。
この時期(9月中旬)のカブールの街は乾燥した空気に包まれ、午前中は少し肌寒さ感じる日本の秋のようなさわやかな陽気だ。最初、泊まっていた旧市街の宿からすぐのところにバザールがある。果物や乾物、フルーツジュースを扱う露店が集まる一帯を抜け、プルへシティモスクを眺めつつ、カブール川沿いに歩いていくと本格的にバザールが始まる。
そこには数え切れないほど無数の露店が連なっていた。
まず、豊富な野菜、果物の種類に驚かされる。トマト、ジャガイモ、タマネギ、ブロッコリー、ナス、キャベツ、ニンジン、そしてオクラまである。果物もリンゴ、ブドウ、ザクロ、スイカ、メロンなどアフガンの大地がこれほど肥沃だとは知らなかった。
中国製品を中心に日用品を扱う露店では、およそ生活する上で決して不自由はすることはないだけの豊富な物資に溢れている。他にも、時計、服、靴修理の露店、おもちゃ、多額の現金を見せびらかすように路上に並べる両替商などが途切れることなく軒を連ねている。
さらにその両端には屋内に店を構える商店や貴金属商があった。


 
 プルへシティモスクは旧市街、バザールの入り口に建つ。


 
 人が行きかうカブールのバザール。


 
 左上:野菜の露店で。
 左下:日用品は中国、パキスタン、イランからやってくるよう。
 右上:肉屋では頭がごろごろしている。
 右下:ポケモンゲット!!何でも売っています。


 
 左:本当にお金を見せびらかしてくる両替商。
 右:世界各国の紙幣が並ぶ両替屋。こんなに多くの通貨を他の国では見たことがない。


川沿いを15分ほど歩き、官庁街に行き着いても、その露店群がなくなることはない。
携帯電話からiPod、プロテインまで売っており、食事時ともなると食堂は満席になり、店員が忙しく動き回っている。
バザール群はこれだけではない。川沿いの道から一歩、路地に入っていけば、そこにはさらに多く商品を並べた露店、商店が並び、そして人が集まっている。
また、各バスターミナル周辺にも同様に多くの露店がある。
大通りに出れば、他の成長中の発展途上国にも引けをとらない、むしろそれを上回る量の車がきちんと舗装された道路を走り回り、渋滞が発生するほどだ。そのほとんどは日本車で、さらに言えばトヨタ車ばかりが目立つ。
私にはその全てが意外なものであり、驚愕するほどの光景だった。


 
 カブール中心部付近の山、TVタワー山?から見た市内の様子。


     
 左:街に何件もあるジムの看板。
   プロテインを扱う店も多く、写真を撮らせてもらう時、力をこめるポーズをとる人も。
   とにかくマッチョ願望有りなアフガン人。
 右上:シャーリー・コナ(新市街)のビル。近代的なビルの建設も進んでいる。
 右下:高級ホテル内のカフェ。国連職員など外国人用の施設も多くある。
    ちなみにラマダン(断食)中は外国人用といえども営業していなかった。


 
 カブール市内の渋滞。何車線道路なのかわからないほど車が入り乱れている。交通ルールはなきに等しい。


最初もっていたカブールに対するイメージとあまりにかけ離れた現状に戸惑いすら覚えた。
私の持っていたアフガニスタン像は長期の戦争によって混乱した国内状況、疲弊しきった経済だった。そして、戦争が終わり、数年たったとはいえ、それはあながち間違った想像ではないと思う。
だから、そのイメージどおりのカブールをあるいは必死になって探すようにひたすら街を歩き続けた。イメージどおりの、負の遺産にまみれたカブールがあるはずだと。
確かにそれはあった。バザール近くにも崩れかかり、鉄筋がむき出しになった建物が多く残っている。人々でにぎわう街中には物乞いや廃プラ収集や車の窓ガラスを無断で拭いて金を請求したり、仲間だけで商売をする子供たちがいた。手足がない人たちも、6年前に行った、ここ同様に最近、内戦が終わり、地雷被害が多発していたカンボジア以上に多くいる。
なるほど、これが戦争の傷跡かと勝手に納得し、今度は別の場所に行ってみると再び、活気溢れる生活を目の当たりにし、既成イメージは崩されていく。


