私にとっての、『母なるもの』にいつか向き合わなければならないことは承知しておりました。
いまだ、その端緒に立てているのかも、甚だ心もとないこともあり
そのことを考えるのを、ひたすら先延ばしにしていたことを
改めて、自覚いたしました。
とうてい、ひとつの答を出せるような問題ではないことも、良く分かっており
この先何年か母親を続けたとしても、死ぬまできっと悩み続けることだけは
どうにも確信に近いものを感じております。
前置きは、さておき
道草 様からいただいたコメントを、以下に引用させていただきます。
「今、自分に向き合うこと。」2006-06-15 07:29:37
結婚して子供が生まれたのなら、母であり妻であることを最優先すべきでしょう。
そして、余力があれば他人をカウンセリングしたり、
興味のある事のプロフェッショナルになるのも、素晴らしいと思います。
今、自分に向き合うことは、「母としての自分」に向き合う。
そして、「妻としての自分」に向き合う。そうあるべきではないのでしょうか。
「その他の自分」に向き合うのは、その次でよいと思います。
引用ここまで
このご意見について、私なりに想うことなどお話しすることに
いま、何らかの必要性を感じています。
はじめに、申し上げておきたいのは、道草 様のお話くださったことは
本当に「素晴らしいお母さん」像であることに、私も十分納得しております。
そのような、素敵なお母さんになれたら、どんなにかいいのだろう・・・
と思わない訳では、ありません。
そして、道草様のお母様がきっとそんな理想を体現していらしたことと
感じて、本当に尊敬してしまいます。
ただ、ひとつの「理想としての母親像」と
いま、私自身が思い描いている「人としても生きている母親像」とは
どうも少なからぬ ギャップがあるように思えてなりません。
といっても、実はまだ「人としても生きている母親像」が
私自身にも、はっきりとイメージできているわけではないので
困っているというか、日々悩んでいるわけなんです。
こんな時には、まず自分の身近にいるたくさんの母親の方々や
本などから、窺い知ることのできる先達の方々の
その生き方、ありようを参考にしながら
とにかく「自分にとって」の「人としても生きている母親像」を
模索していこうという試みに、挑戦していくしかないと考えています。
現在進行形の悩みの中で、そのことを整理していくということなので
終着点はもとより、どこを辿っていくのかもよく見えてはいません。
結局、自分の今もっている(たぶん)脳の引き出し(ファイルみたいなもの)の中から
関係のありそうな資料やら、気になることどもをあれやこれやと
とりあえず引っ張り出してきて、目の前に並べてみて
まずは、手に取って眺めてみたり、本でしたら読み直してみたりという
作業がどうしても、必要に思われます。
ということで、どうもすぐには核心はおろか
そこに取り掛かることすら、できないかもしれませんが
このことは必ず、いつか、お話できるようになりたいと想っています。
いくつか私の思い浮かぶヒントなどを、書いておきますので
皆さまも、ぜひこの問題について、ご一緒に考えていただけますよう
よろしく、お願い申し上げます!!
(ちなみに、私の想う母親像と、皆様それぞれが想う母親像は
全部違うと思いますし、それはそれぞれで良いんだと思います。)
私が、尊敬するまたは憧れとするまたは気になる女性の方々
(思いつくままに・・・母親に限らずです)
マザー・テレサ 大村はま先生 ドロシー・ロー・ノルトさん ローナ・ウィング先生
幸田文さん 藤原ていさん 神谷美恵子さん 須賀敦子さん 岡本かの子さん
岡本敏子さん 与謝野晶子さん 樋口一葉さん いわさきちひろさん
金子みすずさん 向田邦子さん 平木典子先生 大日向雅美先生 大貫妙子さん
梨木香歩さん などなど…
他にも、たくさんの女性の方々の生きている姿が浮かんできます。
「社会と子育て」というスクーリングを受けた時には
世界の様々な国での社会状況と子育ての環境や人々の生き方考え方を学びました。
いま、日本がどんな状況にあって、何が問題となっているのか?
どんな社会に生きることを目指して、どんなことをしていけばいいのか?
