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絵空ごと

あることないこと、時事放談から艶話まで・・・

天災は忘れたころに・・

2006-09-01 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「て」4
『天災は忘れたころにやって来る』

謂われるところの温暖化のせいなのか、
どうも近ごろ地球の身悶えが頻繁かつ激しいようだ。
地震・洪水・旱魃・寒波・・・と
世界各地から災害のニュースの伝えられない日がない。
「天災は忘れる間もなくやってくる」と言い改めたいくらいだ。
これではまるで世界中が災害を蒙っているように思えてしまうが、
これはひとつは情報網が張り巡らされ、逐一伝えられるからで、
「一定の区域」だけみれば、そこだけが毎年毎年集中的に
痛みつけられているわけではない。
そんなところでは、人は落ち着いて住めずに逃げ出してしまうだろう。

いったいひとりの人が、元も子もなくすほどの災害に遭うなんて、
一生に一度あるかないかだろう。
今の中国の旱魃も50年(半世紀)に一度の規模といわれる。
「長いこと生きてきたけど、こんな目に遭ったのははじめてだぁ」
ニュースでよく、こんな風に答えている年寄りがいる。
そんなに度々、災害や事故に遭うもんじゃない、と
たいがいの人が思っている。
また阪神淡路、中越地震のように、壊滅的な打撃を受けても、
まあこの先100年200年はこれほどの地震はあるまい、
と思うから巨費を投じた復興に乗り出せるので、
これが4・5年したらまた来るかもしれないと思ったら、
やれるものではない。

来るか来るかと待ち構えている所へは、災難は来ないものである。
オレに当たるわけないよなと、宝くじと同じつもりで
タカをくくっているヤツのところに、吸い寄せられるように来るのである。
しかも不運は偏って起きるわけじゃなく、確率であるからして、
全ての人間に一通り当たるようにはなっている程度に、平等である。

災害のニュースをみて「大変だなあ」といっとき同情しても、
テレビのスイッチを切ってしまえば、ケロリと忘れ、
「防災訓練」のニュースをみても、
「ご苦労さん」と他人事として眺めているだけだ。
自分の身に起きたのではない災害は、
所詮ヴァーチャルな世界での出来事でしかない。

人間というものはつくづくのん気にできているものだと思う。
心配性で悲観的なことばかり考えていては、命が縮む。
ツライことは忘れるような仕組みになっているから、
生きていけるようなもので、
来たら来たとき、クヨクヨしたって仕方がない。
山火事で草木が全部焼け払われてしまっても、
すぐまた緑に蔽われるじゃないか。
それと同じくらい、人間という生物は楽天的かつたくましいのである。

私はこれまで新潟大火を間近に見、新潟地震を経験しているが、
被害の悲惨や混乱は忘れてしまって、
新たに生まれ変わっていく街の姿の方が印象深い。


かゆい夏

2006-08-27 | 日記・エッセイ・コラム’06.

自然豊かな環境の中に住んでいると、
「何よりの贅沢ですね」と言われることが多いが、
人の手の管理が届いていない場所でもあるという事で、
快適なことばかりではないのである。
蛍がいるような水清き渓流はまた、アブやブヨもいるのである。
藪に囲まれたわが住居であるから、蚊やダニからは逃れなれないのである。

柔肌のワタクシ、夏は蚊との壮絶な戦いの時期でもある。
暑くて眠りにつけないところに、プーンと鳴る蚊の羽音。
すでに足の指などを刺されて、生かしておいてなるものか!
退治するまでまた一汗かくことになる。
中には重くて飛べなくなるまで血を吸ったヤツを潰した時、
痒みと相俟って、その血の量に怒りが増すのである。

いったい蚊のやつ等にとって、痒みを残すのには
どんな意味があるというのか?
痒みさえなければ、蚊の100匹や200匹が群がって吸う血くらい、
喜んで献血してやるよってなもんです。
それなのに痒みを残していくってのは、蚊どもの生存戦略において、
特に対人間に関しては、はなはだマズイはずではないか。
牛や馬、ブタといった家畜たちは、鈍感に出来ているのか、
いくら蚊に刺されたって、ジタバタ悶える姿など見たことがないが、
我々人間はそうはいかない。
掻いて掻いて、気持ちよくなるくらい掻きむしらずにいられない。
そうなのだ!蚊が人間に好意的に受け入れられる為には、
痒み物質を残すんじゃなくて、最初から快感物質を残すべきなのだ!
そうすれば、蚊取り線香やら殺虫剤やらで撃退されることなく、
人類の愛すべきペットとして繁栄できるではないか。
身体中に蚊を群がらせて、好きなだけ血を吸わせ、
それで気持ちよくなれるなら、寝苦しい熱帯夜も快適になろうというものだ。