 
 ジャーダェ・マイワンドに面した建物。


そんなギャップの激しいカブールは様々な想念を湧き起こしてくれ、毎日、飽きもせず歩き続け、感動すら覚えていた。
しかし、そのギャップは同時にこの活気に満ち、表面的には豊かな光景に対して異様さを感じさせ、疑問を感じさせた。一体、これだけの物資はどこからやってきているのだろう。カブールの街を歩けば歩くほどその疑問はますます膨れ上がっていった。

最初、1週間ほどでここを出ようと思っていたにもかかわらず、それは2週間になり、結局、3週間もカブールにいることになった。
理由はいくつかあった。カブールに対する疑問もそうだが、一つは、最初、泊まっていた宿とは比べ物にならないぐらい快適な宿を手に入れたからだ。
汚物が溢れ出し、この世のものとは思えないほど臭いトイレの前にある部屋に耐え切れず、他の宿を探していた時に、偶然、アフガニスタンを研究している大学生、レイ君と知り合い、彼が見つけたアパートをシェアさせてもらうことになった。(現在、ここはゲストハウスとして経営している。仲介しているのはアマノディンさん。1泊5~7ドル。チキンストリートで「アマノディン、コジャー?」と聞いて回れば見つかると思います。)そこは自炊設備もついており、カブールの豊富な食材を使って、久々に料理をすることもできた。
そして、その日に見てきたことを話したり、アフガンのことをレイ君に聞いたりする時間は充実したものだった。何より、カブールで生活をしているというシュチュエーションが面白い。

もう一つは、私はこの町にいるとなんだかわくわくしてならなかった。それは、今、自分はあのカブールにいるという優越感のようなものであり、この町の雰囲気に見せられていたからでもあったと思う。
そして、その雰囲気を形作っているのはここに住む人々だ。
カブールの人たちは本当に陽気だ。街を歩いていると必ず多くの人に声をかけられる。今日はあそこに行こうと思い、ついでにバザールを経由していくと、目的地にたどり着けないほど人々から声をかけられる。そして、写真を撮らせてもらい、それを見せると誰もが嬉しそうに満面の笑みで喜んでくれる。デジタルだと知らない人たちは、写真を見せると、目を見開いて驚き、あわてて周りの人を呼び集めて、子どものようにはしゃぎだす。
これもギャップの一つだった。こんなに純朴な人々が本当にソ連との戦争を戦い抜き、泥沼の内戦を長年続けたという事実を私はカブールの人々からは見出すことができなかった。それともだから一部の権力者たちに蹂躙されて内戦は長引いたのだろうか。


 
 陽気…、もっと言えば変な人たちばっかり。


3週間過ごしたカブールを発とうと決めたとき少し切なくなっていた。
それぐらいカブールは気に入った所だった。だから、まだまだこの町にはいてもよかった。でも、少しずつここに対して、好奇心が薄れていく自分がいた。それはカブールに対してだけでなく、アジア的な雰囲気に対して、飽きている自分がいた。好奇心を磨耗させてまで一つの場所にとどまり続けるには、自分の旅は長くなりすぎている。
全く違うものを見たくなった。文明に溢れた大都会を。イスタンブールに行きたいな、そう思い始めた時、ひとまずバーミヤンに向けて移動をすることにした。



カブール その1 カイバル峠を越えて

2006年09月09日 | Around the world 2005-2007
タクシーはここがトライバルエリアだということを忘れさせるぐらい、何事もなく、ごく普通にカイバル峠を走った。
ただ一つ困ったことは峠の写真を撮りたくても、ドライバーも警官も英語をまるで解さず身振り手振りで伝えても、
車を止めてくれないことだけだった。


 
 カイバル峠。


9月9日、朝7時半にババジイと約束をしていたにもかかわらず、彼は現れなかった。
トライバルエリアに入域するためのパーミットは1日限りのもので、今日を逃せば再び手続きをしなければならない。
時計の針はもう8時を回っている。
ババジイと行くことをあきらめ、流しのタクシーを捕まえ、国境へと向かうことにした。


