最初に言っておく。今日の記事、 か~な~り、 長いぞ!
今朝。いよいよ娘の卒園式。妻と娘と3人で、幼稚園に最後の登園。長男は友人宅に遊びに行き、次男は家でお留守番。登園は朝9時だけど、開式は10時。ビデオカメラ構えて会場の最後部で待機です。幼稚園は次男の送迎についてきた期間も含めると、5年通った場所なんだなあ。待ってる間、幼稚園でのこれまでの生活をスライドで見せてもらったりして、しばし思い出にふける。
いよいよ開式。園長先生から証書を頂き、お祝いの言葉を頂いた後、子供たちの出番。
子供の歌のなかで、「6年前に生まれた…」という歌詞を聴いたとたん、どうした事か、突然涙が溢れてきた。
その瞬間、私の頭の中は、一瞬で6年前にタイムスリップしました。
4月生まれの娘。生まれた頃は正直、体が弱く、最初の誕生日を迎えるまでに3度も入院した。普段でもミルクを飲んではよく吐いていた。
(元気過ぎてうっとうしい位の今では想像もできない。正直その頃の事なんて、自分の中で忘れてた様に思う。)
特に年末に入院した時、(当時私は実家から車で1時間半掛かる江津市で勤め、そこで住んでいたが)年内に退院できず、大晦日の夜、妻は娘の付き添いで病院に。長男・次男は実家に預け、元旦から仕事の私は、一人で江津に戻った。
カウントダウンのイベントをしていて、とても賑やかだった仁摩町(現大田市)のサンドミュージアム(←日本一の砂時計があります)の前を通り過ぎ、一人でアパートに。
テレビの行く年来る年を見ながら、「何で娘が生まれて初めてのお正月を、家族バラバラで迎えなくちゃならないんだろう…」と思い、一人でわんわんと声をあげて泣いた。元日なんて、365日の中の1日に過ぎないのかもしれないけど、もうこんな正月、二度と迎えたくない。そう心から思ったことが、まるで昨日の事のように思い出された。
今だから言えるが、「この子は1歳の誕生日を無事に迎えられるのか?」 そんな事を本気で思ったこともあった。
そして今日。娘は卒園の日。娘の幼稚園の事なんて、先生や妻任せで自分はほとんど関わってなかったと思うので、まさか卒園の日に自分が泣くなんて、爪の先程も思っていなかった。自分で自分に驚いたというのが正直なところ。
むしろ、娘が幼稚園で一番仲の良かった友達が、今日で松江に引っ越してしまうので、娘がひどく泣き出すのではないかなと心配していたが、「練習のし過ぎ」のためか、終始ケロっとしていた。そんなものなのかな。
卒園式も無事終わり、先生や在園生の見送りを受け、お昼前、娘は笑顔で幼稚園を後にした。
後で聞いたが、保護者席に座っていた妻も、私と同じ所で涙が出てきたそうだ。 やはり思うことは一緒だった。
昼。食事の後、前述の友達を含め、娘の友達の「母娘」が5組(!)お別れ会?として我が家にやって来る事に。
そして長男。午前中遊びに行っていた友達2人と一緒に、「自転車で」出雲市街のデパート・ゆめタウンイズミに行きたいと言い出す。彼の通学用の自転車はまだ買ってない。友達の新品の自転車と違い、彼が今乗ってるのは子供用の、かなりガタのきてるやつだ。近所ならともかく、片道10km近くある距離を行くのは無謀だ。
長男は『大人もついていくから』行かせて!と言う。え?友達の親御さんも自転車で行くの?信じられないなあ。
それでも我々両親も祖父母も、行ったこともない所に行くのは危ないし、お前の自転車じゃ無理だと反対した。
しかし長男。「それでも行く!何か買うかもしれないからお金持ってく!お茶も持ってく!」と言い放ち、貯金箱から小遣いを持ち出し、水筒に自分でお茶を入れ、脇目も振らず飛んでいった。
とりあえず私は、「今日は外食するから夕方5時には必ず帰って来いよ!もし途中で苦しくなったらすぐに電話しろ。迎えに行くから。」と言うのが精一杯だった。
そうこうしてるうち、娘の友達母娘の御一行様が。2階の居間は一大「女子会」の会場に。私や次男は下の部屋に。
きっと娘も友達と思い切り遊び、妻も楽しんでいた事だろう。私は長男からいつ電話があるかな?と待っていた。
女子会も解散した夕方5時前、長男がびっしょりと汗をかいて帰ってきた。
そこで判明した事。『大人がついていく』というのはウソだった事。実は子供3人だけで市街まで行っていた。
車の通る道路ではなく、私の知らない、自転車がやっと通れるような橋を渡りイズミに行ったとの事。そしてその後まっすぐに帰らず、市内の模型店に立ち寄り、そして行ったときとはずっと南側の橋を大回りして帰り、5時に間に合うように必死になって帰ったとの事。
驚いた!