私自身が生活しているささやかな、ほんの身近な暮らしの中でも
もしかしたら、そのことをきちんと考えていかなければならない時に
来ているのかもしれないと、思わずにはいられません。
…ということで、問題を提起したところまでで時間がなくなってしまいました。
今日は、これから親の会のOB会の方で
「告知」についての、お話し合いがあります。
少し遅れてしまいましたが、これから出かけてきます。
歩きながら、足元を確かめつつ、何か身体を使って
考えたり、感じたり、想いながら、悩みつつも、時に何かをお話することが
いまの私にできることなのかもしれませんね…
いまだ、その端緒に立てているのかも、甚だ心もとないこともあり
そのことを考えるのを、ひたすら先延ばしにしていたことを
改めて、自覚いたしました。
とうてい、ひとつの答を出せるような問題ではないことも、良く分かっており
この先何年か母親を続けたとしても、死ぬまできっと悩み続けることだけは
どうにも確信に近いものを感じております。
前置きは、さておき
道草 様からいただいたコメントを、以下に引用させていただきます。
「今、自分に向き合うこと。」2006-06-15 07:29:37
結婚して子供が生まれたのなら、母であり妻であることを最優先すべきでしょう。
そして、余力があれば他人をカウンセリングしたり、
興味のある事のプロフェッショナルになるのも、素晴らしいと思います。
今、自分に向き合うことは、「母としての自分」に向き合う。
そして、「妻としての自分」に向き合う。そうあるべきではないのでしょうか。
「その他の自分」に向き合うのは、その次でよいと思います。
引用ここまで
このご意見について、私なりに想うことなどお話しすることに
いま、何らかの必要性を感じています。
はじめに、申し上げておきたいのは、道草 様のお話くださったことは
本当に「素晴らしいお母さん」像であることに、私も十分納得しております。
そのような、素敵なお母さんになれたら、どんなにかいいのだろう・・・
と思わない訳では、ありません。
そして、道草様のお母様がきっとそんな理想を体現していらしたことと
感じて、本当に尊敬してしまいます。
ただ、ひとつの「理想としての母親像」と
いま、私自身が思い描いている「人としても生きている母親像」とは
どうも少なからぬ ギャップがあるように思えてなりません。
といっても、実はまだ「人としても生きている母親像」が
私自身にも、はっきりとイメージできているわけではないので
困っているというか、日々悩んでいるわけなんです。
こんな時には、まず自分の身近にいるたくさんの母親の方々や
本などから、窺い知ることのできる先達の方々の
その生き方、ありようを参考にしながら
とにかく「自分にとって」の「人としても生きている母親像」を
模索していこうという試みに、挑戦していくしかないと考えています。
現在進行形の悩みの中で、そのことを整理していくということなので
終着点はもとより、どこを辿っていくのかもよく見えてはいません。
結局、自分の今もっている(たぶん)脳の引き出し(ファイルみたいなもの)の中から
関係のありそうな資料やら、気になることどもをあれやこれやと
とりあえず引っ張り出してきて、目の前に並べてみて
まずは、手に取って眺めてみたり、本でしたら読み直してみたりという
作業がどうしても、必要に思われます。
ということで、どうもすぐには核心はおろか
そこに取り掛かることすら、できないかもしれませんが
このことは必ず、いつか、お話できるようになりたいと想っています。
いくつか私の思い浮かぶヒントなどを、書いておきますので
皆さまも、ぜひこの問題について、ご一緒に考えていただけますよう
よろしく、お願い申し上げます!!
(ちなみに、私の想う母親像と、皆様それぞれが想う母親像は
全部違うと思いますし、それはそれぞれで良いんだと思います。)
私が、尊敬するまたは憧れとするまたは気になる女性の方々
(思いつくままに・・・母親に限らずです)
マザー・テレサ 大村はま先生 ドロシー・ロー・ノルトさん ローナ・ウィング先生
幸田文さん 藤原ていさん 神谷美恵子さん 須賀敦子さん 岡本かの子さん
岡本敏子さん 与謝野晶子さん 樋口一葉さん いわさきちひろさん
金子みすずさん 向田邦子さん 平木典子先生 大日向雅美先生 大貫妙子さん
梨木香歩さん などなど…
他にも、たくさんの女性の方々の生きている姿が浮かんできます。
「社会と子育て」というスクーリングを受けた時には
世界の様々な国での社会状況と子育ての環境や人々の生き方考え方を学びました。
いま、日本がどんな状況にあって、何が問題となっているのか?
