新釈いろは歌留多「て」4
『天災は忘れたころにやって来る』
謂われるところの温暖化のせいなのか、
どうも近ごろ地球の身悶えが頻繁かつ激しいようだ。
地震・洪水・旱魃・寒波・・・と
世界各地から災害のニュースの伝えられない日がない。
「天災は忘れる間もなくやってくる」と言い改めたいくらいだ。
これではまるで世界中が災害を蒙っているように思えてしまうが、
これはひとつは情報網が張り巡らされ、逐一伝えられるからで、
「一定の区域」だけみれば、そこだけが毎年毎年集中的に
痛みつけられているわけではない。
そんなところでは、人は落ち着いて住めずに逃げ出してしまうだろう。
いったいひとりの人が、元も子もなくすほどの災害に遭うなんて、
一生に一度あるかないかだろう。
今の中国の旱魃も50年(半世紀)に一度の規模といわれる。
「長いこと生きてきたけど、こんな目に遭ったのははじめてだぁ」
ニュースでよく、こんな風に答えている年寄りがいる。
そんなに度々、災害や事故に遭うもんじゃない、と
たいがいの人が思っている。
また阪神淡路、中越地震のように、壊滅的な打撃を受けても、
まあこの先100年200年はこれほどの地震はあるまい、
と思うから巨費を投じた復興に乗り出せるので、
これが4・5年したらまた来るかもしれないと思ったら、
やれるものではない。
来るか来るかと待ち構えている所へは、災難は来ないものである。
オレに当たるわけないよなと、宝くじと同じつもりで
タカをくくっているヤツのところに、吸い寄せられるように来るのである。
しかも不運は偏って起きるわけじゃなく、確率であるからして、
全ての人間に一通り当たるようにはなっている程度に、平等である。
災害のニュースをみて「大変だなあ」といっとき同情しても、
テレビのスイッチを切ってしまえば、ケロリと忘れ、
「防災訓練」のニュースをみても、
「ご苦労さん」と他人事として眺めているだけだ。
自分の身に起きたのではない災害は、
所詮ヴァーチャルな世界での出来事でしかない。
人間というものはつくづくのん気にできているものだと思う。
心配性で悲観的なことばかり考えていては、命が縮む。
ツライことは忘れるような仕組みになっているから、
生きていけるようなもので、
来たら来たとき、クヨクヨしたって仕方がない。
山火事で草木が全部焼け払われてしまっても、
すぐまた緑に蔽われるじゃないか。
それと同じくらい、人間という生物は楽天的かつたくましいのである。
私はこれまで新潟大火を間近に見、新潟地震を経験しているが、
被害の悲惨や混乱は忘れてしまって、
新たに生まれ変わっていく街の姿の方が印象深い。