まず、ウソをついたことを責める。長男は「子供だけで行くといったら許してもらえないと思った」と言った。何があってもウソはだめだ。その1点は厳しく言ったつもり。彼も反省している様子。
しかし、彼は、とても目を輝かせていた。前述のように彼は家族の皆が反対するのを無視して飛んでいった。もう彼にとっては小さくなった自転車を必死になってこぎ、友達とまさしく『冒険の旅』に出て行った。
イズミではゲーセンに立ち寄り、見知らぬ人から雪見大福のアイスを貰ったそうだ。(←危ないぞ)
友達がおなかが減って「すき屋」で牛丼を食べて、それを少し分けてもらったそうだ。
その後、店内のホビーショップでプラモデル用のニッパーを自分で選んで購入。模型店もガンプラが見たくて?友達を誘って立ち寄ったとの事。
通った事もないような道を通り、遠回りして帰宅。「お茶があって助かった」「有刺鉄線で囲まれた建物の前を通るとき、何だか怖かった」「道に迷いそうで不安だった」とか言ってたが、やっぱり「とても面白かった」そうだ。
「また行きたい!」と はっきりと、大きな声で言った。
やられた! …もうそれ以上、私は言葉が出てこなかった。
3日前、このブログで私は長男に向けて、『間もなく鳴り響く「出発進行」の合図に向けて、今はしっかり充電しておこうぜ。』と書いた。
しかし何の事はない。既に彼は大きな”のぞみ”を胸に、”ひかり”の速さで、とっくに走り出していたんじゃないか!
出発進行の合図が聴こえていなかったのは、実は私の方。”こだま”するのは「ちょっと待ってくれ~」と情けなく叫ぶ、私の声だけだったのだ。恥ずかしながら、その事に今の今まで全く気付かなかった。
プラモデル用のニッパー。確かに以前私が買って使ってたのが壊れ、子供がガンプラ作るのに苦労してました。そのうち新しいのを買ってやろうかなとは思っていたけど、ずっと買いそびれていた。
「おとうちゃん、新しいのを買ってよー」とねだるのではなく、私に相談もせず、自分の意思で小遣いを出し、自分で商品を選んで、自分でお金を払って買ってきた。彼がこんなことするなんて思わなかった。たった630円の買い物だけど、彼の成長を感じずにはおれなかった。
いつもぼーっとしてる様で、いまいちはっきりしない性格で、頼りないなあとも思ってた。まだまだ親の手の中に居るものだと思ってた。しかしそうじゃないんだ。彼はこのニッパーで、親のつないだ鎖を、自らの手でスッパリと断ち切ってくれたのだ。私はそう強く感じた。
自分の力で歩けるようにするのが親の役目。そう思いながら、彼が生まれたときから、私は自分なりに我が子を一個の人格として付き合ってきたつもり。よって、子供の成長は大いに喜ぶべき事。当たり前の事だ。
しかし、どうしたことか。自分でもどうしてなのか分からないのだが、今、無性に寂しさを感じてしまっている自分がここにいる。一人で風呂に入ってたら、何故かしらとめどなく涙が溢れてきた。
このブログ、書き始めてもう3時間以上パソコンの前に座ってるのだが、なかなか文章がまとまらない。気付いたら日付も変わってた。キーボードを打ってても、時折涙が出てくる。自分でも自分が分からなくなってる。
妻が言ってた。 『子離れができてないのね』 自分自身に苦笑しました。
私の小学5・6年生の時の担任だった恩師が、当時私達にいつも言ってた言葉。 「自主自立」。
30年経ったいまだに実践できていないのが私で、子供が先に追い越していった感じ。 やれやれ…。
今日のブログのタイトル、ずっと前から決めてました。 『 「春」 ニ 「分」 カレル 』 の日 …という意味で。
友達と別れる娘の事を書こうと思っていましたが、期せずして私自身の事を書く事になってしまいました。
恐らく今日の日の事(…ではなくてもう昨日の事か)は、きっと生涯忘れないのじゃないかな。そう思う私です。
追伸・私はこの3年近く、服用していた薬との相性の関係で、一切アルコールを口にしていませんでした。昨年秋にその薬の服用は止めてるので、アルコールも、もうOKなのでしょうが、全く飲もうという気持ちになれずに今まで来ました。 でも、今夜だけは何だか思い切り飲みたい気分です。(もっとも、明日(じゃなくて今日)は仕事なのでそうも行きませんが)
