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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

中国を富ませてきた日本の中の親中派という存在①

2019-08-19 03:45:49 | China
香港で起こった「逃亡犯条例改正案」の完全撤回や行政長官の辞任を求めるデモは、6月9日のデモで103万人、16日のデモで200万人もの市民が集まったそうで、97年の香港返還以降最大の「反政府・民主化デモ」の様相となっている。


「逃亡犯条例改正案」は香港で拘束した容疑者を中国本土に引き渡せるようにする内容で、中国に批判的な人物が移送対象になるとの懸念が強い。 


8月15日に行政長官が「条例改正」の延期を発表したものの撤回には応じず、市民の反発が強まって数千人が香港国際空港に集まって平和的な座り込みが続いていたものの、8月13日に一部のデモ参加者が警察と衝突。中国政府はこれを「法的・倫理的な一線を越えた暴力犯罪」と非難し、この衝突について「テロに近い行為」だと述べて批判を強め、中国当局の介入の可能性が高まったと指摘されている。


中国当局が香港市民の一連のデモ行動を「テロ行為」と結び付ける発言をしたのはこの1週間で2度目ということで、中国当局の介入の可能性が高まったことに対し、米国は「中国の人民武装警察部隊が香港との境で行動していることに深い懸念」を表明。香港の自治を尊重するよう求めたそうだ。


これは中国側からすれば「内政干渉」になるのかもしれないが、中国という国の人権意識の低さは1989年6月4日の日曜日に起きた「天安門事件」などの衝撃的な映像記憶が30年経ってもいまだに世界にとって生々しく、一方の中国では、この事件は「なかったこと」になっているということで、「民主化運動」という共通のキーワードがあるだけに、香港のデモの行方と中国政府の動きに国際社会は注目すべきである。


天安門事件のきっかけは1989年4月15日、胡耀邦元総書記が心筋梗塞のため亡くなり、北京にある天安門広場で学生らによって追悼集会が開かれたことから始まった自然発生的なデモで、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まった。


亡くなった胡耀邦元総書記は「百花斉放百家争鳴」(ひゃっかせいほうひゃっかそうめい)という「中国共産党に対する批判を歓迎する」という主旨のスローガンを唱え、言論の自由化を推進しようとした人物で、これを受けて国民は様々な意見を発表したものの、百花運動の方針は間もなく撤回され、結局この運動に釣られて共産党を批判した者はその後の反右派闘争で激しく弾圧されたといわれている。


胡耀邦元総書記は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中、心筋梗塞で倒れ4月15日に死去。


追悼集会は、胡耀邦を解任した最高指導者、鄧小平氏への抗議活動の意味合いも含んでおり、徐々に形を変え、中国独裁体制を否定し、民主化への移行を求めるものになっていったことで、中国共産党が5月19日に北京市に戒厳令を布き、デモの鎮圧のために警察ではなく軍隊を動員。


6月に入り、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられ、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになり、6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された。


6月4日未明、戒厳令実施の責任者である李鵬首相の指示で人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が、天安門広場を中心にした民主化要求をする大学生を中心とした民衆に対して投入された。


複数の外国メディアや大使館からの公電によれば、解放軍の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で民衆に対して無差別に発砲。戦車で大学生らを生きたまま踏みつぶすという残酷な映像などは特に世界に大きな衝撃を与えた。


以下はwikiからの引用。「中国人民解放軍のトラックは、事前に民衆に襲撃されり、武器や弾薬の一部が民主化デモを行っている市民側に奪われていた。現場に居た四君子の一人である高新の証言によると、当時の天安門広場には、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル1丁、機関銃1丁があり、民衆は非武装・無抵抗ではなく人民軍と戦闘を行う準備がある程度は整っていた」しかし、その武力の差は歴然であったのではないだろうか。


「広場へと続く道路では民衆がバスを横転させ放火し、炎のバリケードを作り、橋の上からは石やコンクリートブロックを兵士に投げつけた。兵士の一部はデモ隊に巻き込まれ、暴行され、撲殺される者も居た。或いは逃げ遅れた兵士を民衆が捕まえ、ガソリンを掛けて燃やし、死体を陸橋にぶら下げるなど、民衆による残忍な行為もあった」


「人民軍の発砲は味方が死傷する様な重大局面で行われており、一方的な虐殺ではなく双方に被害のある市街戦だったと述べている。また、矢吹は89年12月4日の『読売新聞』夕刊においても、天安門での虐殺は不確かな噂やデマに基づく誤報だと指摘。一晩中現場に居たスペイン国営テレビの極東支局特派員ファン・レストレポ記者も同じく、本国のマドリードに送ったテープが恣意的に編集され、広場での虐殺という歪んだ事実が報道されてしまった」と、述べているようだ。しかし天安門広場に投入された戦車は民主化を叫んで軍と対峙した若者逹を生きたまま踏みつけ、民主化デモに参加した市民への殺戮が行われた映像記録として物語っている事実であった。


