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絵空ごと

あることないこと、時事放談から艶話まで・・・

光陰矢の如し

2006-07-14 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「こ」2
「光陰矢の如し」

「光陰矢の如し」の味わいは「後悔先に立たず」とセットにすると、
その深味が倍増する。

時の矢に乗って生きる我々だが、普段その速さに気づくことはまれで、
さらにその矢がどこに向かって飛んでいるのかを知るすべもない。
その時の矢が歳とともに、スピードが速く感じるようになるのだが、
それはこちらの方の動作がノロくなる分、
時の方が早く感じられる錯覚である。
もうひとつの錯覚は、長いはずの人生の記憶が
重要な部分だけに圧縮されてしまうことにある。
化天のうちに比ぶれば、夢幻の如き人生に思われる。

人間というのは良く出来ていて、
辛いことは忘れて、楽しいことだけを覚えているものだ、といわれる。
確かに災害に遭っても、翌日には笑顔でつるはしを振るったりする。
楽しい事を思うことが、前へ進む駆動力を生む。
それが人間の逞しさというものだ。
辛いことも楽しいことに摩り替える能力といえるかもしれない。

しかし、人生の終点が近づいた時、時の矢が的に当たるという時、
その的の名前が「後悔」と知ったら、愕然としない人はいない。
どうしてこんな人生を歩むことになったのか。
やり直せるものなら、やり直したいことだらけ。
でも命を運ぶ時の矢は、ブーメランのようには戻ってくれない。
過ぎ去ったことは、忘れることでしか前に進めない。
終点の先に、天国や極楽があると思うから、人は安心して先に進めるのだ。
あるいは生まれ変わって、やり直せると思うから、不安なく死に臨める。

 泣きながら ちぎった写真を
 手のひらに つなげてみるの
 悩みなき きのうのほほえみ
 わけもなく にくらしいのよ

 青春の後ろ姿を
 人はみな忘れてしまう
 あの頃のわたしに戻って
 あなたに会いたい
 
  「あの日にかえりたい」 荒井由美

私の終着駅の名は「後悔」で、次の矢への乗り換えはないだろうな。
「あの日に帰りたいなあ」大きなため息をついて、降りるんだろうな。


映画「蝉しぐれ」

2006-07-07 | 日記・エッセイ・コラム’06.

映画「蝉しぐれ」を是非観ろと勧められて、観ることにした。
じつはテレビ版「蝉しぐれ」を観ているから、
そのイメージを残しておきたくて、まだ観るつもりはなかったのだが・・
キャスティングに少し違和感を感じていたのだ。

”美しい”映画だった。
テレビとはまた別の趣の、本当に美しい映画だった。
監督がテレビ版の脚本を書いていた人のようだから、
映画という2時間の枠のなかで、テレビとは違う表現を、
つまり、何を捨て、何を強調するべきか
よくよく考え抜かれた末の脚本だというのがわかる。

すぐにわかることは、話は前半と後半、
ふたつのクライマックスに向かって進むこと。
前半は冤罪で切腹を命ぜられた父と、
文四郎が最後の対面を許された場面。
後半はおふくが髪を下ろして尼になる前の、
文四郎との最後の別れの場面。
父と子、男と女の別れの場面で、言葉が失われてしまう。
「言葉にならぬ思ひ」それを表現して見せることが、
この映画の最大のテーマだったのではないだろうか。
言い残したいこと、聞いておきたいことはいっぱいあるのに、
それぞれの万感の思ひは、しかし胸に詰まって言葉にならない。
そんな言葉にならない思いを俳優は身体で、
あるいは微妙な動きで表現しなければならないのだが、
4人の俳優の演技が見事なのだ!

藤沢周平の作品を特徴づける言葉のひとつに
「情愛」があると思うのだが、
「言葉にならぬ思ひ」こそがそれなのではないだろうか。
人はだれでも経験があると思うが、
万感胸に迫るときには、言葉が出てこないものだ。
そんな劇的な場面でなくても、
自分の思いを伝え切れず、歯がゆい思いをしているものだ。
しかし言葉はなくても、その思いは身体のちょっとした動きに、
顔に限らず身体の表情として表れ、人は気づいてくれるものだ。
「情愛」とはそういうデリケートな表情に気づき合うことだ。
文四郎とおふくの最後の別れのシーン、
ここではわずかな会話が交わされるだけだが、
そのことでかえって濃密なラブシーンが表現されている。

観終わって、何故か坂口安吾の「故郷は語ることなし」が浮かんできた。
この言葉を刻んだ石碑が、母校・二葉中学の近くの松林に建っていて、
長い間ずっと、不思議な謎の言葉だった。
故郷がわれわれに言葉で何事かを語り掛けてくれるわけではない。
雪を降らせ、花を咲かせ、稲を実らせ・・
変わらぬ四季の移ろいを通して「言葉にならぬ思ひ」で人々を育む故郷。
映画「蝉しぐれ」の風景の美しさが絵葉書的じゃないのは、
人と風土が父と子、夫婦のように一体のものとして在るもの、
それが伝わってくるからだ。

映画ならではのスケール感、全体淡い色調に統一された映像美、
忘れてならないのは、カット割りの上手さ、そして音楽。
本当に”美しい”と思わされた映画だった。

    映画「蝉しぐれ」公式HP http://www.semishigure.jp/


ショパンにひたる時

2006-07-05 | 日記・エッセイ・コラム’06.