どんな社会に生きることを目指して、どんなことをしていけばいいのか?
私自身が生活しているささやかな、ほんの身近な暮らしの中でも
もしかしたら、そのことをきちんと考えていかなければならない時に
来ているのかもしれないと、思わずにはいられません。
…ということで、問題を提起したところまでで時間がなくなってしまいました。
今日は、これから親の会のOB会の方で
「告知」についての、お話し合いがあります。
少し遅れてしまいましたが、これから出かけてきます。
歩きながら、足元を確かめつつ、何か身体を使って
考えたり、感じたり、想いながら、悩みつつも、時に何かをお話することが
いまの私にできることなのかもしれませんね…
お話していただきありがとうございます。
皆さまが、「いまは子育てに専念を」とおっしゃることに
なぜ、私は素直にそうだと思えないのでしょうか?
ふと「北風と太陽」のお話を思い出しました。
子どもが学校に行っている間は出かけることがありますが
帰るときには、ほとんど家におりますし
スクーリングも基本的に月に土日の4日くらいのペースです。
フルタイムでお仕事をしていらっしゃるワーキングマザーも
近頃はとても多く、それでも皆さん限られた時間の中でも
子どもとの関わりを大切にしていると思います。
花ひとひら様は自信をもって子育てすることがおできになって
ほんとうにお幸せだと思いますが
(私は、別としても)
だからこそ、いま子育てに悩む若い方々のお気持ちに
思いを馳せていただけると
問題がもう少し見えてくるような気がします。
原因はともかくとして
子育て中の若いお母さんたちのお話を実際に聞いたりして
その悩みを聞いてくださる機会をぜひもっていただきたいと思います。
私の地域でも子育てサポーターなどの活動をしてくださる
ご高齢の方たちに支えられて
地域での、子どもや子育て中の母親の支援が行われています。
おそらく、現状をもう少し良く見ていくと
社会の求める価値観と実際に生きている人々の価値観の間に
ずれが生じていることが感じられるのではないでしょうか?
もしかしたら、すでに花ひとひら様のお子様も独立されて
ご結婚なさっていらっしゃるかもしれませんが
そんな視点をお持ちくださったら、きっと素敵なサポーターになっていただけると思います。
私たち親子にしても、皆さまから見ると、きっと危なっかしくて
見ていられないのでしょうが
それなりのささやかな幸福感はあって
迷いながらも母が元気でいられることで
明日を信じてやっていけると思っています。
言い訳をすることでもないのかもしれませんが
こんな自分に対して自己嫌悪にも陥らず
なんともいえないささやかな自信を感じてしまうことに
私自身が驚いています。
お叱りは覚悟で申し上げますが
「これが私の生きる道」と胸を張って言える気がします。
そして、子どもに対する責任はわたしたちが負っていることには
変わりがないのですから・・・。
いろいろな年代の方々のご意見は、とてもありがたく
その上で自分なりの考えをまとめることができるので
ほんとうにありがたいです。
また、いろいろなお話をぜひお聞かせください。
長く成るかもしれませんが、私の思っていることを率直に言わせてください。
3人の子供の母です。(もう成人しています)
子育て時期は子育てに専念しました。色々悩む事もありましたが屁理屈は言っておれませんでした。優先順位子育てが1番目。自分のしたいことやってみたい事は「それは子供達が成人して私の役目が終れば幾等でも出来る」と子供に向き合う事が最優先でした。今の若いお母さんはそれを「古いとか、母親と言えども一人の人間。自分磨きも、楽しみも無いなんて可笑しい」と言われます。しかし、子供を与えられたこと。そして子育てをすることは立派に自分磨きです。悩んでないで堂々と私は母親だと胸を張れる様にせい一杯お子様と向き合う(例。話し合うなど)ことをして、又お父様も加わり、子育てをされたらどうでしょうか。私は悩んでいる暇はありませんでした。髪振り乱して子育てに奮闘したと思っております。それが良いとか悪いとかでなく、与えられた任務であり、責任だったからです。悩む事は成長の一過程でしょうが、お子さんを放して悩んでいませんか。自分もお子さんになってみることだと思います。自分磨きは子育てが終ってからでも出来ます。が、向き合えるのは今しかないのではないでしょうか。
どうか、今の時期は全力投球で(自分のことは後回しになっても)子供さんに向き合ってあげてください。自分の勉強は子育てが終ってからでも遅くありません。余計かもしれませんが、ちよっと気になりました。お母さんに理屈はいりません。その昔、授乳をしているとき、遠く離れていても子を思ったとき、胸が張ってきて乳が溢れてきました。私はあれだと思います。母に理屈はいりません。ひたすら子を思い子と同じになってみると見えてくると思います。子供になってみてください。
おはようございます!!
