25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

2005年の光高校爆弾投げ込み事件

2019年06月10日 | 文学 思想
 2005年に以下の文をブログで書いた。今日校正しているところで出くわしたのだ。ぼくはすっかり忘れている。あれから14年。事態は年齢層を広げている。8050問題である。
 うすら寒い発表を金融庁が先立ってした。厚生労働省が言いたいことを金融庁が先取りして言ってくれたということだろうか。人生100年安心と年金制度を作ったのではなかったか。年金は800兆円すでに足りないというではないか。老後を生きるのに2000万円貯めろ、と言う。グリーンピアだなんだと不要なものを多く作っておいて、失敗し、今は株を購入している年金機構。この責任はだれがとってくれるのか。自民党だろう。
 こうなることはわかっていた。ぼくがわかるくらいだから専門家はもっとわかっていた。
 この財政ではやれることはなくなってくる。ITは三周遅れ。実質賃金は減り続ける。それで経済政策はうまく言っているとのたまう。ばかな。


光高校爆弾投げ込み事件・2005年06月13日(月)

「いじめられていた」という高校三年生の男子生徒が釘を入れ込んだ手製爆弾を恨み返しに教室に投げ込んだ。いじめられる側が自殺をするというケースは報じられたことがあるがこのような報復手段に出るのは初めてのニュースではないかと思う。やっと「いじめ」もこういう時期がきたのか、と思い、これからいじめる側も命がけだな、と思った。
 インタビューに答えるのは相変わらず校長先生で、担任は逃げている。校長にわかるはずがない。校長の顔には「ひどいことをしてくれたもんだ、ちくしょうめが 」と書いてある。事件の核心に迫る力がないのだ。
 いじめられたら、命かけてやり返す、という迫力があれば、いじめからは脱出できるのである。それがなかなかできないので自殺してしまう。また不登校にもなる。
 いじめの現場を知っていて何知らぬ顔をしていた人も今度の事件でドキッとしたに違いない。関係のない生徒をも巻き込んだにちがいないが、やった生徒は反省などしていないと思う。むしろ「よくやったよオレ」と清々しているのではないか。
 結局親も助けてくれなかったのである。担任や校長はテレビでみればわかる。だれも助けてくれなかったのだ。自分がやるしかないではないか。
 ニュースリポーターがこれまた馬鹿な誘導質問を同級生などにする。すると馬鹿な同級生は「キレやすかった」だの「普段無口で、怒ると訳がわからなくなる」だの悪口のように言う。犯罪とわかるととたんに口が軽くなる。
 だれだって怒ると訳がわからなくなるのだ。キレやすいのはゴマンといるのだ。自分だってそうじゃないか、言いたくなる。
 リポーターなどは「悪人」だな、といつも思う。被害者側にも、少年側にも立つコメントがあってもいい。やったら、やりかえされることもあるんだということを。よくよく注意していじめの側に入ることにならないように。人はいじめる側に立たなければよいのである。
         



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