穴窯を焚き終えて疲労困憊、
身体はクタクタなのに神経が昂ぶってなかなか眠れない。
そこで好きな音楽で気持ちを落ち着かせようとCDを探す。

こんな時、いわゆる癒し系の音楽はそののっぺら坊の単純さに
かえって苛立ってしまう。
モーツアルトのピアノソナタは、CDをトレイに乗せ掛けて止めた。
「どう?これ面白いだろう?」といった具合に、
目まぐるしく繰り出される斬新なアイデア、
その才気の煌きが面白すぎて、
疲れてリラックスしたい耳には煩さすぎる気がした。

そうして選び、このひと月ひたすら聴いたのがショパン。
それもアフェナシエフのマズルカ集とノクターン集だけを
飽きずに繰り返し聴いていた。

クラシック音楽を聴き始めた若いころ、
つまり肩いからせて硬派を気取っていたいころ、
ショパンは聴くべき音楽ではないという、偏見に固まっていた。
ロマンチックで女々しい、軟派な音楽として軽視していた。
ルービンシュタインのショパンを愛聴している先輩がいて、
何かと世話になっていながら、そのことで女々しい人なのかと訝っていた。
もうその人はいない。

ショパンの音楽を見直し、CDを買うようになったのは、
だいぶ経ってからだが、それでもワルツやポロネーズを
積極的に聴きたいと思うことはほとんどない中、
マズルカとノクターンは別格な音楽として、
折にふれ聴いてきた。

アフェナシエフのマズルカ集はショパン像を一変するインパクトがあった。
極端に遅いテンポで弾かれるショパンは、これがあの華麗で
ピアニスティックなショパンの曲とは思えぬほど暗くて重い。
指先で次の音を探りながらたどたどしく進む、そんな感じだ。
ところがその遅いテンポが「ノスタルジック」と形容される
ショパンの音楽の深いところに触れさせてくれる。
身体に染み込んだ祖国ポーランドの音楽、
流行していただろう音楽や他国の憧れの音楽を
「音が音を呼び出す」ように丹念に拾い上げていく作業。
マズルカ集の音はショパンの記憶の音の召喚なのだろう。
そんな風に聴こえる。

「ニヒリスト・ショパン」・・
昔読んだ評論で誰かが書いていたのを思い出す。
ショパンは聴衆を信じてはいなかったのだと・・
叙情的で甘く切なくロマンチックなメロディーと華麗な指さばき、
それがサロンで持て囃されてはいるが・・
「誰も私の音楽をわかっていない」

聴衆を信じていないニヒリストの音楽を聴く態度は、
信じられていない聴き手と自覚したニヒルな聴き方しかない。
アファナシエフのショパンを聴いていると、
ショパンが深く降りて来る感じがする。
そして心を落ち着かせてくれる。

  ショパン:マズルカ集、ノクターン集 〔DENON〕
    ピアノ:ヴァレリー・アファナシエフ


ライスカレーライス

2006-06-23 | 日記・エッセイ・コラム’06.

ラーメンの話題の続きです。

ラーメンだけじゃ腹がふくれないという、
育ち盛りのあるいは体育会系の若者が、
ラーメンにプラス餃子、炒飯、ライスを組み合わせるのは、
ごくフツーのことですが、しかしこれができるのは、
財布にゆとりのある恵まれた若者であって、
親元を離れ、親の身を削る仕送りで暮らす身ともなると、
そんな贅沢は許されない状況もママあるものです。
とりあえず腹一杯食いたい!・・しかし切り詰めないといけない連中にとって、
ラーメン専門店の高いラーメンを食べるお金で、
ラーメン餃子やチャーラー(炒飯ラーメン)が食べられるのです。
さらに切羽詰まると、腹持ちの悪いラーメンはやめてとにかく「米」です。
そうして編み出されたのがライスカレーライス」や「炒飯ライス」
一皿分のカレーを二人分のライスに振り分けて食べるのです。
炒飯をおかずにライスを食べる。炒飯にはスープも付いているし・・
貧しさが産んだ知恵というやつですね。
それでも贅沢だという状況にまで陥ると、
チンご飯にソースかマヨネーズをかける。

しかしこんな貧乏生活が続けられるのは、彼らに夢があればこそです。
いつかはこの貧乏から抜け出してみせる、そんな自信と希望が支えです。
芸人、ミュージシャン、漫画家、年季のいる職人、アーティスト・・志望の若者達。
しかしその多くの若者は、いつか空腹に負けて、夢を諦めてしまいます。
少し抜け出た才能と、幸運と、支え続けてくれる人のいる極々わずかな者だけが、
夢のかけらを掴むことができるのです。

貧しき者に幸いあれ。


「ことば」このアイマイなもの

2006-05-11 | 日記・エッセイ・コラム’06.