 
 国境の町、トルハム到着直前に。


国境の町、トルハムは驚くほど多くの人と車でにぎわっていた。
出国も入国も簡単に済み、ポーターの少年とアフガンに入国し、そのまま案内され、バス、乗り合いタクシーのたまり場まで連れて行ってもらうと、そこには100台はゆうに超える数の車が止まっていた。
それぞれの車は盛んに客引きをし、活気に満ちた国境の風景だ。
そのうちの一台に乗り、カブールに直行することにした。
アフガン都市間移動の主役であるトヨタのタウンエースはきれいに舗装されたアスファルトの道路を猛スピードで走っていく。
途中、何ヶ所か検問があったが、乗り心地はすこぶる快適で、いわゆる文明的なものだ。
今、自分があのアフガニスタンにいるという実感はまるでなかった。
次第に緊張も解け、舗装路が終わり、悪路に入っていくと、振動が逆に心地よく、眠りに落ちてしまった。


 
 アフガニスタンイミグレ前で、ポーターの少年たち。


もう日がくれ、まもなく夜がやってきそうな時間にタウンエースはカブールに到着した。
同乗していたアフガン人とさらにタクシーで市街地まで行くと、人や車が行き交うにぎやかな通りで車から降ろされた。
今いる場所がどこなのか見当もつかず、バックパックを抱え、きょろきょろしているとあっという間に大量の人が集まってくる。
ここがどこなのか、教えてもらおうと聞いて回るが、英語ができる人はまるでいない。
いくつか地名をあげると、ここはプルヘシティ・モスクの近くだということがわかった。
もう日は沈んだ。少々、あせりながら急ぎ足で宿を探し回り、決めた宿は今まで泊まった中でも1、2を争うほど汚く、臭い部屋だった。そのくせ300AF(1ドル=50AF)とこれまでの地域に比べると倍以上の値段だ。
しかし、これ以上、宿探しのために外をほっつく歩く時間ではなかった。初日から夜のカブールを歩く勇気は自分にはない。
食事をし、部屋の中を歩いただけで大量の埃が舞い上がる部屋から夜のカブールを眺めるとさっきまでの喧騒が嘘のように通りは静まりかえっていた。そんな光景を見ているとカブールに来たという実感がわきあがってくる。
とにかく、朝が来るのが楽しみだった。

ペシャワール その5 ババジイツアー

2006年09月08日 | Around the world 2005-2007
ペシャワールにはトライバルエリア(部族の自治が認められている地域。そこではパキスタンの法律も警察力も及ばず、部族の掟、慣習法が優先される。)など単独で行くには危険な地域に連れて行ってくれ有名人が3人いる。
そのうちの2人、プリンス、フセインにはここに来てすぐに知り合ったが、もう一人、ババジイには中々、会わなかった。
ある日、新市街を歩いていると老人から突然「おい、アフガンにはいつ行くんだ」と声をかけられた。
なぜそのことを知っているんだと不審に思ったが、興味がわいて、話を聞こうと近づいていくとその老人がババジイだった。
最初は、国境までのタクシー代の交渉をしたが、ツアーもそこまで高い料金(4人のグループで一人450ルピー)ではなかったのでついでにツアーにも参加することに。
今回はババジイツアーの写真です。


        
 左:最初に訪れたバザールで。民族衣装の刺繍風景。ここはツアーでくる必要性を感じない変哲もないところだった。
 右:バザールの雑穀屋。手前に見えるのはケシの実を乾燥させたもの。


        
 続いて訪れたアフガン難民キャンプで。
 ここは戦争でアフガニスタンを追われた人々が暮らしている。


 
 難民キャンプの子どもたち。大人たちは親切で一見、危険はなさそう。
 が、子どもの、もちろん男、質(たち)がよろしくありません…。


アフガン難民キャンプを出発して、次はいよいよトライバルエリア、かと思いきや、近くで乗ったタクシーはゲートの手前で曲がっていく…。結局、今回のツアーではトライバルエリアに行くことはなかった。プリンスのツアーは行くようだが…。


