goo blog サービス終了のお知らせ 

絵空ごと

あることないこと、時事放談から艶話まで・・・

色即是空 空即是色

2006-12-28 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「し」3
『色即是空 空即是色』

昔々の青二才の頃、「般若心経」ぐらい諳んじておくと、何かと便利だろうと、
カセットテープを買って聞いてみたが、三日坊主で終わった。
わずか二百数十文字、これひとつ理解すれば、「仏教のエッセンスは分かる」と、
恐れを知らぬ勢いでいくつか関連図書をかじってみた。
やたら勿体ぶった哲学的解釈から、量子物理学の成果と結びつけた解釈まで、
面白いといえば面白いが、結局何が分かったかといえば、
アインシュタインのシンプルな数式のようにはいかないことだけがわかった。

痛棒覚悟で言えば、「白痴美」だと、今は一人合点している。
つまり、神の相貌をした美貌の人が、
憂いを帯びた眼差しで物思いに耽っているのをみて、
さぞ深遠な想いを巡らせているのだろうと、心打たれていると、
実はただ「ぼんやり」しているだけだった、というようなもので、
読みようによってはどこまでも深読みができる、いわば
「何かありそでなさそ」な思わせぶりなお経なんだと、納得している。

色は実、空は虚。つまり虚と実あるいは陰と陽で済むものを、
わざわざ男女のくんずほぐれつを表す「色」を使うのは何故か?
そこにあえて引っ掛かって、絵空ごと流「こんにゃく問答」を試みる。

出家して僧になった若者にとって、修行の最大の妨げといえば、
意思に関わらず、体内から鬱勃と湧いてくるあの欲情である。
卑しくも仏に仕えんとする者の自覚として、
煩悩を滅すべく、苛酷な禁欲を自らに課して、
悪魔の誘惑と果敢に戦おうと意気込むのであるが、
無駄な抵抗よ、とあざ笑うかのように厄介棒が、
親の心子知らずで、行儀の悪い振る舞いに及ぶのである。

堪らず、人知れず、シコシコするんであるが、そのときの
罪悪感をともなう後味の悪さったらない。
「こんなことでは、とても立派な僧にはなれない」
浅はかな快感に負けて、激しい自己嫌悪に陥り、
虚しさに襲われるのである。
しかし気を取り直して、禁欲の苦行に励んでみるが、
またしばらくすると、悪戯小僧が誘惑してくる。
いたちごっこである。
このように僧の修行というのは、学問を修めることと並んで、
内奥から湧き出る情欲・肉欲・色欲・愛欲を清め、禊ぎをすることに
ほかならないのである。

いや全く、この道ばかりは、学問を積んでもどうにもならぬ。
長年の業績を見込まれて、政府の諮問会議の座長になるような人物さえ、
クラブのママを官舎に連れ込んで二号宅気分なんて愚行に走らす
迷いの道なのである。

仏さまは、人間が色欲(男色女色)から解脱することがいかに至難の業か、
とっくにお見通しなんである。
「色即是空 空即是色」
”まあ必要以上に罪悪感を持たずに、
 溺れない程度に身をゆだねて、勉強なさい”

コト済んだ直後の男の虚脱感は、女には絶対わからない生理であって、
まだ余韻に浸っていたい女を残して、サッサと離れる手合いが少なくない。
何であんなにのぼせたのかと、己が性急さにウンザリして、
心も身も急速に萎むのである。
・・・でもうそんな虚しい行為などに及ぶまいと、
色欲・愛欲から解脱するのかといえば、
しばらくすると、いつものように捕らわれるのである。
”愚かなりわが性”

東洋思想の特徴ともいえる空観・無の思想というのが、
実は男の生理が産んだ思想だ、というのはどうだろう。
あのコト済んでの虚脱感こそが「無」や「空」の元だったというのは?
刹那の快感に向けて男を駆り立てる欲望というのは、
所詮は実体のない妄想じゃないか!
妄想の塊となって突進してみた結果、
実はドン・キホーテと同じだったと気付いたときの落胆。
しかしその妄想(想像力)こそが、
新たな快感を求めてやまない、人の活動の原動力だ。
人間の活動というのは、色と空・陰と陽・虚と実の円環運動なのだ。
それは決して虚しさだけを強調した悲観論的な思想ではない。

ところが日本では「空即是色」が切り捨てられて、
「色即是空」だけが強調されてきた感がある。
”俺の人生は何だったんだろう。
 なにやら夢のような気がする。
 結局何を残したわけでもなく、
 はかなさと虚しさだけが残った”
人の人生は循環しない。再び色には戻らない。
老人の詠嘆が日本の美意識になった。
「侘び」「寂び」こそ日本を象徴する美だと、一応誰でも口にはするが、
実際はそんな悲観論には付き合ってられないから、
色と空を・・・喜んだり悲しんだり、得意になったり落ち込んだり
希望を持ったり絶望したりを行ったり来たりしながら、
たくましく生きているものだ。

新しい年に向けて、実に前向きな締め括りとなった。


香油のマリア

2006-12-24 | 日記・エッセイ・コラム’06.

