えんどうえこばなし

フラメンコ。レッスン動画とえこばなし。

おもしろい場をつくる1

2013-08-27 15:46:16 | えこばなし
フラメンコの面白いところは「こうだったら必ずこう」ということがないところだ。
それは人生のありとあらゆる局面で「こうだったら必ずこう」ということがないのと全く同じである。

受験をするのかしないのか
音を出すのか出さないのか

言いにくい意見をどんな風に切り出すのか
パルマの最初の音をどんな風にたたくのか

「どうしたらいい?」と聞かれたら「どうでもいいんじゃないかな」としか答えられないが、例えば自分がその場にいたら「これしかないでしょう!」という判断を下すことになる。
「どうでもいいけど、これしかない」のだ。

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周囲の環境、自分の性格、時代、その日の体調、床の反響、隣の人のテンション。
いろいろなものがその瞬間瞬間に変化していく。
その中で「何を」選ぶのか、「何を」選ばないのか。
それぞれのメンバーがそれぞれの判断をするから、だから場が面白くなっていく。
たえずゆらいで、変化して、それがワクワクを生み出して行く。

場が面白くないときは、だれかが思考停止状態になっていることが多い。
「え?塾にはいくでしょ?常識でしょ」
というような人ばっかりが集まっているとなんか面白くな~い雰囲気になったりするように
「ここは大きな音じゃないとダメ」
みたいな決めつけで誰かが動いていると場が固定されてしまって面白くなくなる。

誰かが支配的な場合も同じだ。
場を支配しようとすることも、場を固定することになってなんだか残念な気配がただよう。
「先生」をやっていると知らず知らずに支配的になっていることがあり、クラスを残念なものにしてしまったりもするのは私の反省。

かといって他の人の様子ばかり伺っていても場がしょんぼりしてしまう。
「わたしは特に何も言うことがありません」ていうのはPTAでの場くらいにしておいたほうがいい。いや、わたしは言いますけどねPTAだろうとどこだろうと。うそ。けっこう控えめにしている(つもり)。

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それぞれが、それぞれの判断で動く。
その判断は「良い判断」と「いまいちな判断」があって、「あーこりゃああんまり良くなかったなあ」と次の瞬間に思ったりすることはいくらでもあるのだが、ただ「判断をした」という時点で「それほど悪くない」。

「悪い選択」というのはある。
それは「判断しなかった選択」に多い。

常識だと思って就職しちゃったり、皆が着てるからと同じ服を買ってみたり、先生が言っていたからと小さな音を出したり、隣の人になんとなく合わせてみたり、または全然別のことに気を取られていたり。
自分がこれと判断しないままに知らずに選択をすると、多くの場合ろくなことが起きない。

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それは今日スーパーで「どのお豆腐を買うか」と同じ程度の判断だ。
価格、遺伝子組み換え、消泡剤、豆の産地、有機栽培、メーカー。
どのお豆腐を買うか?
それを買うことで、世の中はひとつだけ「そっち」に傾く。
それを「なんとなく隣の奥さんが買ってるから」で買っていると知らず知らずに「そっち」に世の中は流れていて、後で「そんなこと聞いてないよ!?」と叫ぶことになる。
子どもならともかく大人としては残念な話だ。

パルマを「こうやって」叩けば、場はひとつだけ「こっち」に傾く。あ、ちょっと良くないかと思えば「あっち」にひっぱってみればいい。誰かが繰り出した「そっち」が面白そうならついていってもいい。でも「ついていく」と決めたのは他でもない「わたし」なのだということを忘れずに。

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そしてフラメンコのわかりやすいところは、人生と違ってメンバーの目的がおおむね一つであることである。
「おもしろい場をつくる」
ということだ。「素敵な場」でもいい。「楽しい場」でもいい。
人生の場合はもう少し複雑で、日本経済のことを考えるのか世界平和を考えるのか絶滅危惧動物のことを考えるのか自分ちの子どものことを考えるのか、、、それぞれの基準点によっててんでばらばらの「良かれと思う判断」が起きたりするわけだが、フラメンコの場合はもう少しシンプルだ。
お客さんに見せる会なら「お客さんに喜んでもらう」だろうし、仲間内で楽しむなら「楽しむ」。
まあその中でもそれぞれ「こういうフラメンコを」とか「ぱあっと楽しく」「いやいやグッとくるような」などと細かい思惑はあるものだが、しかしおおむね目的はひとつ。「良い場をつくる」。

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じゃあ、良い場をつくるための判断ってなにすればいいの?
って思ったところで、また今度。

ひさしぶりにフラメンコ話。

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