25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

中国と日本

2019年11月18日 | 社会・経済・政治
1970年代に入っても日本社会、および国民は日本軍兵士がどんなことをしてきたか、というようなことはあまり知らされることはなかった。ぼくはすでに大学生であった。日中国交正常化も成し遂げられていた。徴用された父も多くを語らなかったし、戦争に関する資料が集められ、それが公開されるのを見るということもぼくの場合、なかった。
 だから15年戦争で日本軍は1000万人以上かも知れない中国人を殺したことも知らなかった。中国に対する賠償は、1000万人、家や設備と補償の対象になっていけば日本はいつまでたっても払えず、どうにかなるものでもなかった。侵略に行き、殺したのだから、日本国民の総力を上げてお金を作っても無理であった。ぼくはこのようなことも学生の頃知らなかった。
 日中国交正常化の時、中華人民共和国の毛沢東と周恩来は国民の怒りを抑え込んで、戦後賠償を放棄する決断をした。理由はいろいろある。ひとつには当時のソ連との仲が悪くなり、アメリカや日本に近づいてソ連を牽制する。あるいはまた歴史を知る人であれば、第一次世界大戦でのドイツに対して戦後補償があまりにも多く、それがナチスを生んでしまったこと。あるいは、日中の幅広い経済交流や金融支援、技術供与などで、互いに実をとった方がその実の規模が大きくなるだろうと中国首脳は考えたのではないか、と今であればなんとか言える。
 1000万人も殺された者の家族や友人などからしてみれば半端な憤りではないだろう。その戦争責任者は東京裁判で裁かれ、その英霊は多くの兵士とともに靖国神社に奉じられている。日本の首相が靖国神社に公式参拝をすると必ず関係がぎくしゃくとするのは上記のような背景があるからだ。

 テレビも日本列島人は1000万人を殺すほどの狂気の民族だとは言い難い。このような汚れた歴史は汚れていないものとしてありたい。あるいは「なかったことにする」という手法で日本民族を汚さない。あくまで国民は戦争の被害者だ、というような雰囲気がずっとあった。

 歎異抄の中で弟子の唯円に親鸞が「人を百人殺して来い」という場面がある。数字は正確ではない。1000人だったかもしれない、10人だったかもしれない。唯円は「一人でさえ殺せません」という。親鸞は「ひとりとて殺すことができないだろう。しかし機縁さえあれば100人でも1000人でも人は人を殺すのだ」と言った。ぼくの記憶の中の言葉なので、正確ではないが、主旨は合っていると思う。
 普段の日常なら人を殺すなどと考えられない。恐ろしい。気持ちも悪い。ところが、エノラ・ゲイに乗ったパイロットは原爆を落として何十万人も一挙に殺すのである。あるいは奉天事件のように張作霖爆殺をするのである。南京に入れば、数字の正確なデータはないが、日本軍兵士の証言によれば虐殺を行ったのである。中国政府は30万人と言い、日本の「なかったことにする」人々は「南京虐殺などなかった」と言う。
 あるとき脳の共同幻想の観念領域が個人が死ぬという悲しみを感じさせないほど日本が負けない、日本のために、天皇陛下のためにという幻想に支配されるのだ。みんなで自決なんてこともやってしまうのだ。
 何かの拍子が共同幻想が悪魔となってロックされる。それが戦争である。
 今、当時、日中国交正常化のときの周恩来たちのふところの深さと寛容さを思わざるを得ない。そして戦争時に日本軍兵士が何をしたか。どのように生き延び、どのように死に、幹部はどのようであったか、という真実を後々の世の者たちに伝えなければならない。「なかったことにする」はいけないし、「汚れはない」もいけない。なぜそうなってしまったのか、戦後日本列島人は真摯に向かうことなく、やり過ごしてしまったように思える。