25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

戦争を放棄した国の大衆

2019年06月09日 | 
 このごろ、ネトウヨ、パヨク、ネトウヨ系のマニュアル本、それらに対する批判本、感情論を抜いた歴史本を読んでいる。もうなんども読んできたような本だ。官制の慰安所はなく、政府・軍は慰安婦を募集したこともない、と主張するが、そんなことが問題なのではない。半官半民にせよ、民間の金稼ぎのためであれ、戦争を起こすから慰安所ができるのである。そこへ長い列をつくって兵隊たちが並ぶのである。 

 南京では兵隊ではなく、老若男女、幼いこどもまで殺されたのである。人数が違っているという問題ではない。このような事実が取材によってあきらかになっている。この事実を認めることが必要である。認めると「反日」というのだから、あきれるばかりだ。

 日本人は植民地でいいことをした。台湾では下水道を作り、お茶の作り方を教えた、という美談すらある。紳士的な軍人もいたことだろう。都市つくりを考えた軍人もいたことだろう。しかしながら、お国のためにと家族から万歳されて見送られた者の中で、一体どれだけの者が喜び、勇んで戦地に赴いたことだろう。家族のため、お国のため、天皇陛下のためとどれだけの人が遠い戦地で言えただろう。

 ほんの10年ほど前、十数人の男グループがバリ島にツアーでやってきた。添乗員に頼まれて宮殿でのパーティーを手配したことがある。その宮殿の元王様の娘とぼくは友達で、よくここに遊びに来ていた。それで頼んだのだ。ぼくは客とは一切同行しなかったが、年頃は40代、50代くらいか。添乗員に聞けばなんのことはない買春ツアーである。普通、その辺に生きている人たちである。故郷の家にいけば奥さんやこどもたちも待っていることだろう。夫(親父)は真面目な男だと思っているのかもしれない。男たちの中には買春したくない人もいるかもしれない。みな涼しい顔をして、嬉々としている。群衆心理、グループ心理、他所にいるという心理が働くのだろう。
 たぶん家に帰れば普通のおっちゃんだと思う。

 これが軍隊であればどうか。その模様も詳細に記録されている。それは一人の女性が何十人もの男を相手にする凄まじさも書いてある。小説ではない。残された日記や記録である。みな軍人は清廉潔白ではないし、徴収された兵隊員は素行や性格、学力、知性で選ばれているわけではない。チンピラみたいなのもいれば、どんな奴もいるのである。それに生きて帰れるかわからないのである。
 現代の者でも買春なのに、兵隊が性欲を抑えられるはずもない。

 日本は兵站も思うにならず、運ぶ船は鈍くて沈没し、この戦争で勝てると思った兵士は何人いたことだろう。感染症が蔓延する。マラリヤになる。軍部ファシズム体制によってがんじがらめにされ、逃げることもできず、異を唱えることもできない。戦争が起こる前の意気込みと1944年の意気込みはどれほどの差があったことだろう。
 無惨なものだった。こんな戦争するべきでなかったし、データを使えばできるはずもなかった。また圧倒的多数の兵士や民間人が殺されなくてすむチャンスがいくらでもあった。なのに決断できなかった。
 
 ぼくは戦後70数年経って、自衛隊員の精神がとても頑丈になっているとは思えない。自衛隊員にも家族がいる。戦争をしない。これだけには参加しない。世界は戦争が日常化している、などと言い、中国や北朝鮮がいつ攻めてくるかも知れないなどと煽る輩もいるが、そういう人は人間を知らなさすぎる。いや大衆というものを知らなさすぎるのかもしれない。
 大衆はどんな時代においても難しいことは考えず、食っていけることを第一として淡々と日を暮らしていくのだ。インテリのようにえらそうなことは言わないのだ。これも大衆の多面性のひとつで、しっかりと根を張った生き延び方である。

 


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