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絵空ごと

あることないこと、時事放談から艶話まで・・・

哀は地球に巣食う 

2007-12-28 | 日記・エッセイ・コラム’07

姪っ子が可愛がっていた猫が死んで、骨壷を作ってくれと頼まれた。
完成して渡すとき、まだ読んだことがないというので、
絵本『100万回生きたねこ』佐野洋子著(講談社)を添えてあげた。
この絵本、あまたある絵本の中でも、不朽の名作のひとつと思うが、
私もこれまで何冊かプレゼント用に買っている。
 1977.10.20 第一刷  それから30年
 2007.7.13 第89刷 とある。
久しぶりに読んでみた。

それまでいろんな飼い主のねこだったねこが、
のらねことして生まれかわった。
”ねこは はじめて 自分の ねこに なりました。
 ねこは 自分が だいすきでした。”

尊大で自分だいすきねこが、ある白いねこに魅せられてしまった。
誇り高いねこが自分に正直になって
”「そばに いても いいかい。」
 と、白いねこに たずねました。
 白いねこは、
 「ええ」
 と いいました。”

自分より好きな対象を見つけたのらねこ。
他を愛することを知った。
そして老いた白いねこが死んだとき、
100万回の生で泣かなかったねこが、泣きあかして死んだ。
2度と生き返ることはなかった。

本の帯に「・・・般若心経の絵本なのだ」(柳田邦男)とある。
こどもからおとなまで、さまざまな人が、おのおのの精神に添った
寓意を読みとれるこの絵本。

人間が人間として生まれてきたということは、
このねこが100万回目の生で
誰が飼い主でもない、自分が自分の主人であるのらねことして
生まれてきたことと同じなのではないだろうか。
愛と涙の意味を知る素質をもって生まれてきているということ。
「自分が好き」を「あなたが好き」に変える運命を負って。
「あなたが好き」は自己愛の延長なんだろうか。
他を自分の中に取り込むことが愛だろうか。

自己愛から放れて得た自由。
自由とは自己愛の束縛から解き放たれた喜び。
自由になれた人が、人を愛せる。
それは本を読む喜びに似ている。
本を読むとき、自己(わたし)はいない。
自己から自由になった精神が、本という海を泳ぎ、空をとぶ。
自分にがんじがらめになった不自由な人。
不自由な人が人を愛することはできない。
不自由な人は本に遊べない。
人間は自己という殻に閉じ込められた不自由な生き物なんだな。

他人(ひと)を愛する自由の喜びを奪われたとき、
人は哀しみに暮れる。
人を愛する自由を奪われた人たち、
人を愛する自由を捨てたエゴイスト(自己愛)たち。
哀しみが地球に巣食っている。

この絵本をみていると、そんなさまざまな想いが湧いてくる。


シュワッ!!来ませり 

2007-12-24 | 日記・エッセイ・コラム’07

ぶつぶつ日記 12月24日

12月になると、BGMにクリスマスソングを流すことが多くなる。
今さらクリスマスなんてどうでもいいが、
クリスマスソングには名曲が多いし、聴き比べも出来るので、
せめて「音楽だけでも」のクリスマス気分を味わっている。

しかし今年も、若い女性会員の誰ひとりとして、
クリスマスケーキを届けてくれるヤツはいなかった!
私がどれほどスイーツに目がないか知っているのに!!
私が日頃、おやつの準備をして待っているなどの、
心遣いをしてあげているというのに!!
私が不幸な誕生日のおかげで、
”長い人生一度もバースデーケーキを口にしたことがない、
 クリスマスとバースデーを兼ねたケーキなんていいね”と、
あれだけ口を酸っぱく念をおしておいたというのに!!

この時期いただけるものといえば、
白菜、大根、ネギ、ジャガイモ・・・等々・・もうどっさり!
そりゃ薪ストーブを活かして、頻繁に鍋してますから、
ありがたいことはありがたいんだけど、
男ふたり所帯では、そうそう食べきれるもんじゃないし・・・・

あたしゃクリスマスケーキがいただきたいのだ!!
日頃「不味いケーキはいらない」なんて言っているが、
コンビニのケーキでいいのだ。
あたしゃ、そのささやかな心がほしいのだ!!
パサパサのスポンジに、甘すぎる生クリームが厚塗りされ、
そこに固く小さい、酸っぱいイチゴ。
その脇にビニールでできたヒイラギの葉が一枚突き刺さった、
そんなもんでいいのだ!!
そうすりゃ、2倍3倍の美味しいものがゴチになれるのに!!
ナゼそれがわからないかなあ!!!