昨日は、夜9時頃に寝てしまいました!!
よって、早く起きて記事を書いていました。
どうにも不器用な私に
皆さまをつき合わせてしまったことがとても気がかりです・・・
でも、ほんとうに感謝するばかりです!!
はい。わかりました(^-^)!
通級で良い学びが出来ますよう、祈らせていただきます♪
私も勉強になりました。
ありがとう(^-^)!
困り感について、私の表現が足りなかったことに気づいたので
追加します。
困っていないわけではなくて
困っていることに気づいていないという意味で
「困り感がない」と申し上げました。
いま、通級では
自分の持っている特性や苦手なことにも本人が気づいて
どう対処すればよいかを、トレーニングしています。
それは、本人にとっても親にとっても
自己の課題と真正面から向き合うことを求められる
ある意味ではツライことかもしれません。
でもどんな形にしろ自分の足で少しでも歩いていくためには
必要なプロセスだと思います。
文章という言葉の限界を感じるのは私だけかもしれませんが
なぜ、そんな風に私が思えるのかを、考え直してみました。
この4年くらいの間に、ほんとうに集中して
私ひとりの目ではなく、多くの方とのかかわりの中で
子どものことを、見てきたからかもしれません。
登校渋りのことは、「また、来たか!」という課題であることに
気づけたことと、ブログを通して皆様とお話しすることができて
私にとって、原因の整理もどうすればよいのかも
おかげさまで、だいぶ良く見えてきました。
道草様には、上手に伝わっていないかもしれませんが
kirikouにとっての、原因の除去は
たぶん「彼の特性と向き合う」長い道のりが必要で
さらには、彼らの生きやすい社会の仕組みや状況を
作り出すしかない・・・ような気がします。
たぶん私自身が、kirikouたちがいまいる世界と
道草様たちが暮らしている世界の両方にまたがって
生きているような気がするので
どうしてもそのことを、何とか両方に通訳したいと思っている・・・
それが、きっと遠回りかもしれないけれど
kirikouの生き易さにつながると感じているんだと思います。
今できること、そしていずれ私が死んだあとに
何がしかのものが育つように・・・と想うこと
それが「Little Tree」のグレートマザーのメッセージなのではないかと
思っているだけなんです・・・
チョッと厳しいかもしれませんが。。。
すみません。
上記は、
何をもって言い切れるのかな…?^^;
と、思いまして…
私は、
自分自身に、いい点数を付けられても、
今のところ、息子が登校拒否ならなくても、
いい支援者が周囲にいても、
旦那が育児時間をとって、
毎日16時に帰宅しても、
息子の受診には常に旦那が一緒に行っても、
息子のテストの点数が常に100点でも、
全国模試でいい点数をとっても、
友達と喧嘩をしない日が続いても、
息子自身が、
「困っていない日が続いているよ!」
と、たとえ言い切っても、
上記を言い切ることは、
私自身は一生出来ません。
子ども自身の困り感は、子供が決めることだと思うし、
なによりも、
そのこと自体を表現することが困難なのが、
子供たちの特性なのではないかな~?と^^;
困り感をうずもれさせられたままの状態で、
成人になった方々の悲痛な叫びを、
一杯聞きます。
苦しいです。
ここにある困難を、
最も身近な存在が理解してくれなかったこと・・・
表現できない部分を、
表現できるように介入してくれなかったこと、
助けてくれなかったこと・・・
身がちぎれる思いです。
今現在の困り感を認識できず、
認識できないがゆえに、
表現できないことが、
この子供達にとっての、
『最大の困難』ではないのかな?