蚊の遺伝子操作で、痒み物質を快感物質に変えることはできないものか。
あるいは人の体質を、痒みを快感に感じるように造りかえるとか・・・

昔、犯罪容疑者に拷問をして無理やり白状させることもあったようだが、
手っ取り早く、生爪を剥ぐ、手足の甲に五寸釘を打ち付ける、
尖った波板の上に座らせて石を抱かせる、
三角馬に跨らせて重石をかける、天井からぶら下げて鞭打つ、
あるいは水桶に顔を突っ込んで窒息寸前に追い込むなど
痛め責めの荒業が一般的であるが、中に痒み責めなるものがあったらしい。
箱ないし袋に人を手を拘束した状態で入れて、そこに蚊や蟻を放つのである。
これは堪らない。想像しただけで体が痒くなる。

どうも様子がオカシイ亭主。浮気をしているに違いない。
それならばと、カミさんいたずらを仕掛ける。
亭主が寝入っている隙に、パンツの中に
犬についていたダニを入れたのである。
ダニの痒みは蚊の比ではない。しかもいつまでも後を引く。
もう掻かずにいられない。ボリボリ掻く。
人前でそんなところを掻くわけにいかず、
トイレに駆け込んで掻く。
「いやーー、チョッとお腹を壊したみたいで・・」
この箇所は厄介なことに、キンカンとかメンソール系が使えない。
タマなどに塗ったら縮み上がるほど痛いのである。
ひたすら掻くしかないが、掻けば掻くほど痒くなる。
本人はダニと思わず、悪い病気を感染されたと早合点して焦る焦る。
ソレと知らず受けた拷問で、亭主白状におよび
以後おとなしくなったかどうか・・・・

夢を見た。
頭から袋を被せられ、その中に唸るほどの蚊を放りこまれる。
たちまち蚊の餌食である。
口を開けることは出来ず、鼻の中にも入ってきて息もできない。
しっかり閉じた目蓋も唇も、あっという間に膨れ上がる。
顔中肥満した月面状態なのがわかる。
痒い!焼けるように痒い!しかし掻くことが出来ない!
我慢の限界・・ワーーッと叫んで目が覚める。
恐る恐る鏡をみると、人間の顔があった。

残暑は厳しいものの、朝晩はヒンヤリとするようになった。


《標本箱の少年》

2006-08-20 | 日記・エッセイ・コラム’06.

ジョンベネちゃん殺害犯が捕まったというニュース、
犯人と断定するには、いくつか疑問の点があるらしいが、
いかにもと思わせる経歴ではある。

〈標本箱の少年〉
このニュースから、こんな言葉の断片を思い出した。
どこにあった言葉だったかは、思いだせない。
足穂でないのは確か・・読んだことがないのだから。

少年あるいは少女というのは、普通の大人のいる世界とは、
明らかに違う異界に住む生き物といえるだろう。
映画〈ミツバチのささやき〉では、天使と怪物の仲間として描かれていた。
しかし、人間の少年・少女は、ずっとその世界の住人でいることはできない。
なぜなら成長して大人になってしまうからだ。
少年・少女の愛好家にとって、これは清らかな魂が汚らわしい肉体持つことで、
怒りをおぼえるくらい、たまらなく悲しいことなのだ。

ルイス・キャロルは少女の永遠を写真に閉じ込め、「アリス」を生み出した。
しかし芸術的な創造力を持たず、抑制が効かない者が、
少女に感じる天使のような永遠性を得ようとする最後の手段は、
殺して、成長を止める以外にないのだろう。
できれば蝶や甲虫たちのように、この今の美しい姿を
そのまま保存したいに違いないのだ。

彼らにとって少年や少女というのは、
言葉という繭から羽化した魂のようなものなのだろう。
成長して大人になるのではなくて、
言葉という繭に身を固めた大人から、羽化したもの。
できるならその美しさを、標本箱に並べて
いつまでも朽ち果てぬ姿のまま、とどめておきたいのだ。

