第七章 天皇と日本
前章まで延々と宗教論で助走してきました。
小室がここまで助走をしてきたのは、宗教を補助線にとり、因果律、予定説、日本における法の不在を議論の前提にしておかないと、天皇システムの理解が困難と考えているからです
では、小室の天皇論を聞きましょう。
承久の乱から語り始めます。
承久の乱以前の天皇にたいする日本人の感覚は、神の直系を正統性に持つ故、如何なる君命も臣下はこれに抗すべき者にあらず、であった。
天皇の命令に臣下は絶対に抗することが出来ない。是非善悪を問わない。
天皇が正しい命令を出すのではない。天皇の命令だから正しい。
天皇は「正しさ」を創造する。正統性を創造する。
これまさに キリスト教的神 の絶対性・・・・・お忘れの方は第四章、五章参照
ところがこの神代、古代、中世のはじめを通じて貫徹し、天壌無窮を誇った予定説論理である「天皇システム」に危機が訪れた。
承久の乱である
頼山陽も「日本外史」で
われ将門の史を修め、平治、承久の際にいたり、いまだかつて筆を捨て歎ぜずんばあらざるなり・・・・
頼山陽は日本の武士の歴史を研究した。その山陽が承久の乱の研究をしてくるとショッキングな事実に遭遇。
筆を捨てて嘆き悲しまない事は無かった・・・・
なぜ山陽は嘆くのか・・・
承久の乱の結果古代以来の天皇システムが崩壊し天皇イデオロギーも大打撃を受けた!からだ。
朝廷(天皇政治の場)は最終的に政治権力を失った!からだ。
承久元年1219年 1月27日 後鳥羽上皇に従順であった鎌倉幕府三代目将軍実朝が暗殺され源氏の正統は絶え、執権北条氏が幕府の実権を握った。
承久三年5月15日 後鳥羽上皇は兵を起こし幕府京都守護佐藤光季を討伐。政権奪還の行動に出た。
さて一大事。鎌倉幕府はどうする。武士達はどうする。
皇室は神の直系、神仏の加護するところ。皇室に向かい兵を挙げるものは必ず敗軍すべし。
これが当時の支配的イデオロギー。
鎌倉幕府創始者源頼朝は、天皇イデオロギーの鼓舞者。この頼朝の権威の大きさからして当時の武士達に天皇イデオロギーは浸透済み。
鎌倉幕府の武士達が後鳥羽上皇に向け弓を引くことは、かなり困難。
ところが、ここに一人の女出現・・・・二位の尼政子である・・・
二位の尼政子は頼朝未亡人であり三代将軍実朝(暗殺された)の母、そして執権義時の姉。
この政子が武士達を前に大演説
「一同のものよく聞け、汝ら今日の収入といい、官位といい全て頼朝公の御陰であろう。その恩を忘れ京へ参り官軍に付くか、それとも頼朝公のご恩を考え鎌倉方として御奉公するか、態度をはっきり決めよ・・・」
これで勝負あり・・・並み居る武士達涙を流し「鎌倉へ忠誠を誓います」・・・・
頼朝イデオロギー(天皇絶対忠誠)は180度の大転換。
「天皇は無条件に正しい」という天皇イデオロギー・・・・これぞ「予定説」・・・が覆り
「頼朝はよい政治をしたから正しい」という善政主義・・・これぞ「因果律」・・・が出現した。
この「予定説」から「因果律」への転換を決定的にしたものこそ二位の尼政子の演説。
しかし、幕府内にも「予定説」に捉われたものもいる。幕府トップ司令官泰時である。
泰時は父執権義時に言った
「国は皆王土にあらずということなし。されば和漢共に勅命にそむくもの古今、誰か安定する事なし」
泰時は父に「官軍に手向かわず合戦をやめ無条件降伏しよう」と諌めた。
それに対し父である、執権義時はどう答えたか・・・・・
前章まで延々と宗教論で助走してきました。
小室がここまで助走をしてきたのは、宗教を補助線にとり、因果律、予定説、日本における法の不在を議論の前提にしておかないと、天皇システムの理解が困難と考えているからです
では、小室の天皇論を聞きましょう。
承久の乱から語り始めます。
承久の乱以前の天皇にたいする日本人の感覚は、神の直系を正統性に持つ故、如何なる君命も臣下はこれに抗すべき者にあらず、であった。
天皇の命令に臣下は絶対に抗することが出来ない。是非善悪を問わない。
天皇が正しい命令を出すのではない。天皇の命令だから正しい。
天皇は「正しさ」を創造する。正統性を創造する。
これまさに キリスト教的神 の絶対性・・・・・お忘れの方は第四章、五章参照
ところがこの神代、古代、中世のはじめを通じて貫徹し、天壌無窮を誇った予定説論理である「天皇システム」に危機が訪れた。
承久の乱である
頼山陽も「日本外史」で
われ将門の史を修め、平治、承久の際にいたり、いまだかつて筆を捨て歎ぜずんばあらざるなり・・・・
頼山陽は日本の武士の歴史を研究した。その山陽が承久の乱の研究をしてくるとショッキングな事実に遭遇。
筆を捨てて嘆き悲しまない事は無かった・・・・
なぜ山陽は嘆くのか・・・
承久の乱の結果古代以来の天皇システムが崩壊し天皇イデオロギーも大打撃を受けた!からだ。
朝廷(天皇政治の場)は最終的に政治権力を失った!からだ。
承久元年1219年 1月27日 後鳥羽上皇に従順であった鎌倉幕府三代目将軍実朝が暗殺され源氏の正統は絶え、執権北条氏が幕府の実権を握った。
承久三年5月15日 後鳥羽上皇は兵を起こし幕府京都守護佐藤光季を討伐。政権奪還の行動に出た。
さて一大事。鎌倉幕府はどうする。武士達はどうする。
皇室は神の直系、神仏の加護するところ。皇室に向かい兵を挙げるものは必ず敗軍すべし。
これが当時の支配的イデオロギー。
鎌倉幕府創始者源頼朝は、天皇イデオロギーの鼓舞者。この頼朝の権威の大きさからして当時の武士達に天皇イデオロギーは浸透済み。
鎌倉幕府の武士達が後鳥羽上皇に向け弓を引くことは、かなり困難。
ところが、ここに一人の女出現・・・・二位の尼政子である・・・
二位の尼政子は頼朝未亡人であり三代将軍実朝(暗殺された)の母、そして執権義時の姉。
この政子が武士達を前に大演説
「一同のものよく聞け、汝ら今日の収入といい、官位といい全て頼朝公の御陰であろう。その恩を忘れ京へ参り官軍に付くか、それとも頼朝公のご恩を考え鎌倉方として御奉公するか、態度をはっきり決めよ・・・」
これで勝負あり・・・並み居る武士達涙を流し「鎌倉へ忠誠を誓います」・・・・
頼朝イデオロギー(天皇絶対忠誠)は180度の大転換。
「天皇は無条件に正しい」という天皇イデオロギー・・・・これぞ「予定説」・・・が覆り
「頼朝はよい政治をしたから正しい」という善政主義・・・これぞ「因果律」・・・が出現した。
この「予定説」から「因果律」への転換を決定的にしたものこそ二位の尼政子の演説。
しかし、幕府内にも「予定説」に捉われたものもいる。幕府トップ司令官泰時である。
泰時は父執権義時に言った
「国は皆王土にあらずということなし。されば和漢共に勅命にそむくもの古今、誰か安定する事なし」
泰時は父に「官軍に手向かわず合戦をやめ無条件降伏しよう」と諌めた。
それに対し父である、執権義時はどう答えたか・・・・・