2018/4/24(火) 午後 11:13
ゾルゲ事件は、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけてその構成員35名が逮捕され、ゾルゲと尾崎秀実が死刑判決を受けた日本史上最大のスパイ事件。
ソ連国籍のドイツ人Rゾルゲはソ連コミンテルン本部の指令で1933年9月に来日。上海で旧知の大阪朝日新聞社記者の尾崎秀実(ほつみ)らと接することで、軍や政府上層部から二・二六事件、日独伊三国同盟、関東軍特別大演習など対ソ情報を入手諜報していた。
このスパイ組織の一人である尾崎秀実は近衛文麿内閣のブレーン集団「昭和研究会」に入り込み、ゾルゲの日本語教師という名目で彼の家に出入りし「日本軍が満州からソ連に進行する「北進」の作戦ではなく「南進」の作戦(注)を取ることを選んだという重要な軍事情報等々を漏らし、近衛内閣がそう決断するよう情報工作をかけていたのだ。
尾崎秀実は朝日新聞記者で、具体的には、朝日新聞記者時代から内閣嘱託、満鉄嘱託を務め、後に対満州・対中国政策に影響を与えてジャーナリズムの上での日本の対中認識について世論誘導(ミスリード)面で大きな役割を果たした。
当時、尾崎は朝日新聞や雑誌で徹底的に、支那事変において「中国国民党軍(現在の台湾)と戦うべし」と主張し、日本の軍事戦略を泥沼化させ、国民党と対立していた中国共産党(現在の中国)の生き残り戦略を手助けしようとしたのだ。
というのも、国民党軍と日本軍が講和すれば、兵力的に劣勢だった中国共産党は壊滅していたと思われる。国民党軍との不毛な戦いに日本軍の力は消耗させられることとなってしまったのだ。
後の取り調べで尾崎は、自分の持論は日本並びに世界の「共産主義化」であると供述し、「国際共産主義」によるスパイ団の一員となっていたことを明らかにしている。
1941年9月から1942年4月にかけて尾崎(朝日新聞元記者、当時満鉄嘱託)ら35人が検挙され、1944年3月15日に東京地裁は非公開でゾルゲ、尾崎に死刑を判決、同年11月7日に二人は処刑された。
ゾルゲ諜報団の主要メンバーの一人で、在米日本人として昭和6年(1931年)にアメリカ共産党に入党していた宮城与徳という画家は、その頃からアメリカの警察に目をつけられ、日本に帰国後は英語が堪能であったことと画家としての立場を上手く活用してゾルゲらと連絡をとりながら共産主義工作活動を続けた。ゾルゲと宮城のパイプ役を務めたのが野坂参三であった。
この野坂参三こそ、社会主義国家ソ連(コミンテルン)の指示のもと世界中で暗躍し、戦後の1945年10月現在の「日本共産党」をつくった人物で、平成5年に亡くなる前年の平成4年にその「闇の深さ」から、日本共産党が除名している。
太平洋戦争突入の背景には共産党ソ連のスパイ工作活動があったということ。
日本が中国国民党との戦争を早期に終わらせ、アメリカに宣戦布告するのではなく、ドイツと共にソ連と戦って挟み撃ちしていたならば、もしかしたら世界史が変わっていたのかもしれない。
要するに「日本共産党」と「朝日」は亡国の、ソ連(ロシア)&中国共産党の「草の者たち」なのだ。日本共産党は現在でも公安の監視対象でわかり易いが、我々日本人は「朝日」のミスリードに惑わされぬよう、彼らの主張を信じてはならない。
朝日新聞のOBは、中国共産党の工作機関ともいえる「孔子学院」の講師をつとめており、1970年10月21日に、朝日新聞の広岡知男社長は新聞協会主催研究会で「中国の意向に沿わない記事は書かない」と明言しており、中国共産党中央委員会の機関紙「人民日報」と提携している新聞社なのだ。「従軍慰安婦」捏造記事を書き、その後の「河野談話」のきっかけとなったのも朝日新聞だったことを忘れてはならない。
近衛内閣のブレーン集団「昭和研究会」に入り込んだ尾崎秀実が朝日新聞などで国民党との徹底交戦をミスリードし、日中戦争を泥沼化させ、それをアメリカ共産党に逐一諜報活動を行っていたとされる「ゾルゲ事件」(1941年から1942年)
(注)南進政策: 日中戦争開始後に本格化した日本の南方地域への信仰政策。1935年海軍によって唱えられた。陸軍の華北進出に対抗し、かつ「日満支経済ブロック」の建設によっても不足する軍需資源を南進にいよって確保することを意図。従来の北進政策に加えて、「南進」が国策に登場するのは1936年8月広田弘毅内閣の五相会議で「国策基準」が決定されてからで、以後内閣はそれを推し進めた。1932年2月の海南島占領、続く3月の南部仏印(フランス領インドシナ)の新南群島の占領、6月のスワトウ、福州などの占領による華南沿岸の封鎖強化がその具体化の第一歩であった。