        
 左:トライバルエリア付近のとある場所で。銃、偽札、薬物となんでもありです…。
 右:このじいさんがババジイ。興奮すると早口になるのがかわいらしい。
   新市街のモスク近くにあるジュース屋に朝から座っています。


 
 銃工場で。無垢のアルミを削りだして、銃を作っていく。


 
 銃職人の男。それはモデルガンか、思わせるほど簡単に銃を作っていた。


 
 銃の試射をさせてもらえる。
 以前、AK47を撃ったことがあるが、感覚的にはそれよりも衝撃は強かった。


 
 最後に行ったトラックペイント工場で。
 中古トラックをトラックペイント職人がきれいにデコレーションしていく。
 カブールからもペイントのためにトラックが訪れていた。


 


トライバルエリアにはいけなかったが、値段も手ごろで、無駄に長くもない、楽しいツアーだった。
何より、私は年寄りといると変に疑うこともないし、甘えれて落ち着く。
最後にババジイと明日のアフガン行きを約束し、ツアーを終えた。

ペシャワール その4 出会った人たち

2006年09月06日 | Around the world 2005-2007
ペシャワールで出会った人たちの写真です。


        
 左:ハザラ人の男性。アフガニスタンにも多く住むハザラ人はモンゴリアンで日本人と顔がそっくり。
   彼らもそのことを知っているようで、自分の顔と私の顔を交互に指差して、握手を求めてくる。
 右:立派なひげをたくわえている人が多い。


        
 子どもの頃はこんなにかわいらしいのに、大人になるとごつくて、ひげ面のおっさんに変貌してしまう。


       
 バザールの人たち。ラッシーは棒を手のひらで回し、攪拌してから飲む。


        
 写真を撮るときに何かとポーズをつける人が多いです。

 
 
 ペシャワールに海はないが、かもめはたくさんいます。


        
 ペシャワールの子どもたち。


       
 ペシャワールの女の子たち。保守的なこの地域では子どもも含めて、あまり女性の写真は撮れない。
 これは宗教、習慣的にだめなのと同時に、純粋に恥ずかしいという理由もあるように感じた。
 写真左の女の子はバスの中から写真を撮る私をちらちらと見ていた。
 こっちにおいでと手招きをすると恥ずかしそうに奥に引っ込んでいく。
 外で話していた親戚の男性がこの子を連れ出してきて、撮らせてもらう。


 
 旧市街にいた物乞いの子どもたち。写真を撮るポーズをするとみんな喜んで集まってきた。
 女性が写真を撮られるのを嫌がるのは教育によるものなのだなと実感させられる。

ペシャワール その3 散歩中に

2006年09月05日 | Around the world 2005-2007
ペシャワールを散歩中に撮った写真です。


 
 ペシャワール市街地のすぐ近くの羊飼いたち。


 
 少年とヤギ。仲良く戯れているが、ヤギが少しでも反抗の意を示すと殴る蹴るの制裁を加えます…。


 
 パキスタン名物。ギラギラバスの前で。


 
 線路付近に立ち並ぶ露店街で。ローカル色がかなり強い場所。


        
 写真を撮ろうとすると、子どもたちが目の前で手や袋を振って、邪魔してくる…。
 さらに、あまりにも写真を撮ってくれと要求してくる人が多かったために、ある程度無視していたら、
 子どもだけでなく、大人からもブドウだ、トマトだと投げつけられた。
 頭に来て、いつもの調子でこちらも投げ返してやったら、剣呑な雰囲気になってきたので、逃げることに…。
 はっきりいって、ここは危険です。あまり歓迎されている様子はなかった。


 
 ひたすら付きまとわれている最中に。大人も子どもも、子どもです…。


        
 前日の夜に撮った上記の露店街。売られているものはここが一番豊富だった。面白かったので、翌日も行ったら、ひどい目に合わされた…。


 
 夕方、新市街にあるモスクの前で。