その後中国は世界中から非難を浴び、国際的に孤立。その中国が国際社会に復帰する機会を与えたのは日本であった。


日本の天皇が中国を初めて訪問したのは92年(平成4年)10月23日~28日。当時の日本は宮澤喜一首相(1991年11月5日~ 1993年8月9日 在任)と外務省事務次官は小和田恒氏(91年~94年)であったようだ。


小和田恒氏という人物は「ハンディキャップ論」の持ち主であり、朝日の捏造記事を主な根拠にした売国的「河野談話」発表当時(93年8月4日)の外務省トップであった。因みに恒氏長女の雅子様のご婚約内定がその翌93年1月19日、ご成婚の儀が6月9日。


昭和天皇は侍従長を長く務めた入江相政氏の日記などから84年4月20日に「中国へはもし行けたら」と思いを述べた、と記されており、自らの代での中国ご訪問を切望されていたともされる。


「日中国交20周年」ということで、橋本恕(ひろし)中国大使などの強い働きかけで 平成天皇が両国の歴史上初の国家元首としてのご訪問をし、大いに歓迎されたとある。しかしその当時の背景としては中国がまともな民主主義国家とは到底思われなくなっていたことで国際社会の中で当時孤立していた状態であったこと、そのイメージを払拭するのに政治利用されたのが日本の皇室であった。


実際、当時天皇訪中には自民党内の保守派を中心に「天皇の政治利用だ」「謝罪外交ではないか」などとして、強い反対の声があったそうで、衆院議員だった石原慎太郎氏は「文芸春秋」92年10月号に「多くの国民の不安」の題で寄稿し、「(天皇訪中は)憲法違反の恐れ」に言及している。


「この御訪中の目的が、日本としての最強の切り札を使って従来の日中関係に片をつけ、時代を区分するためというなら、それは明らかに外交の案件であって、『政治』以外のなにものでもなく、憲法に決められている『象徴』としての天皇の規範を逸脱するものであって、天皇をして、陛下が日頃遵守(じゅんしゅ)するといわれている現行憲法に違反する行為をとらしめる恐れがある」と寄稿しているそうだ。


日本の天皇が初めてご訪問されるタイミングとして、92年は中国の現代史上最大の汚点とされる天安門事件からわすか3年後であった。


当時中国は国際的に孤立していたし、当時の日本の名目GDPは米国(世界の26%)のGDPの約半分の13.7%、中国は僅か1.7%に過ぎなかったので、今の中国と違い、日本からの様々な技術支援、資本投下を切望している状況であり、当時の中国共産党は「反日」などはおくびにも出さなかったのである。


80年代から始まった中国へ進出する日本企業は増え続け、2015年10月時点で日本企業の中国進出拠点は約3万4千拠点。この数字は世界で日本企業が進出している拠点数の約47%と当時、圧倒的な数字であった。


92年に日本の国家元首の初の中国訪問を機会に日本の製造業は本格的に中国進出を進める一方で、日本は91年~93年頃にかけバブル経済が崩壊し「失われた20年」に突入。


一方の中国は長足で国力を伸ばし、2010年に日本は中国にGDPで追い越されていくことになった。


89年10月日本の皇室として初の中国ご訪問。背景は万里の長城。


因みに英国から国家元首が初めて中国を訪問したのは天安門事件の3年前の86年10月。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国のエリザベス女王が招待を受け、英国の国家元首が国賓として訪中するのは、歴史上初の出来事だったそうだ。


しかし、その後英王室のメンバーは実に30年間 中国訪問を行わなかった。2015年、つまり天安門事件から数えれば26年後にウィリアム王子が中国を訪問したのが英王室からの2回目の訪問たったそうで、この際には中国は大変な歓迎ぶりであったそうだ。


86年10月鄧小平国家主席と並んでレッドカーペットを歩くエリザベス女王


引用:






参考:拙ブログ記事


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2 コメント

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親中派の罪 (泉城)
2019-08-21 00:20:56
親中派の影響について、的確に記されていてよく理解できます。
特に外務省の幹部がいかに中国に肩入れしていたか、それが日本をどれだけ不利にしたか。
残念などという平凡な言葉では言い表せません。
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おはようございます (kamakuraboy)
2019-08-21 04:44:02
コメントをありがとうございます。中国に肩入れし過ぎたようですね。あまりにも「自虐史観」に基づくアジア外交であったことからでしょうか。平成天皇の中国ご訪問なども、外務省や財界などの様々な思惑によって「政治利用」されたものだったようですね。
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