引用:https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96-590547
参考:https://blogs.yahoo.co.jp/ymhkobayasis/folder/1139183.html?m=lc&p=2
コメント
朝日新聞は購読していないので最近の記事はよく知りませんが、朝日新聞の記者でがっかりさせた人物は、本多勝一です。
子供のころ読んだ本多勝一の『ニューギニア高地人』や『カナダエスキモー』はとても内容が面白くて惹き付けられいまだに心に残っています。
ところが、私が大人になって知ったのは、この本多勝一が南京大虐殺30万人説を裏付けなしで流布させた張本人だったのです。
名古屋市長の河村たかしは品のない名古屋弁があまり好きになれないのですが、2012年に南京事件はなかったと発言して、私の中では少し株が上がりました。
本多勝一がでっち上げの新聞記者くずれだとすると、面白く読んだ先の本の内容についてもでっち上げの疑いが出てきます。こちらとしては楽しい記憶であったのが、全くの作り話であったかもしれないと思うと、本多勝一には怒りが湧いてきます。前川喜平前次官に続いて、この本多勝一にはがっかりしました。
朝日新聞の記者にはろくなのがいないです。
2018/10/22(月) 午前 1:18 泉城 返信する
> 石田泉城さん
おはようございます。コメントをありがとうございます。「南京大虐殺30万人説」も朝日新聞だったということですね。「慰安婦強制連行記事」といい、とんでもないですね。
本多勝一という方はろくでもない人物のようですね。私も昔彼が書いた「日本語の作文技術」というタイトルの本を読んだ記憶があります。そんな人物だったということは全く知りませんでしたた。
wikiによれば、泉城さんが子供の頃面白く惹き付けられた「カナダエスキモー」「ニューギニア高地人」「アラビア遊牧民」などの人類学系探検ルポ三部作は短期間現地で実際に生活して取材したとあり、このルポタージュで高く評価されて「スター記者」になったようです。ですが、仰るように中国で取材した旧日本軍についての連載記事の1章が「南京事件記事」だったようで、「現地取材」には中国共産党の許可なくしてはあり得ないし、このあたりから中国共産党の御用記者化したのかもしれませんね。
2018/10/22(月) 午前 7:09 kamakuraboy
ゾルゲ事件は、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけてその構成員35名が逮捕され、ゾルゲと尾崎秀実が死刑判決を受けた日本史上最大のスパイ事件。
ソ連国籍のドイツ人Rゾルゲはソ連コミンテルン本部の指令で1933年9月に来日。上海で旧知の大阪朝日新聞社記者の尾崎秀実(ほつみ)らと接することで、軍や政府上層部から二・二六事件、日独伊三国同盟、関東軍特別大演習など対ソ情報を入手諜報していた。
このスパイ組織の一人である尾崎秀実は近衛文麿内閣のブレーン集団「昭和研究会」に入り込み、ゾルゲの日本語教師という名目で彼の家に出入りし「日本軍が満州からソ連に進行する「北進」の作戦ではなく「南進」の作戦(注)を取ることを選んだという重要な軍事情報等々を漏らし、近衛内閣がそう決断するよう情報工作をかけていたのだ。
尾崎秀実は朝日新聞記者で、具体的には、朝日新聞記者時代から内閣嘱託、満鉄嘱託を務め、後に対満州・対中国政策に影響を与えてジャーナリズムの上での日本の対中認識について世論誘導(ミスリード)面で大きな役割を果たした。
当時、尾崎は朝日新聞や雑誌で徹底的に、支那事変において「中国国民党軍(現在の台湾)と戦うべし」と主張し、日本の軍事戦略を泥沼化させ、国民党と対立していた中国共産党(現在の中国)の生き残り戦略を手助けしようとしたのだ。
というのも、国民党軍と日本軍が講和すれば、兵力的に劣勢だった中国共産党は壊滅していたと思われる。国民党軍との不毛な戦いに日本軍の力は消耗させられることとなってしまったのだ。
後の取り調べで尾崎は、自分の持論は日本並びに世界の「共産主義化」であると供述し、「国際共産主義」によるスパイ団の一員となっていたことを明らかにしている。
1941年9月から1942年4月にかけて尾崎(朝日新聞元記者、当時満鉄嘱託)ら35人が検挙され、1944年3月15日に東京地裁は非公開でゾルゲ、尾崎に死刑を判決、同年11月7日に二人は処刑された。
ゾルゲ諜報団の主要メンバーの一人で、在米日本人として昭和6年(1931年)にアメリカ共産党に入党していた宮城与徳という画家は、その頃からアメリカの警察に目をつけられ、日本に帰国後は英語が堪能であったことと画家としての立場を上手く活用してゾルゲらと連絡をとりながら共産主義工作活動を続けた。ゾルゲと宮城のパイプ役を務めたのが野坂参三であった。
