スヴェトラーナアレクシェービッチの「戦争は女の顔をしていない」
をオーディブルで聞いている。
独ソ戦で戦場に出たロシアの女性の話。
何らかの理由で、わざわざ志願して武器をとって戦って、死線をくぐり、生き残り、帰ってきて、戦争に行ったことを隠して黙って過ごしてきた、女たちの、それぞれの話。
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人間の脳というのは、単純でわかりやすいストーリーを好むらしい。
複雑な感情、心理は脳に負荷がかかる。
だからついつい「どっちが悪い」とか「どっちも悪い」とか、そういうことにして終わらせようとしてしまう。
ニュースを見ていると、どうしてもそういう見方で世界を切り分けようとしてしまうし、そういう見方(どっちの味方につくか?みたいな)に誘導されていると感じる。
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「戦争は・・」を聞いていると、複雑なものは複雑なものとしてそのままにしておいた方がいいと感じる。
それでこの10日間くらい、この本を聞いて湧いてきたモヤモヤした気持ちをモヤモヤしたまま持ち続けようとしている。
ニュースを聞いて感じたモヤモヤも、そのままにしておこうとしている。
哀しさと優しさ、光と影、矛盾する気持ちをごちゃごちゃさせたまま、身のうちに保っていようとしている。
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踊ると楽しい。
音楽と一緒になっていると楽しい。
共演者と心が通じたら楽しい。
そしてお客さんが喜んでたら嬉しい。
でもその反面、楽しければ楽しいほど、罪悪感のようなものがつきまとう。
ウクライナ侵攻から特にその感情が強くなってきた。
それはライブの帰り道、いつも町田駅前に立っている東南アジアの女性がいるのだが、彼女を見た時に感じる罪悪感と同じものだ。
夜の町田、道ゆく男性に声をかけ続けている彼女は、私だったかもしれない。
でも私はさっきまで「オレー」なんつって愉快にフラメンコなんかを踊ってチヤホヤされていたのだ。
コロナになってから、彼女を見かけないことも多くなった。具合が悪いのだろうか。それとも接客中なのか。危ない目にあってないだろうか。私がこんなことを考えるのは「上から目線」なのだろうか。
その「楽しさと罪悪感」については10年くらい(彼女との付き合い?もかれこれ10年近くになる)考え続けているが、結局何の決着もついていない。
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2ヶ月前から、それと似たような哀しいような感情が踊っている最中に起きることが起きるようになっていた。
あんまり「良くない感情」だと思って、慌てて他所に追いやっていたのだが、昨日はそれをそのままにして踊ってみた。
そのままでも充分に踊れた。
少しだけ、持て余した感じもあるが、しばらく、このままでいようと思う。
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