今朝。いよいよ娘の卒園式。妻と娘と3人で、幼稚園に最後の登園。長男は友人宅に遊びに行き、次男は家でお留守番。登園は朝9時だけど、開式は10時。ビデオカメラ構えて会場の最後部で待機です。幼稚園は次男の送迎についてきた期間も含めると、5年通った場所なんだなあ。待ってる間、幼稚園でのこれまでの生活をスライドで見せてもらったりして、しばし思い出にふける。
いよいよ開式。園長先生から証書を頂き、お祝いの言葉を頂いた後、子供たちの出番。
子供の歌のなかで、「6年前に生まれた…」という歌詞を聴いたとたん、どうした事か、突然涙が溢れてきた。
その瞬間、私の頭の中は、一瞬で6年前にタイムスリップしました。
4月生まれの娘。生まれた頃は正直、体が弱く、最初の誕生日を迎えるまでに3度も入院した。普段でもミルクを飲んではよく吐いていた。
(元気過ぎてうっとうしい位の今では想像もできない。正直その頃の事なんて、自分の中で忘れてた様に思う。)
特に年末に入院した時、(当時私は実家から車で1時間半掛かる江津市で勤め、そこで住んでいたが)年内に退院できず、大晦日の夜、妻は娘の付き添いで病院に。長男・次男は実家に預け、元旦から仕事の私は、一人で江津に戻った。
カウントダウンのイベントをしていて、とても賑やかだった仁摩町(現大田市)のサンドミュージアム(←日本一の砂時計があります)の前を通り過ぎ、一人でアパートに。
テレビの行く年来る年を見ながら、「何で娘が生まれて初めてのお正月を、家族バラバラで迎えなくちゃならないんだろう…」と思い、一人でわんわんと声をあげて泣いた。元日なんて、365日の中の1日に過ぎないのかもしれないけど、もうこんな正月、二度と迎えたくない。そう心から思ったことが、まるで昨日の事のように思い出された。
今だから言えるが、「この子は1歳の誕生日を無事に迎えられるのか?」 そんな事を本気で思ったこともあった。
そして今日。娘は卒園の日。娘の幼稚園の事なんて、先生や妻任せで自分はほとんど関わってなかったと思うので、まさか卒園の日に自分が泣くなんて、爪の先程も思っていなかった。自分で自分に驚いたというのが正直なところ。
むしろ、娘が幼稚園で一番仲の良かった友達が、今日で松江に引っ越してしまうので、娘がひどく泣き出すのではないかなと心配していたが、「練習のし過ぎ」のためか、終始ケロっとしていた。そんなものなのかな。
卒園式も無事終わり、先生や在園生の見送りを受け、お昼前、娘は笑顔で幼稚園を後にした。
後で聞いたが、保護者席に座っていた妻も、私と同じ所で涙が出てきたそうだ。 やはり思うことは一緒だった。
昼。食事の後、前述の友達を含め、娘の友達の「母娘」が5組(!)お別れ会?として我が家にやって来る事に。
そして長男。午前中遊びに行っていた友達2人と一緒に、「自転車で」出雲市街のデパート・ゆめタウンイズミに行きたいと言い出す。彼の通学用の自転車はまだ買ってない。友達の新品の自転車と違い、彼が今乗ってるのは子供用の、かなりガタのきてるやつだ。近所ならともかく、片道10km近くある距離を行くのは無謀だ。
長男は『大人もついていくから』行かせて!と言う。え?友達の親御さんも自転車で行くの?信じられないなあ。
それでも我々両親も祖父母も、行ったこともない所に行くのは危ないし、お前の自転車じゃ無理だと反対した。
しかし長男。「それでも行く!何か買うかもしれないからお金持ってく!お茶も持ってく!」と言い放ち、貯金箱から小遣いを持ち出し、水筒に自分でお茶を入れ、脇目も振らず飛んでいった。
とりあえず私は、「今日は外食するから夕方5時には必ず帰って来いよ!もし途中で苦しくなったらすぐに電話しろ。迎えに行くから。」と言うのが精一杯だった。
そうこうしてるうち、娘の友達母娘の御一行様が。2階の居間は一大「女子会」の会場に。私や次男は下の部屋に。
きっと娘も友達と思い切り遊び、妻も楽しんでいた事だろう。私は長男からいつ電話があるかな?と待っていた。
女子会も解散した夕方5時前、長男がびっしょりと汗をかいて帰ってきた。
そこで判明した事。『大人がついていく』というのはウソだった事。実は子供3人だけで市街まで行っていた。
車の通る道路ではなく、私の知らない、自転車がやっと通れるような橋を渡りイズミに行ったとの事。そしてその後まっすぐに帰らず、市内の模型店に立ち寄り、そして行ったときとはずっと南側の橋を大回りして帰り、5時に間に合うように必死になって帰ったとの事。
驚いた!
