25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

いい時代だったなあ、と思うこと

2018年03月23日 | 社会・経済・政治
 いい時代だったなあ、と懐古的に思うことが幾つかある。ぼくらはハナゴと呼んでいたのだが、鼻汁が出て、それを服の腕のところで拭くのでピカピカに袖が光っていた。この頃は花粉症もなく、鼻汁は不快でもなく、外で遊び暮れていたのだった。交感神経が働いて細菌をやっつける顆粒球が活性化していたのだろう。親も神経質ではなかった。これは危ない、勉強しろ、とも言わなかった。監視する人もなく、大人は寛容に子供をみていた。ゲーム器はなかったので、中村山や路地でゲームのような遊びをやっていた。やがて野球が流行してきて、誰に教わることなく、勝手にチームを作り、他校のチームとの試合交渉をして、試合をした。それも遊びだった。人生の黄金期であった。

 潔癖症的な時代ではなかったのだ。こんな人がいるのを十年程前に聞いたことがある。彼は一度自宅の風呂に入ってしまうと、風呂の掃除をしたくなり、延々と皮膚がふやけるほど風呂場にいるのだそうだ。それがイヤで、風呂に入れない、入らないわけにいかないから入るとカビや何かが気にかかる。トイレは汚してしまうことが気にかかり、コンビニに行くという。靴は玄関の外に脱ぐ。潔癖症がここまでくると病気のように思える。しかし、程度も差こそあれ、日本列島人はテレビのコマーシャルなどで脅迫され、バイ箘を恐れ、子供の清潔にも神経質となる。その代償としてアトピーや花粉症になり、自己免疫が暇すぎるためだと思う。花粉症で悩まされるのに、森林環境税の導入に強い反対はなく、なんだか物事はグチャグチャである。

 テレビに支配されることもなく、呑気でいられた時代だった。細かく思い起こせば良いと思っていることはまだいくつもある。アジ釣りはサビキでなく、餌釣りをしていた。数多く釣れることもあったが、一匹とか二匹という日もあった。前の岸壁から釣っていた。思えばこれも口が破れやすいアジを絶妙に釣るのだが、集中する時間にものんびりさがあった。忙しい釣りではなかった。絶対的に釣りが上手い同級生がいた。彼はどういうわけかよく釣った。こういう才能があるのだと思い知ったのだった。今、前の浜で餌をつけて竹竿一本伸ばしても、アジは釣れない。回遊してくる時期に、撒き餌をしてサビキで釣るというのがやっとだ。
 酒カスでアイノバリ(アイゴ)を釣った。今は水温も高くなり、黒潮の蛇行があり、釣れる魚も変わり、魚も減っているのだと思う。アジ釣りも懐かしく思い出される。
  
 
 


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