25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

「文學界」を丹念に読む

2019年11月13日 | 文学 思想
物事というものはその渦中にいるとよくわからないものである。ぼくは1995年あたりからの金融危機が自分の身にも及ぶことはわからなかった。今も何かがどこかに向かって動いているのか、何かが地中の方に掘り下がっていっているのか、明日金融および経済で何が起こるのか、わからない。のちになってわかる。
 戦前も同じようなことだったのだろう。当たり前のように鬼畜米英を言い、だんだんと食べるものがなくなってきて、空襲を受けるようになるまで事態はわからなかった。
 そして政府は倒れず、スーパーインフレを起こし、国民の貯金が紙くず同然となったが政府の借金もそのおかげ紙くず同然となり、政府は生き延びた。
 今、またMMTのような貨幣理論が出てきたが、それは自国通貨を発行する政府は潰れないという理論であり、国民は安全だ、という理論ではない。

 日銀によって金融機関がどんどん追い詰められている。IT技術やITノウハウを丸投げして委託している日本の銀行はこれらの技術をよく知っているキャッシュレスの会社に取って替わられるのかもしれない。通帳の維持費を取るようになれば、もうアカンである。普通貯金の利息が0.001%護送船団方式で中学生でもできる貸し借りの業務(貸すに関しては保証人、担保をみるだけである。余ったお金は国債を買い、利息で儲けていただけのことである)にどっぷり浸かって抜け出せない。

 「通帳維持費を導入するかもしれない」というニュースは何かの予兆なのかもしれない。何かが起ころうとしているのかもしれない。

 ところで、若い1977年とか1986年くらいに生まれた作家たちの三人による鼎談を「文學界」で読んでみた。このくらいの年齢の作家たちはどんな話をするんだろう、と興味があった。が全く面白くなく、好奇心も湧かせず、議論もせず、他愛のないことばかりを三人で言っているだけであった。この若い作家たちはアホなのか。何か言い出せないなにかがあるのか。喧嘩が嫌なのか。

 もうひとつ「伊藤比呂美と町田康」の対談は面白かった。「詩は自分を書く」という詩人伊藤に「それはちがうんじゃないか」と小説家町田は反論していく。するとまた反論するけれど、またそれに対して言う、と流れがあった。町田康の主張の方にぼくは納得いくのだった。伊藤比呂美はボロクソに言われたのだが、怒ることもせず、自分の信念を貫き通し、考えるところは考えるという姿勢だった。これには感心した。
 今回は「文學界」を丹念に読んでいる。そんなことの中で時代が変わっていく、変わっていこうとしていることを感じ取りたかった。どんな風に。よい方へ。後戻りするように? 悪い方に? 文学はどうなっていく? 思想は? と思いながら読んでいる。