大人になんかなりたくない思いを振り切って、
仕方なく我々は大人になっていく。
大人にはなっても、身体のどこかに
松脂に閉じ込められて石になった虫のように、
決して羽化することのない
少年の時の、少女の時の無垢な魂が眠っている。
それが時々共振して鳴る。


出る杭は打たれる

2006-08-18 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「て」3
『出る杭は打たれる』

人は打たれて強くなるのである。
血気盛んな若い時は、過剰なほどの自信と自惚れにそそのかされ、
しかも世間を甘く見がちなこともあって、何かと目立ちたがるのである。
それも若さの特権、失敗も経験と様子を見ていることもあるが、
行き過ぎだと思うときには、ガツンと叩いて置くのも
上に立つ者の仕事である。

同じレベルの中から、ひとり抜け出ると、
この場合は残された者の間に、ヤッカミつまり嫉妬の感情が生まれ、
足を引っ張るなど、陰湿なイジメに遭うことが多い。
一人の突出がチームの和を乱すと見なされる場合は、
個よりも組織優先であるから、
上に立つ者としては、ソイツを押さえ付けにかかるだろう。

このような経験を積んで人間ずる賢くなると、
頭を出すことが決して得策ではないと悟り、
代わりに叩かれる杭を用意するようになる。
また杭というのは、ひとつを叩いていると、
その振動で近くの軽いものが浮いてくることがある。
かのホリエモンや村上某もいってみれば、
そういう裏で高笑いしている大物の生贄なのかもしれない。
本当のワルは決して表に頭を出したりしないものだ。


絵に描いた餅

2006-07-25 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「え」2
『絵に描いた餅』

「絵に描いた餅」なんか食えんじゃないか!
そういって頭から否定する現実主義者は多い。
実現性の薄い、机上の空論でかたづける。
ぼんやりと空想に浸ってないで「足元を見つめろ」が、
現実主義者のベタなセリフである。
そのくせ『思いは実現する』なんてタイトルの通俗本を
熱心に勧めたりするから、ワケガワカラン。

その『思い』こそが「絵に描いた餅」のことなのに・・・
言葉を変えれば、理想・想像力・幻視・夢・空想・・です。
「いつかそうなりたい姿」のことです。
「先見的ヴィジョン」とわざわざムズカシク言いたいところです。
「食べたい餅をまず描いてみる」というこの能力こそが、
人間をほかの生き物と分ける、最大の特徴といってもいい。
記憶が過去なのに対して、将来に向けての予測能力。
哲学用語なら「投企」というやつ。
人間だけが時間の観念を持ち、死の観念を持つというのは
人間がそういう存在の仕方をしているからです。

目の前に本物の餅があるのに、わざわざ餅を描いてリアルを求める。
何度も描き直して、リアルに近づかないと満足しない。
リアルというのは本物・具体的なもの・現実的なものであるより、理想のことです。
人間というのはリアル=イデアを被せないと、本物を本物と見なせない変な生き物です。
言葉の整理をすると、リアル=理想=真実。事実や現実を超えたものということ。
わかりやすいので恋愛を例に持ち出すと、
相手を「好き」というとき、相手そのものが好きなんじゃなくて、
自分が理想とする、ステキな姿に描いた相手を好きなのです。
私の好きな理想の相手の他に、ホンモノの相手は私にお構いなくいる。
だからわからない。(お前の言ってることがわからない!?)
理想の相手、理想の結婚・・すべては絵に描いた餅。
人が他人を、「ありのままに受け入れる」ということは、
絶望的に不可能なことかもしれない。

ヒトには、絵に描いた餅に、本物以上のリアリティーを実感できる能力があるらしい。
自然の生態モノのドキュメントを見ていると、
動物がそれぞれ独自に発達させてきた感覚器官の精妙さにはいつも驚かされる。
ではヒトは何を発達させてきたかといえば、脳すなわち意識の拡大によって、
時間感覚を過去そして未来に延長し、コミュニケーション能力の強化に努めてきた。
自分の思いを時間的と空間的に延長する能力、すなわち想像力。
死への不安もこの能力のせいだし、思いやりもこの能力のおかげです。
生き物だから飯を食わなきゃ死んでしまいますが、
想像力=イマジネーションを働かせて「絵に描いた餅」を実感できない生き方では、
人間の生き方とは言えないのです。
それが人間の創造力というものです。