12月になると、キリスト教徒でもない私が、
バッハの「マタイ」や「ヨハネ」を聴き、聖書を開く。
ドストエフスキーが、福音書の中で『ルカ Luke』が好きだと知ってから、
ルカを開くことが多い。

その『ルカ』7章に有名な「香油のマリア」の逸話がある。
マリアというが、テキストには罪の女と書かれているだけだが、
罪の女=娼婦マグダラのマリアというのが通説になっている。
そしてこの場面、キリスト教絵画でも数多く描かれてきた。

”するとそのとき、その町で罪の女であったものが、
 パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて
 香油が入れてある石膏のつぼをもってきて、
 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、
 まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい
 そしてその足に接吻して、香油を塗った”
 『ルカ』7章37-38

この場面で面白いのは、
娼婦マグダラのマリアがイエスに塗った香油をめぐっての、
男たちの反応と、それをいさめるイエスの説教だ。
この香油というのが、非常に高価なもので、
それをイエスの為に惜しげもなく使うマリアをみて、
男たちは「それを換金して、貧しい人々に施せる」と、
至ってごもっともな意見を述べる。
私もその場にいたら、男たちの仲間だ。
ところがそんな合理的な考えを、以外にもイエスは否定するのだ。

”「ある金貸しに金を借りた人がふたりいたが、
 ひとりは500デナリ、もうひとりは50デナイを借りていた。  
 ところが、返すことができなかったので、彼はふたりともゆるしてやった。
 このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」
 シモンが答えて言った。
 「多く許してもらったほうだと思います」
 イエスが言われた。
 「あなたの判断は正しい」”
  『ルカ』7章41-43

男の合理的な言い分に対して、イエスは実に巧みに、
男に理解しやすい比喩で納得させておいてから、
マリアの行為は合理的な精神とは異質の、別次元の行為なのだと説く。
それは合理的な精神、あるいは理性を超えた愛なのだと説く。

驚くのは、イエスが男から見れば不合理で、分別のない、
女の愚かしい考えや行為に深い理解を示すことだ。
『ルカ』を書いた作者達の中に何人か女性がいたんじゃないかと、
想像したくなるほど、女の心理に通じているのだ。
今持っているありったけのモノも心も、すべて投げ打って捧げる、
そんな行動は、やけっぱちの賭けでもなければ、男にはできない。
男の論理、女の情をふたつとも承知した上でイエスは、
愛は理性あるいは功利を超えたものだと説く。

イエスの教団には、他の教団ではありえないほど
女性は多かったといわれているが、
それはイエスが甘ったるい愛の思想を振りまいたからでないのは、
この香油のマリアの逸話にも伺われて、、
女の狂気をも許すイエスの過激な寛容が、女心を捕らえたのではないか。
しかしそれは男からみれば、危険な世間を撹乱させる思想に違いないのだ。

”多く愛する者は、多く許さるるなり” ルカ-7章-47節
Her sins, which are many, are forgiven; for she loved much:

これもまた法律を超えた過激な思想にちがいない。

男が理性を超えて、女の愛を受け止めることは出来るのだろうか?
男がイエスになることは出来るのだろうか?
男と女の溝は深い。


親しき仲にも前戯あり

2006-12-21 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「し」1
『親しき仲にも礼儀あり』

「親しき仲にも前戯あり」
「親しき仲にも演技あり」
この二つはセットで意味をなすのである。

関係が親しさを増すと、どうしても狎れが生まれてくる。
しかし人間というのはどんなに親しくなっても、そこには自ずから
節度、気遣い、けじめというものがあって、
それがおろそかになっては、人間関係が崩れてしまう。
これは夫婦とて同じ事。
いやむしろ、節度無き狎れに陥りやすい夫婦こそ心しないといけないのである。
・・が問題は男つまり夫のほうなんである。
狎れというより、妻を自分の性欲処理の道具としてしか
扱っていない夫が多すぎるようなのである!!!

これはある高学歴夫婦へのアンケート調査によるデータである。
(こういうものは、調査の方法によって、かなりの差がでるものだと
 一応心に留めておいていただきたい)

「どちらからセックスを求めることが多いですか?」 
「男から」がほぼ90%

「いつも満足していますか?」
 男は64%が満足 女は45%

「快感を感じない時に、あなた(妻)は夫にそれを訴えますか?」
「感じている演技をする」25%
「不満だと思わない」 28%
「黙って我慢する」 38%
「不満をはっきり言う」 8%

さらに30歳から40歳の男の、セックスに費やす平均時間約15分!!!

うーーーむと唸るほど恐るべき悲惨なデータではないのか?
手紙に喩えると、「前略、中略、お詫び申しあげます かしこ」じゃないか。
相手が妻だからなのか?妻でなければまた、全然違う数字が出るだろうか?