と、思うのですが…^^;どうでしょう?
今現在は、その結果が、
自らの意思で、
学校へ登校出来ない事、
なのではないか?と^^;
勝手に想像して、
お節介を焼いていました。
すみません。
でも、そんな状況下でも、
母である風待人様が、
「これまで、子どもにずいぶんと手をかけてやってきましたので、子ども自身に困り感が、余りありません。」
と、言い切れることは、
ある意味凄いことだな~!と、
心からそう思います。
手をかけた=困り感が余りない、
の図式が、
ASである私には一生分からないし、
まだ8歳の息子にそう伝えたところで
「はっ?何言ってるの?僕の人生はこれからで、これから一杯支えて欲しいのに。一つ一つにアドバイスが欲しいのに。」
と、言われるのが、
我が家の場合の、落ちです。
なので、凄いな~!と、
嫌味ではなく、本当に思います!
「母親が今やりたいと思っていたことを、子供がいつか理解してくれる」。いつかではなく、子供は今お母さんを理解したがっているはずです。「子供が独り立ちする時のために何をすべきか」。今お母さんが出来ることは、自分の興味や趣味を優先するのではなく、坊やを優先することです。様々な理屈付けは不要です。可能な限り一緒に居て、坊やの声を聞きお母さんの声を掛けてあげてください。たまには子守唄も歌ってあげてください。
やはり私の言葉が足りないのかもしれません。
これまで、子どもにずいぶんと手をかけてやってきましたので
子ども自身に困り感が、余りありません。
そのために、次の段階に何をしていけばよいのかしら・・・
といまは思っています。
どこかで、手を離しつつ見守る距離感を模索しているつもりです。
いつか、どんな形にしろ
子どもが一人で生きていくことを、考えずにはいられません。
だからこそ、今できることをしておきたいと思っています。
あせりに見えてしまうところは、私の不徳のいたすところかもしれません。
一生懸命バタバタしている姿を、子どもには見ていてほしいと思うのは
傲慢なのかもしれません。
けれど、やはりいまの自分の想いを自分の行動で表すことで
子どもに伝えようとしているつもりです。
子どもにも、いつかいまの私のように
どうしてもやりたいというものが出てくると
信じているからかもしれません。
そんな生き方を、見てどんなふうにお思いになるのか?
皆さまは、どんな生き方をなさっていらっしゃるのか?
そのことを問うてみたかったので、皆さまそれぞれが
そのことを、考えてくださったこと、いろいろお話してくださったことが
私には一番うれしく思います。
ほんとうにありがとうございました。
すみません。場所をお借りします。
twins mama 様
はじめまして(^-^)
とりあえず…うちは、私自身がAS。息子もAS。娘は受診開始。更にもう1人(1歳半で、言語が遅い)という状態です。
で、多分、皆さんが仰りたいことは、子供の特性について多くのところから学ぶこと、そしてその件に関して世間に声を上げていくこと、そして、自分が出来る範囲で、他の方々の困難の部分に介入していくこと、それはそれで大事だし、それを大事にされている風待人様の活動も素晴らしいものであると思っているのだと思います。
でも、一番身近に、最も風待人様からの支援を必要とされているお子さんがいるのではないか?そこを忘れないで欲しい!ということなのではないかな~?と、思いながら、他の方のご意見を伺っています。それは、発達障害を知らない、『一般論』とかというようなものではないような気がします。
多くのことを学ぶことも必要です。が、それが生かされないことには、何の意味も持たない、学んでいることが無意味と思います。そんなことを仰りたいのかな?と、思っています。
そして、私たち障害者の親が、陥りやすい部分なのかもしれないな…、とも、思います。
私は、よその母親と比較したら、その点に対する学びは全くしていないと思います。
ですが、当事者の声を聴くことには専念しています。彼らの声が、息子の叫びだからです。専門的な介入を学ぶことも必要。でも、具体的に生かさないことには何も解決しない。単なる頭でっかち状態で終わってしまい、子供たちが求める具体的困難の解決には至っていない、むしろ、増やすばかりである。そう感じます。
私もやりたいこと、学びたいこと、腐るほどあります。が、今は子供が一番です。
それは、人それぞれなので、何を選択するか?は、それぞれだと思います。そして、皆さん、子供に専念して欲しい!とだけ願っているのではないのではないかな…?とも、感じます。
なんか、長くなってすみません。
ただ、どちらも大切なご意見なのではないかな?と、私自身、とても勉強させていただいています。
何よりも、正直にこの記事を書いてくださる、風待人様に感謝いたします。
風待人様。
ゆっくり、焦らないで。自分を責めないでください。答えってすぐに出ないものだと思います。大事なことほど(^-^)!
