新釈いろは歌留多「し」3
『色即是空 空即是色』
昔々の青二才の頃、「般若心経」ぐらい諳んじておくと、何かと便利だろうと、
カセットテープを買って聞いてみたが、三日坊主で終わった。
わずか二百数十文字、これひとつ理解すれば、「仏教のエッセンスは分かる」と、
恐れを知らぬ勢いでいくつか関連図書をかじってみた。
やたら勿体ぶった哲学的解釈から、量子物理学の成果と結びつけた解釈まで、
面白いといえば面白いが、結局何が分かったかといえば、
アインシュタインのシンプルな数式のようにはいかないことだけがわかった。
痛棒覚悟で言えば、「白痴美」だと、今は一人合点している。
つまり、神の相貌をした美貌の人が、
憂いを帯びた眼差しで物思いに耽っているのをみて、
さぞ深遠な想いを巡らせているのだろうと、心打たれていると、
実はただ「ぼんやり」しているだけだった、というようなもので、
読みようによってはどこまでも深読みができる、いわば
「何かありそでなさそ」な思わせぶりなお経なんだと、納得している。
色は実、空は虚。つまり虚と実あるいは陰と陽で済むものを、
わざわざ男女のくんずほぐれつを表す「色」を使うのは何故か?
そこにあえて引っ掛かって、絵空ごと流「こんにゃく問答」を試みる。
出家して僧になった若者にとって、修行の最大の妨げといえば、
意思に関わらず、体内から鬱勃と湧いてくるあの欲情である。
卑しくも仏に仕えんとする者の自覚として、
煩悩を滅すべく、苛酷な禁欲を自らに課して、
悪魔の誘惑と果敢に戦おうと意気込むのであるが、
無駄な抵抗よ、とあざ笑うかのように厄介棒が、
親の心子知らずで、行儀の悪い振る舞いに及ぶのである。
堪らず、人知れず、シコシコするんであるが、そのときの
罪悪感をともなう後味の悪さったらない。
「こんなことでは、とても立派な僧にはなれない」
浅はかな快感に負けて、激しい自己嫌悪に陥り、
虚しさに襲われるのである。
しかし気を取り直して、禁欲の苦行に励んでみるが、
またしばらくすると、悪戯小僧が誘惑してくる。
いたちごっこである。
このように僧の修行というのは、学問を修めることと並んで、
内奥から湧き出る情欲・肉欲・色欲・愛欲を清め、禊ぎをすることに
ほかならないのである。
いや全く、この道ばかりは、学問を積んでもどうにもならぬ。
長年の業績を見込まれて、政府の諮問会議の座長になるような人物さえ、
クラブのママを官舎に連れ込んで二号宅気分なんて愚行に走らす
迷いの道なのである。
仏さまは、人間が色欲(男色女色)から解脱することがいかに至難の業か、
とっくにお見通しなんである。
「色即是空 空即是色」
”まあ必要以上に罪悪感を持たずに、
溺れない程度に身をゆだねて、勉強なさい”
コト済んだ直後の男の虚脱感は、女には絶対わからない生理であって、
まだ余韻に浸っていたい女を残して、サッサと離れる手合いが少なくない。
何であんなにのぼせたのかと、己が性急さにウンザリして、
心も身も急速に萎むのである。
・・・でもうそんな虚しい行為などに及ぶまいと、
色欲・愛欲から解脱するのかといえば、
しばらくすると、いつものように捕らわれるのである。
”愚かなりわが性”
東洋思想の特徴ともいえる空観・無の思想というのが、
実は男の生理が産んだ思想だ、というのはどうだろう。
あのコト済んでの虚脱感こそが「無」や「空」の元だったというのは?
刹那の快感に向けて男を駆り立てる欲望というのは、
所詮は実体のない妄想じゃないか!
妄想の塊となって突進してみた結果、
実はドン・キホーテと同じだったと気付いたときの落胆。
しかしその妄想(想像力)こそが、
新たな快感を求めてやまない、人の活動の原動力だ。
人間の活動というのは、色と空・陰と陽・虚と実の円環運動なのだ。
それは決して虚しさだけを強調した悲観論的な思想ではない。
ところが日本では「空即是色」が切り捨てられて、
「色即是空」だけが強調されてきた感がある。
”俺の人生は何だったんだろう。
なにやら夢のような気がする。
結局何を残したわけでもなく、
はかなさと虚しさだけが残った”
人の人生は循環しない。再び色には戻らない。
老人の詠嘆が日本の美意識になった。
「侘び」「寂び」こそ日本を象徴する美だと、一応誰でも口にはするが、
実際はそんな悲観論には付き合ってられないから、
色と空を・・・喜んだり悲しんだり、得意になったり落ち込んだり
希望を持ったり絶望したりを行ったり来たりしながら、
たくましく生きているものだ。
新しい年に向けて、実に前向きな締め括りとなった。