えんどうえこばなし

フラメンコ。レッスン動画とえこばなし。

春休み終了

2016-04-06 16:23:08 | えこばなし
4月になって、子らも春休み終了。

別に何をするというわけでもないのに子らが学校に行かないとなんとなく落ち着かないのはいつものことで、だから今年はもうはじめから「何か仕事をしよう」みたいなことを考えないで割と家にいた。

さすがに勉強をはじめた子(上)。
友達と毎日遊びに行き、遊ぶ友達がいないとヒマヒマ星人になる子(下)。

この人たちとの暮らしもあと何年かである。

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最近、今まで信じて来たアレコレが「ひっくりかえる」ということが頻繁に起きている。

たとえば「つくす」ということ。
「あなたに~つくしますう~」とか演歌とかで歌っている、あの「つくす」である。
ひょっとしてもう死語だろうか。
私はアレをずっと「悪」だと思っていた。
まあ悪というのは言い過ぎなんだけど、古い価値観、無理に押し付けられるもの・押し付けるもの、人に寄りかかっている姿勢、なんだかそういう「嫌なもの」だと思っていた。
「つくす女がいい」とか言ってるオトコはバカなんじゃねーの思っていたし、そういう気配をさせる全てのものを忌み嫌っていた。

でも「独立した人間が、自分の判断で、人につくす」ということはあるのだ。
そしてそれはひょっとしたら素晴らしいことなのだ。

それを気づいた時にすごいビックリした。
古い価値観を嫌っていたはずの自分の眼は、古いとか新しいとかに囚われて、まったく何もわかっちゃいなかったのである。
それとも古い価値観をケリ飛ばす時にはそういう盲目的なエネルギーが必要で、ようやく客観的に眺めれるようになったということなのかもしれない。

「つくす」は「悪」ではない。

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私が「正義」や「いいもの」だと思っていたこと。

子供のころは「もう女の子だからって遠慮することないのよ」という雰囲気で育った。世間では「女の子だから」という言葉は健在だったがそれは「だから好きにやれば」に繋がる言葉だった。世の中は豊かで習い事や新しい電化製品やピカピカしたものは「いいもの」だった。女の子が自由にやることも「いいこと」だった。
上の世代からは「あなた達は、私たちと違って、自由に生きれるの。それは素晴らしいことなの。人のためでなく、自分のために、生きていいのよ」というメッセージをシャワーのように浴びた。私の母に直接的にこのように言われた記憶はないが、なにか世代的にこういうメッセージがあった。
就職してからもフェミニズム運動はすでに熟しており、私は千葉敦子とかの真似をして「そんなのは時代錯誤だ!」とか叫んでいれば良かった。正義は私の側にあると信じていた。古くさい価値観を振り回す係長など虫けらくらいに思っていた。

あのころの「正義」。
あれは、なんだったんだろうかと、最近よく思う。

記憶の中の係長の戸惑った顔は、まるで今の私の顔である。

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春が来た。

春休み中は、ミョウガを植えて、さやいんげんの誘引をして、水耕栽培の勉強をして、練習をして、節約レシピをいろいろ試した。自家製キュウリのキューちゃんがうまく出来たので嬉しい。
コッコ先生の動画更新しようとしたらなんと行方不明。猫がいずこかへ連れて行ってしまったようだ。

今年はのんびりしようと決めた。
いつものんびりしているような気もするけど、家のこととか、子供のこととか、夫のこととか、ちゃんと考えて、大切にする。

コッコ先生のこともね。
どこいっちゃったんだろう~。

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