てっきりお悩みなのかと…
たいへん失礼いたしました。
お悩みでなければ、私の意見はなんの意味もなしませんので、どうか気になさらないでくださいね。
ただ、誤解をあたえたようなので少し…。
わたしは、そんなに大変ならやめればいい、と言ったのではなく
なぜそうとられたのか不思議ですが…、
自分を捨てろ、とも、風待人さんが特別だ、
などとはまったく言ったつもりはありませんでした。
ただ両立でお悩みと勘違して、それは難しいことですから、なにを一番に考えるかを、はっきりさせてみるとよいのでは、という単純な意見でございましたので。
そのあたりの誤解をといていただき、
その後コメントは削除して、すっかり忘れていただければ幸いです。
私の子供の一人は、軽度の発達遅滞(知的障害)があります。長子は早熟で中学受験もした視点からみると、遅れのある子供の子育ては「なぜ、どうして、どうしたら」の連続でした。
仕事もこれからというときで、かなり悩みました。ある時期は教育的な指導には目をつむり、仕事にまい進したこともありました。
悩みながらも、周囲の絶大な協力体制のもと、仕事、母、妻なんとかやってこれたのが現状です。
そんな中、知り合った同様の学びに困難さを抱えるお子さんの保護者の皆さんは本当によく、お子さんの障害について勉強し、実践していらっしゃいます。
子供を理解しようと思うからこそ、「なぜ、どうして、どうしたら」に対し、常に積極的に向かい合っているのだと思います。
小児発達心理を専門的に勉強なさっていたのんびりお子さんをもつお母さんが友にいます。一時期は専門家のシンポジウムで実践者として共同研究発表までされ、思いつめたように勉強・実践されていました。自分の中で、そうしなくてはいられないものがあったそうです。
私自信は踏み出さず、傍観者に終わっていました。結果的にはそれはそれでよかったのですが、そのときそのときに、自分の心に湧き出るものに正直に突っ走る気持ちもよくわかるんです。
風待人さんが一般的にはもっとお子さんに目をという風におもわれるかもしれないけれど、子供を知りたい、理解したいという気持ちの部分からの学習だと思うのです。
どんな子供も理解するために親は努力が必要です。でも、???とおもう子供を持つといろんな観点からの観察・理解が必要になります。
そのために親は勉強せざるを得ないのです。
長文の上駄文になってしまいましたが、育てにくい子供を親の実感です。
貴重なご意見をいただきありがとうございます。
私の言葉が足らずに、みなさまにご迷惑をおかけしているような気もいたしますが・・・
お叱りを承知で申し上げますと
どちらを選ぶかで悩んでいるわけでも
どんな母親になりたいかで、悩んでいるわけでもないと思います。
おかげさまで、かなり変わっているかもしれんませんが
子どもも、私も人様から見たらなんとも危なっかしく見える状況を
どこか、綱渡りながらもふんばっているのでしょう。
そのことから逃げるつもりもなく
そのことを淡々と受け止めて生きたいと
気持ちの上では思っています。
傍から見たら、突っ張っているように、無理しているように見えるのでしょうが
そんな生き方しか、不器用な私にはできないのかもしれません。
そんなに大変なら、やめたらどうですか?とおっしゃることに
耳を貸すことができるかどうか?
