このタイトル、ちりとてファンならわかってくれるでしょうか。
”小次郎こ?”
若狭地方の方言だと”小次郎か?”がこうなるんですね。
ドラマの中で小浜が舞台になると、よく耳にしました。
2chの「ちりとてちん」の掲示板、
あのちりとてワールドから去りがたい人がいっぱいいるようで、
番組終了10ヶ月経った今も活発に続いています。
私も去りがたい人間のひとりで、
この掲示板には時々、「なるほどねえ」って感心するような指摘や
関連情報があるものだから、チェックを怠るわけにいかないのです。
何度も何度も見ては噛みしめる「スルメ」ドラマでありながら、
どうも歯にはさまり、飲み込みにくいキャラがひとりいるんです。
それが京本政樹演じる、喜代美の叔父さん・小次郎。
いわば京本版「フーテンの寅」さんで、本人も役者として転換のキッカケになった、
当たり役というくらいだから、なくてはならないキャラではあるんですが・・・
でも私は当初、違和感を覚えていて、むしろ強烈な印象を受けたのは、
「フーテンの小次郎」じゃなくて、落語の再現寸劇のほうだったんですね。
「算段の平兵衛」の平兵衛は本領発揮のカッコイイワル、
しかし「辻占茶屋」の源やんはとても”しょうもない男”には見えない。
やはり京本政樹は『四谷怪談』の伊右エ門といった
色悪こそが似合うんだがなあ、って思ったものでした。
色悪・・・表面は二枚目であるが、色事を演じながら女を裏切る悪人
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_a/dic_a_51.html
あるいは、「算段の平兵衛」に惚れ、”女がかってに貢いでくる”四草こそ、
色悪で設定しても面白いんですが、
しかし「ちりとてちん」は健全な朝のホームドラマですから、
色悪なんてケバケバしい設定を望むほうがムリってものですけどね。
さて、色悪を演じさせたい京本政樹の「フーテンの小次郎」はといえば、
何かというと、いい歳をして
”どうせわたしはこの家の貧乏神ですよーーだ”と言ってすねる、
こどものような独身男。
(・・あのフーテンの寅さんも、いってみればこどもでした)
仮説・・小次郎はこども(のまま)である
あの躾に厳しいはずの小梅さんが、横を向いて食事をする息子を叱りもしない。
あの見苦しい姿を放っておくなんて、いかに甘く甘く育ててきたかわかろうってものです。
”ワシにはどうして正の字をつけてくれなかったんだ。
せめて小じゃなくて梅をつけてくれなかったんだ”って、
草若師匠相手にグチっていましたが、
梅次郎じゃいかにも遊び人そのまんまじゃないか!
つまり小次郎の小は「可愛い」の意味の小なんですね。
若く美しき才女・奈津子さんが、よりによってフーテンの中年男に惹かれたのは、
小次郎のこどものような純なところらしいんですが・・・
それほど親の愛情を受けながら、なぜまっとうな仕事につかず、
フーテンになってしまったのか?
私思うに、少年・小次郎は、家の中での自分の位置に言い知れない浮遊感、
疎外感がふくらんで行ったんじゃないかって思えるのです。
可愛がられていることはわかっていても、親の期待は
跡継ぎとしての兄・正典に一心に集まっていることは肌で感じたろうし、
学業もおそらく思わしくない。
自由にさせてもらうことが、逆にさして期待もされない希薄な存在に思えてしまう。
兄への劣等感にいじけず、自分なりに力になろうとする努力もいつも裏目にでる不器用さ。
本来優しくて思いやりのある子なのに、その思いが通じない悲しさから、
親の愛を感じながらも、浮遊感、疎外感が大きくなっていく。
その反動が派手な服装になり、家を捨てたわけでもない中途半端な旅人に駆り立てる。
仮説・・小次郎は「わらしべ長者」である
それを考えるために、小次郎がドラマの中で担う重要なシーンを挙げてみると、
1、大漁旗をふって喜代美(若狭)を応援する
「お母ちゃんのようになりたくない」といって、大阪へ出る時と
常打ち小屋を建てることになって、寄付金を届ける時。
2、破門になって行方知らずになった草々の居場所を知らせる
3、宝くじを当て、どうみても不釣合いな美女を得てしまう
元手の一本の藁を次々に交換していって、
最後は大きな屋敷まで手に入れてしまう「わらしべ長者」
ガラクタにしか見えないものを、お宝といって集め、
一攫千金を描いた落語「はてなの茶碗」に激しく反応する、
地に足がつかない夢見る男・小次郎。
だがなぜか幸せの運がついている。
仮説・・小次郎の象徴するものは旅芸人である
家の中での浮遊感は、ふるさとへの疎外感でもあって、それが放浪へと駆り立てる。
しかし自分のお宝を道端や神社の境内で売るにしたって、しかるべき元締めの許可をとり、
その世界に筋を通しておかなきゃならない。
つまりは非定住者の仲間として認めてもらわなきゃならない。
昔、住むべき土地を持たず、各地を転々としてモノを売り、芸を売る漂白の民がいて、
今のように通信網が発達していなかった時代、
モノと情報を媒介するのはそういったモノ売りや芸能の民だったのですが、
寅さんのように、神社の境内でモノを売る香具師や
門かどを回って言祝ぐ(幸せを呼ぶ狂言)万歳師もそういった仲間で、
小次郎のやっていることは、まさにそれじゃないか!
小次郎を漂白の芸能の民の象徴とみなせば、
喜代美(若狭)を応援するのは芸能の民の仕事だし、
寄付を集めて届けるのは勧進聖(かんじんひじり)がやったこと。
そして旅の民のネットワークが各地の情報を交換し、土地土地にもたらしていた。
さらにいえば、小次郎は若狭遊女の末裔・小梅さんの可愛いこどもに
ふさわしい生き方をしているということができるんじゃないか。
小次郎というのは、芸能を生業とする民、すなわち
人と人の間を媒介するメディアを象徴している存在といえるんじゃないか。
しかしこの漂白の小次郎もついに奈津子さんという「ふるさと」に
定住することになるんですが、
この奈津子さんというのも、どうやら「ふるさと」への疎外感に
悩んで生きてきた人のようなのです。