25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

思想の肝腎な基本線

2018年03月24日 | 文学 思想
母は三度ほど夢か幻のようであったことを現実にあったことだと真剣にうったえたことがある。物忘れもひどくなっていた。自分の家の中だけで起こったことなら、そのままにしておいたのだが、隣家の住人に物を盗めまれたという妄想が一度あった段となって脳神経の病院に連れていった。医師は認知症検査をし、結局母は軽度な認知症であると診断された。
 妄想は起こらなくなり、交通事故に遭ってからは特に妄想が出なくなった。
 話すこともしっかりしているし、昔のことはおぼえている。日常生活でもとりたてて、問題はない。こちらから差し入れすることも多くなったが、トイレも自分でするし、料理は作るし、趣味のような癖のような洗濯もする。
 物忘れと言ってもぼくもしょっちゅうあるわけで、そのうち僕は母は認知症ではないのではないかと疑い始めた。母にそれを言うと、笑って、「認知症らあじゃないわい」と否定する。

 現在92歳でこの八月で93歳になる。交通事故でひどい目に遭い、それからは精神は元気であるが、股関節の骨折をして入院し、元気になったと思ったら、今度は手首を骨折して現在入院中である。入院中でも下肢を鍛えておかないとと自覚的に立ち座りのエクササイズを行っている。

 母を診断した医師は穏やかな方で、毎月1回、様子を2分ほど見てくれる。その度に母を病院まで連れていく。血圧や腎臓の薬などを処方してもらわないといけないからこれはしかたがない。

 今は、自分の判断ながら母の妄想は「拘束性ストレス」だったのではないか、と思っている、とぼくは昨日居酒屋の席で友人の岡田さんに話した。
 「認証って疑ったら、チェックの項目にあてはめて、それを見て、はい認知症です なんていうにはその医者に自分を疑うというか内省してみることがないんじゃないか。なんでも自分が正しいと思うことでもい疑わなあかんで」とかいつまんで言えば、そういうことを言った。合点した。こういう言葉を出してくる岡田さんをすごいと思ったのだった。

 このことは実は人間の大きな、深い問題であるのだ。
「その先生は優しく、穏やかで、的確な診察をしているように見えるが・・・」
「穏やかでも、優しくても自分を疑うことを知らのじゃない」
 と彼は言う。
 ブッシュの戦争が正義の戦争だと言ったことに違和感をもったことがある。ブッシュ元大統領は自分を疑わなかったのだろう。ブッシュ元大統領といえ、その医師と変らない一個人である。
 穏やかな物言いいであれ、威勢よくこれが正しいんだ、と言ったとしても、自分の判断を疑ってみることは相対化して事象を見る必要があるということだ。一面的な視点は危うい、後ろからも上からも見る視点がないと、ぼくらはまた「正義」や「医者の権威」にひれ伏してしまうことになる。
 たぶん岡田さんも例えば剣道というものについて様々な視点から考えてきたのだろう。そして自分の意識を母と医師の話題にまで敷衍できるのだろう。つまりこれは自分が専門とする分野で鍛錬された自己意識から通底する別の「母と医師のような問題」に自己意識を社会化できているのだろう。
 思想の肝腎な基本線のひとつに思える。
 


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