そのことにお答するよりは
いまこうしている自分と子どもの関係を
そのまま肯定していきたいと感じています。
もし、子どものためという選択で自分をなくしたら
それが、子どものためになるとは、どうしても思えません。
そのエゴとも言うべき自分の我と、今向き合うことからしか
私の次のステップが見えてこないような気がしています。
これから、子どもに請われて、スイミングを見に行ってきますね。
風変わりな、こんな親子がいるということを
知っていただけただけでも、何だかうれしいです!!
風待人さまは、ご自身の興味と子育ての両立でお悩みのようですが、まずはご自分にとってなにが一番大切かをはっきりとさせたほうがよいのではと思います
ご自分の勉強に大変ご熱心なようすが、少し読んだだけでもよくわかります。
ただ、お子さまの状態を読んで心配になりました。
母親になりますと、この子は何に興味があるのかしら、この子は将来どうなるのかしらと、自然と思うものでしょうけれども、風待人さんの文章からは、
私の興味はなにかしら、私は将来専門的な職につくことができるかしら、と、ご自身の将来に想いをはせていらっしゃるような印象を受けます。
お子様が一番大事であれば、ご自身の勉強時間を今よりすこし削って、お子様といっしょに過ごすこと、子供の話しを時間をかけて聞きながら、何が好きで、何が向いているのか、見守ってあげることが、なによりお子様の将来のためと思われます。
もし万が一、ご自分の興味、ご自分の将来が一番大事であるとわかったなら、まずはそれをきちんと認めたうえで、お子様へはリスクがかかることを承知して、今まで通りご自分の勉強にはげめばよいのでしょう。
道草さんがおっしゃっているのは、像でもなんでもなく、ごく普通の母親のことなのですが、それに気づかないお母様が、文章を見た限りですが、楽天的過ぎる印象でとても気がかりです。
尊敬される先達たちが、とてもたくさんいらっしゃっるのはなによりのことです。
ただ、その方たちの良いところだけをまねしようとしても、同じ人間でない限り、同じようにはいきませんし、伝記にすべてが書かれているわけでもありません。
ご一緒にお考えください、とありますが、風待人さんはいかなる質問にもご自分の答えをお持ちのように見うけられます。
否定的な意見に耳を貸すのはだれしも苦痛を伴うものですが、
今よりすこしだけ客観的になられて、自分の考えをあと押しする意見だけでなく、幅広い意見を取り入れる気持になられるようになれるとよいですね。
道草さまも危機感をもってアドバイスなさっていらっしゃるのだと思います。
母親になった時点で誰もが、否応無しに、『母なるもの』に向き合っています。
日本の状況を考えるより、お子様の好きなことをひとつでも多く見つけてあげてほしいのです
少なくとも、いま「母親をやっている」ひとは
自分の中に、母以外の自分を意識することがあるように思いますね。
自分の中のバランスのとり方は、人それぞれですけれど・・・
>私と私の子供は世界に唯一のものですから
このことは、ほんとうに不思議なめぐり合わせに感謝!!
と思える自分がうれしいです!!
道草 さま
私は、たぶん現代の女性がいろいろな場面において
いろいろな選択を、その都度していることを
お話したかったんだと思います。
数々の女性像をあげたのは
結婚するのかしないのか?子どもを産むのか産まないのか?
産んだあと、いかに育てていくのか?
いかに人としての自分と向き合っていくのか?について
道草様もおっしゃっていらしたと思いますが
ほんとうに様々な価値観をもつ多様な考え方の方々が
いま、この時を生きているわけなので
ひとつの理想像や価値観でものごとを語ることができないということ
だからこそ、それぞれの人が自分にとっての
女性としての母親としての、しいては人としてのありようを
悩みつつも、模索しているということを、申し上げたかったのです。
たぶん、そのことを同時進行で生きていくことが
いまの私には、大切に思えます。
ぴーまん さま
のびたくんが、『そのままのぴーまん』おかあさんに、
90点くれる・・・
このことは、ほんとうに素敵ですね!!