まず、ウソをついたことを責める。長男は「子供だけで行くといったら許してもらえないと思った」と言った。何があってもウソはだめだ。その1点は厳しく言ったつもり。彼も反省している様子。
しかし、彼は、とても目を輝かせていた。前述のように彼は家族の皆が反対するのを無視して飛んでいった。もう彼にとっては小さくなった自転車を必死になってこぎ、友達とまさしく『冒険の旅』に出て行った。
イズミではゲーセンに立ち寄り、見知らぬ人から雪見大福のアイスを貰ったそうだ。(←危ないぞ)
友達がおなかが減って「すき屋」で牛丼を食べて、それを少し分けてもらったそうだ。
その後、店内のホビーショップでプラモデル用のニッパーを自分で選んで購入。模型店もガンプラが見たくて?友達を誘って立ち寄ったとの事。
通った事もないような道を通り、遠回りして帰宅。「お茶があって助かった」「有刺鉄線で囲まれた建物の前を通るとき、何だか怖かった」「道に迷いそうで不安だった」とか言ってたが、やっぱり「とても面白かった」そうだ。
「また行きたい!」と はっきりと、大きな声で言った。
やられた! …もうそれ以上、私は言葉が出てこなかった。
3日前、このブログで私は長男に向けて、『間もなく鳴り響く「出発進行」の合図に向けて、今はしっかり充電しておこうぜ。』と書いた。
しかし何の事はない。既に彼は大きな”のぞみ”を胸に、”ひかり”の速さで、とっくに走り出していたんじゃないか!
出発進行の合図が聴こえていなかったのは、実は私の方。”こだま”するのは「ちょっと待ってくれ~」と情けなく叫ぶ、私の声だけだったのだ。恥ずかしながら、その事に今の今まで全く気付かなかった。
プラモデル用のニッパー。確かに以前私が買って使ってたのが壊れ、子供がガンプラ作るのに苦労してました。そのうち新しいのを買ってやろうかなとは思っていたけど、ずっと買いそびれていた。
「おとうちゃん、新しいのを買ってよー」とねだるのではなく、私に相談もせず、自分の意思で小遣いを出し、自分で商品を選んで、自分でお金を払って買ってきた。彼がこんなことするなんて思わなかった。たった630円の買い物だけど、彼の成長を感じずにはおれなかった。
いつもぼーっとしてる様で、いまいちはっきりしない性格で、頼りないなあとも思ってた。まだまだ親の手の中に居るものだと思ってた。しかしそうじゃないんだ。彼はこのニッパーで、親のつないだ鎖を、自らの手でスッパリと断ち切ってくれたのだ。私はそう強く感じた。
自分の力で歩けるようにするのが親の役目。そう思いながら、彼が生まれたときから、私は自分なりに我が子を一個の人格として付き合ってきたつもり。よって、子供の成長は大いに喜ぶべき事。当たり前の事だ。
しかし、どうしたことか。自分でもどうしてなのか分からないのだが、今、無性に寂しさを感じてしまっている自分がここにいる。一人で風呂に入ってたら、何故かしらとめどなく涙が溢れてきた。
このブログ、書き始めてもう3時間以上パソコンの前に座ってるのだが、なかなか文章がまとまらない。気付いたら日付も変わってた。キーボードを打ってても、時折涙が出てくる。自分でも自分が分からなくなってる。
妻が言ってた。 『子離れができてないのね』 自分自身に苦笑しました。
私の小学5・6年生の時の担任だった恩師が、当時私達にいつも言ってた言葉。 「自主自立」。
30年経ったいまだに実践できていないのが私で、子供が先に追い越していった感じ。 やれやれ…。
今日のブログのタイトル、ずっと前から決めてました。 『 「春」 ニ 「分」 カレル 』 の日 …という意味で。
友達と別れる娘の事を書こうと思っていましたが、期せずして私自身の事を書く事になってしまいました。
恐らく今日の日の事(…ではなくてもう昨日の事か)は、きっと生涯忘れないのじゃないかな。そう思う私です。
追伸・私はこの3年近く、服用していた薬との相性の関係で、一切アルコールを口にしていませんでした。昨年秋にその薬の服用は止めてるので、アルコールも、もうOKなのでしょうが、全く飲もうという気持ちになれずに今まで来ました。 でも、今夜だけは何だか思い切り飲みたい気分です。(もっとも、明日(じゃなくて今日)は仕事なのでそうも行きませんが)