5.7の「イジワルなメール」は、チョッとしたメールのやり取りから、
たとえれば、苗木を大樹に見せかけた類いの、作り話だが、
あらためて人とのコミュニケーションの難しさを考えるキッカケになった。

女の「ほのめかし」「虫食い文」には泣かされることが多い。
特に肝心な部分に限って思わせぶりに「ほのめかす」から、
後になってから「なあんだ、そういうことだったのか」と
思い知らされ、バツの悪い思いをさせられることも少なくない。
だから女と話すときは、よくよく言外に隠された
「本当に言いたいこと」を探りながら話すようにしないといけない。
まづは「女の言葉は真に受けない」ことだ。

ほどなくバレるような事を、何故もったいぶって秘密めかすのか、
本当に女の心は不可解としか言いようがないものだ。
「ホントはこんな顔でした!」
化粧を落とすまでは、素顔は晒せない心理と同じなのか?
・・・と言ったら刺されるか。

実はどうもこの「ほのめかし」「虫食い文」というのが、
コミュニケーションの難しさ、言葉の本質に思えてならない。
「ほのめかし」の裏の真実を探り当てる分析力。
「虫食い文」の□□□の中に、筋の通った単語なり文章を埋めていく推理力。
とどのつまり、コミュニケーションを成り立たせるのはお互いの「想像力」だ。
「ほのめかし」と「虫食い文」をいかに埋めるかの創造的想像力。
それを頼りに理解に近づこうとするのだが、しかしこの創造的想像力というのが、
個人の癖、特有のバイアスの掛かったものだから、
補完した文章が、相手の意図=期待される正解とは必ずしも一致するわけでもなく、
すれ違いも多く、行き過ぎれば妄想に走る危険もある。

理解したつもりの誤解
答えは概ね合っていればいいのだ。
誤解が新しい何かを生み出す創造的な原動力になることがあるし、
逆に言葉を数学のように厳密で論理的に使おうとすれば、
創造的想像力を奪う事にもなりかねない。
たとえば「犬」という単語ひとつとっても、
十人いれば十人がそれぞれのイメージを思い浮かべるはずだ。
言葉はそのくらい曖昧なものだ。
理解し合ったとか、通じるというのは、
私の言葉の不足を、相手は創造的好意的に補完し、
「気持ちを察してくれた」という分かり合ってる気分に過ぎないのだ。
流行語的合言葉で仲間の気分を共有するなどは、その一番のん気な例だろうか。

ここまで書いてきて、ふとある事に思い当たった。
五七五の俳句というのは、虫食い文を逆手にとった遊びじゃないのか?
論理的整合性ある内容を伝えるのとは反対の、
言葉のあいまいさを逆手にとって「気分」を表す芸なのだ、と気づいた。
五七五にまで切り詰めたその前後の虫食いを、
相手の創造的想像力に委ねるという言葉遊びなのだ。
発句を受けて、二の句三の句と場面を転換し、色合いを変えていって、
ズレの妙を楽しむ連句。

「MDありますか」
これはただ、アルかナイかを問うだけの道具の言葉だった。
それではツマラナイ。
私はこれをひとつの虫食い文、あるいは発句と見立てて、
二の句を継いでみたのだ。
しかし彼女はそんな私の遊びに付き合うつもりはないから返句がない。
仕方なく私はその後の句もひとりで考えて遊ぶしかなかった。
「イジワルなメール」はその挙げ句という、そんなところだ。
いつものことだ。
彼女に限らず、そんなことばかりだ。
だからこうしてひとり連句をやっている。

言葉というのは、サークルの中では虫食いでも通用する。
むしろ言葉の多いのは批判と受け取られて嫌われる。
こうして腹に収める和の精神、腹芸という寡黙な美学が育ってきた。
一番小さいサークル単位が、愛するふたり。
「愛している」この前後の虫食い部分を想像力豊かに埋められるのは、
ただひとりの相手だけだ。
いや正解を埋めたつもりが、実は美しい誤解だったと後で気づいたりする・・・

句という語の中に、虫食いを表す□が入っている。