ひと言でいえば、狎れによる男の手抜き、と言うべきか。
沈黙と演技で夫に黙々と従うデスパレート(絶望した)な妻たちに、
では夫はどう応えればよいのだろうか?
そのひとつの答えが掲出の二つの警句である。
夫に満足感を与えようと健気に演技する妻には、
夫も演技あるいは演出で応えるのである。

愛は脆いものだ。だから懸命に繕わなければならない。


地震・雷・家事する親父

2006-12-19 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「し」1
「地震・雷・家事・親父」

今朝地震があって、弱いものだったが反射的に足を踏ん張る。
先日の「雪おこし」の雷、毎年の事ながら身がすくむ。
火事、長年築き上げてきた財産が、見る間に灰になる。
この三つの恐さが消えることはないが、
落伍したのは親父である。かつての威厳は跡形もない。

昔の親父は恐かった。
「この家の中ではオレが法律だ」とばかりに威張っていた。
一家の中心にいて、すべてを管理していた。
周囲の者は親父の顔色、ご機嫌を伺いながら暮らしていた。
それが崩れたのは、個室が当たり前になってからだろうか。
個人の生活は原則、個人が管理することになった。
親父が疎ましくなったら、自分の城に逃げ込めばよくなった。

こうして親父も息子も「人は皆平等」の意識が広まると、
媚びるのをためらう頑固親父を尻目に、進歩的な一部の父親は、
デリカシーのある優しい年上の友人というポジションを獲得していった。
パパの誕生である。
厨房に入る男はカッコ良い風潮もできあがっていく。
親父も家事を手伝うのは当たり前になってきた。

パパはまた、親父のメス化と言い換えることもできて、
家事する親父が心理的に女性性を身につけてゆくのは、
疑えない事実と思われる。
家事をすることで、女性的な感受性を自然に身に付けるのである。
さらに「家事する親父」は自然に「感じる親父」に体質が変わるのである。

恐い親父像というのは、要するに男根主義の産物だったわけだ。
しかしそれは身勝手に膨らんだり縮んだりする肉片一本が頼みの、
案外むなしい威厳に過ぎなかった。
わずかな肉片の快感に振り回されてきたことに男も気付き始め、
タカの知れた一本槍を振り回して威張る時代ではなくなってみれば、
これは案外解放的で快適なのだった。
男の身体だって女性と同じように、全身で刺激を受ける柔軟性を持てれば、
男根にだけ意識を過剰に集中することもなくなって、どんなに気が楽か。
この先にはインポテンツに関する面白い問題に繋がるのですが・・・・

しかし一方で親父のメス化と期を一にして、女性のオヤジ化がすすんでいないか。
逆にたどると、「感じない女」「家事をしない女」「ペニスを持ち始めた女」
もしそうなら由々しき問題ではないか。
男のメス化と女のオス化、この生物学的な変異が
深層から社会に揺さぶりをかけているような気配もある。
杞憂であればいいが、一抹の不安が消えない。


ブ然

2006-12-16 | 日記・エッセイ・コラム’06.

ぶつぶつ日記 12.14

「前から思ってたんですけど、先生って
 リリー・フランキーに似てるんですよ。
 顔じゃなくて雰囲気が。(隣の女のこに)d(^-^)ね?」
「うん、似てる・・ふふっ _(^^;)・・」

「ふふっ・・」が気になる・・いや気に入らない。
リリー・フランキーの名は、ベストセラー「東京タワーなんとか?」の
著者としか知らない。
きっと、知的な中にもほのぼのとした味の人物なのだろう・・・と、
まずネットで、顔写真でもないか探してみた。
リリー・フランキー語録」・・な、なんだ!?
ほとんど下ネタじゃないか!!
確かに私は、エロネタやピンクジョークをブログネタに使ったりする。
が普段は上品に振舞って、こんな下ネタを口にすることはない!断言する!!
こんな処が似ているってゆーのか (~へ~;)

日本男子再生マガジンと称する若者雑誌「キング」に、
リリー・フランキーと瑛太なる人気俳優が対談しているというので、
息子に頼まれた風を装って¥600も出して買ってみた。
・・ど、どこが似てるんだ!!
似てるのは目と鼻と口とヒゲがあるところだけだろう!!
・・で対談を読めば、エロトークじゃないか!!!
だいたいリリー・フランキーなんて、
オカマのストリッパーみたいな名前からして、イカレテないか!?

私の怒りのメールに
「ココリコミラクルタイプ」って番組に出てますから、一度みてください」

私のイメージ、自分で思ってるのとは、だいぶ違うのかも知れんな・・・


・・・とあるパーティーで、菊水酒造の方と同席になった。
会も佳境、ほとんど人がフロアで踊りに興じる中、テーブルにひとり
ぶ然として早口言葉を唱えていた。
菊水酒造⇒菊水酒豪⇒キス喰いスゴ⇒キス吸いスゴ⇒キス喰い吸うぞー