子ども自身も自己理解や感情表出という課題に向き合う中で
私自身も、同じ課題にとり組んでいる部分があるのでしょうね・・・
モデルが必要なのは、自分を映し出す鏡のようなものが
必要だからであって、それらが自分と同じということではないと思います。
いま、子どもとの距離のとり方を模索しているということは
お互いに、他者を理解するための入り口に立ちつつあるということかもしれません。
これも、きっと長い道のりになるのでしょうね・・・
①いつもゴロゴロ寝込んでいるくせに、僕の話だけはちゃんと最後まで、丁寧に聞いてくれるから。僕に対して何かを一杯してくれるのではなく、してくれることはチョッとでいいから。一番大事な僕との話を丁寧にしてくれるのが、一番嬉しい。
②僕が、困っている時、かんしゃくを起こしている時、進めないでいる時、悩んでいる時。一番最良なアドバイスをくれるから。そうしてくれことで、僕が前に進めることが出来るから。
その二つでしたよ♪
こどもは、何を求めているのでしょうかね(^-^)?
私は、それに向き合うことが母親だと思います♪
私は、(自分自身がアスペルガーで線維筋痛症なので)
掃除機がかけられません。
平日の夕食は、旦那の職場の弁当です。
子供と一緒に公園に行ったのは、この八年で数回です。
どこかに連れて行くのも、くたびれて、帰宅すると、翌日は寝込みます。
洗濯は晩に旦那とします。
たまに、子供の連絡帳や、提出物を親が忘れます。
他にも、もろもろ・・・^^;
いわゆる母親像からは、思いっきりかけ離れていますし、「おかあさん、な~に?おかあさんっていい匂い~♪」の歌が、大大大大大っ嫌いです。固定観念の固まり。嫌いです。これが、一部の人間を、生き難くしていると思います。
ですが、
そんな母に、
息子は90点近い点数を付けてくれます。
母親としてどうか?は、
私達が、死ぬまで追求しなければならないことだと思いますが、その、答えを、そこに点数を出してくれるのは、子供だと思います。
それは、子供の心身の現状態=答え、ではないと思います。心身の現状は、その子の答えの一部でしかないと思います。
だから、
風待人様。
焦らなくていいと思います。
理想は理想。
でも、大事なのは、風待人様の理想ではなくて、お子さんの理想。で、その理想にはまる必要は無いと思います。
(理想は、目標とする場合では、あったほうがいいかもしれないけど)人間は、他者を理想にはめることは出来ないこと、また、自分が理想を掲げても、全く一緒には、なれないこと、そんなことの方が、大事ななのではないかな?
息子は、飾らない、隠さない、母である前に、『そのままのぴーまん』に、90点弱をくれましたよ♪
長くなってゴメンね。
そんな意味からも、私の母は母親の理想像なんてとんでもないです。せいぜい50点の母です。人間ですから、好い面もあれば反面教師的な面も多々ありました。
風待人さんが母の理想像として大勢の人物を列挙されていますが、それぞれは共通点はあっても、むしろ異質な部分が多いのではないですか。むしろその方が人間的と言えます。
twinsの言われるように、世界で一人しかいない子供にとって、世界で一人しかいない母親であること。それこそが、母の理想像と思います。
自分の母は一般的には理想の母・・。
でも、社会人として考えるとどうかな・・。
大叔母・・。子供はいないが、私の母の母代わり(後見人)。
母としても社会人としても素晴らしい人だった。でも、実際に子供を一から育てたわけではない。
私、母・妻・社会人多分全部50点くらいだろう。
でも、全部100点なんて、出来ないからこれでいいかと。
(それを目指していたし)
時には母70点、社会人40点、妻10点の事もあるし、
ケセラセラ、そのときの風任せで出来る範囲でやっています。
理想像、それはありません。(参考にすることはありますが)
私と私の子供は世界に唯一のものですから、自分がモデルと思ってやっています。