えんどうえこばなし

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脱走大計画

2013-06-12 20:47:47 | ねこばなし
うちの猫は家猫である。
つまり、外には出さずに家の中だけで生活している。

猫だってネズミだって自由に生きたいだろうと思う。
それでケンカして病気がうつろうと、車にひかれようと、自由に生きるということが何よりも大切だ。

そういう考え方もあるし、割と私はそういう考えの持ち主である。
長生きすりゃあいいってもんじゃない。そういう考えの持ち主である。人だろうと猫だろうと。
しかし、うちの猫は家猫である。外には出さない。

人生とは矛盾しているものである。
もらってきたシェルターにも「家猫で飼います」と約束した。
まあそれが理由としては一番大きいが、他にも色々とある。
やっぱり車にはねられたりしたらやだとか。


もう、うちの猫たちは「うちの猫」になったと思う。
だからデタラメに「とにかくここから逃げなければ」的な脱走はしない。

しかし脱走はする。
見つけると「にゃーん」などと得意そうに寄ってきてすぐに捕獲されたりするから、あんまり脱走という自覚はないかもしれない。しかし脱走は脱走だ。


脱走

なんと甘美な響きの言葉だろうか。
「大脱走」「パピヨン」「暴力脱獄」「脱走大作戦」「ショーシャンクの空に」
わたしの愛する映画には脱走モノが数多くある。
スティーブマックイーンやポールニューマンが絶対に不可能かと思われるところからの脱出するのだ。
自由への道。
生死をかけて求める自由。

ああ、脱走。

だから私は脱走を繰り返す彼女たちを愛する。
網戸を破り、網戸を手で開け、工事中の壁の穴をもぐり、1階から2階から、小窓から、屋根をつたい降りれなくてにゃあにゃあ言ってるところを捕まえられようと、戻って来れば2匹で「さっき脱走できた現場」へ行って現場検証(あれ?おかしいぞさっきは開いたのになぜ今は開かないんだ?)を怠らない。そんな彼女たちを愛する。

そして勿論、愛することとは別に徹底的に阻止するのである。
ダクトテープを網戸に。
防止柵を玄関に。
網戸止め金具をつけ、貼り紙を貼り、遊びに来る子供達の教育も怠らない。

そして今は破られるものがなくなった。
網戸に飛びつこうと、爪をたてようと、もう外には出られない。全ての窓という窓を防止窓にしてしまった。

うちのスティーブマックイーンとポールニューマンは、映画での彼らがそうだったように「ふうん、そう」といった風情である。外に出せとにゃあにゃあないたりせず、のんきに「じゃあまっいいかー」という様子で昼寝などしている。
だが私は知っている。
脱走とは、永遠に続くものなのだ。
そうでなくてはならないのだ。
彼女たちは、必ず次の機会を逃がさないだろう。
そして私は脱走を知った時「なんだと!?どこからだ!」と怒りつつも「よし!よくぞやった!」という気持ちを抑えることは出来ないだろう。


これは猫の寝相としてはおかしいのではありますまいか。

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