この野坂参三こそ、社会主義国家ソ連(コミンテルン)の指示のもと世界中で暗躍し、戦後の1945年10月現在の「日本共産党」をつくった人物で、平成5年に亡くなる前年の平成4年にその「闇の深さ」から、日本共産党が除名している。
太平洋戦争突入の背景には共産党ソ連のスパイ工作活動があったということ。
日本が中国国民党との戦争を早期に終わらせ、アメリカに宣戦布告するのではなく、ドイツと共にソ連と戦って挟み撃ちしていたならば、もしかしたら世界史が変わっていたのかもしれない。
要するに「日本共産党」と「朝日」は亡国の、ソ連(ロシア)&中国共産党の「草の者たち」なのだ。日本共産党は現在でも公安の監視対象でわかり易いが、我々日本人は「朝日」のミスリードに惑わされぬよう、彼らの主張を信じてはならない。
朝日新聞のOBは、中国共産党の工作機関ともいえる「孔子学院」の講師をつとめており、1970年10月21日に、朝日新聞の広岡知男社長は新聞協会主催研究会で「中国の意向に沿わない記事は書かない」と明言しており、中国共産党中央委員会の機関紙「人民日報」と提携している新聞社なのだ。「従軍慰安婦」捏造記事を書き、その後の「河野談話」のきっかけとなったのも朝日新聞だったことを忘れてはならない。
近衛内閣のブレーン集団「昭和研究会」に入り込んだ尾崎秀実が朝日新聞などで国民党との徹底交戦をミスリードし、日中戦争を泥沼化させ、それをアメリカ共産党に逐一諜報活動を行っていたとされる「ゾルゲ事件」(1941年から1942年)
(注)南進政策: 日中戦争開始後に本格化した日本の南方地域への信仰政策。1935年海軍によって唱えられた。陸軍の華北進出に対抗し、かつ「日満支経済ブロック」の建設によっても不足する軍需資源を南進にいよって確保することを意図。従来の北進政策に加えて、「南進」が国策に登場するのは1936年8月広田弘毅内閣の五相会議で「国策基準」が決定されてからで、以後内閣はそれを推し進めた。1932年2月の海南島占領、続く3月の南部仏印(フランス領インドシナ)の新南群島の占領、6月のスワトウ、福州などの占領による華南沿岸の封鎖強化がその具体化の第一歩であった。
引用:https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96-590547
参考:https://blogs.yahoo.co.jp/ymhkobayasis/folder/1139183.html?m=lc&p=2
コメント
朝日新聞は購読していないので最近の記事はよく知りませんが、朝日新聞の記者でがっかりさせた人物は、本多勝一です。
子供のころ読んだ本多勝一の『ニューギニア高地人』や『カナダエスキモー』はとても内容が面白くて惹き付けられいまだに心に残っています。
ところが、私が大人になって知ったのは、この本多勝一が南京大虐殺30万人説を裏付けなしで流布させた張本人だったのです。
名古屋市長の河村たかしは品のない名古屋弁があまり好きになれないのですが、2012年に南京事件はなかったと発言して、私の中では少し株が上がりました。
本多勝一がでっち上げの新聞記者くずれだとすると、面白く読んだ先の本の内容についてもでっち上げの疑いが出てきます。こちらとしては楽しい記憶であったのが、全くの作り話であったかもしれないと思うと、本多勝一には怒りが湧いてきます。前川喜平前次官に続いて、この本多勝一にはがっかりしました。
朝日新聞の記者にはろくなのがいないです。
2018/10/22(月) 午前 1:18 泉城 返信する
> 石田泉城さん
おはようございます。コメントをありがとうございます。「南京大虐殺30万人説」も朝日新聞だったということですね。「慰安婦強制連行記事」といい、とんでもないですね。
本多勝一という方はろくでもない人物のようですね。私も昔彼が書いた「日本語の作文技術」というタイトルの本を読んだ記憶があります。そんな人物だったということは全く知りませんでしたた。
wikiによれば、泉城さんが子供の頃面白く惹き付けられた「カナダエスキモー」「ニューギニア高地人」「アラビア遊牧民」などの人類学系探検ルポ三部作は短期間現地で実際に生活して取材したとあり、このルポタージュで高く評価されて「スター記者」になったようです。ですが、仰るように中国で取材した旧日本軍についての連載記事の1章が「南京事件記事」だったようで、「現地取材」には中国共産党の許可なくしてはあり得ないし、このあたりから中国共産党の御用記者化したのかもしれませんね。
2018/10/22(月) 午前 7:09 kamakuraboy