この前来た女性は、帰り際に「よいクリスマスを!!」と言ってくれた。
しかしそれは私にとってはイヤミでしかないんだぞ!!
私は思わず、ウルトラマンのシュワッチ!のポーズを返したのである。
(( o|o)し~》》》
そしたら彼女ニコッと笑ってVサインをしたね。
まったく今どきの女は、異星人と同じだよ \(`o'") !!


朗読「風の盆恋歌」を聞く 

2007-09-08 | 日記・エッセイ・コラム’07

深夜に及ぶ窯焚きの途中で、CDからラジオに切り替えると、
ちょうど「ラジオ深夜便」が始まるところで、最初のメニューが
『風の盆恋歌』の朗読だという。
始まるとつい聞き入ってしまって、薪をくべるタイミングが
いい加減になってしまった。

今はすっかり俗化して、この小説で描かれているような情緒は
まったく亡くなってしまったと聞いてはいるが、
いつかは本場の祭りを観て見たいものだと思っている越中・八尾の風の盆
・・・が、不精な私が出かけることはないだろうから、
風の盆の描写だけが読みたくなって、たまに手に取ってみる小説を
偶然朗読で聞けることになった。

不倫小説の名作といわれているはいるが、
正直にいえば、この手の小説は嫌いである。
大学の卒論が俳句という男が、大新聞社の外報部長になり、
妻は有能な弁護士、恋敵が外科の大家に成り、その妻と
昔、行き違いになった恋情を成就しようという、
設定がまず気に入らない。
てやんでぃ、勝手にやれ!という気分になる、
さらにふたりの恋を象徴させるための花・酔芙蓉が、
9月の頭に咲くものなのか?なども、腑に落ちない。

それは我慢するとして、私個人はこれを不倫小説というより
純愛物と読んできたのだが、それは話の結末が
あきらかに『ロミオとジュリエット』を連想させるからだ。
文学好きな人が読めば、それと判る仕掛けやパロディーが
アチコチに織り込まれているのだろうと思わせるのは、
この作者・高橋治が俳句にも造詣が深く、
本家取りやパロディーならお手の物と考えられるからだ。

とにかく私は風の盆の描写が読みたくて読むのだし、
作者はそれを描きたいがために、この話を作ったに違いないのだ。
そしてそれを今回、朗読で聞くことが出来た。

小説を自分で読むのと、朗読で聞くのとでは、
想像力の働きがまるで違う気がする。
活字というのはどこまでも論理的な道具なのにくらべ、
朗読は歌(詩)だというくらいの違いといったらいいだろうか。
昔活字文化が一般的じゃない頃の芸能は、すべて
口から口へと伝えられたものだった。

語りのプロが読む間合いの上手さからか、
想像力がゆったりと広がり、静かな流れに身を任す感じになる。
そこに、胡弓の哀切な効果音などが入るから、いっそう臨場感が増す。

我々の世代は、徳川無声をかろうじて知っている、ラジオで育った世代で、
「一丁目一番地」なんていうドラマ、落語、漫談、浪曲、
さらに野球や相撲もまずは耳から言葉が入り、
実際の姿を見たこともないまま、言葉から想像力を膨らませていた。
それがテレビになると、ありのままの姿が目に映るわけだから、
実際の姿を見て失望したり、想像を超えた形に目を見張ったりしたものだ。
しかしそのテレビの現実を映す力は、逆に想像力を失わせることにもなった。
見たとおりの現実が実は、恣意的に切り取られた虚像だと思うことさえ奪う力があった。

耳で聞いて想像していたものが、実際の形を見てガッカリするのは、
密かに創りあげた象徴性を奪われてしまったからではないだろうか。
もし目に想像力を働かせようとさせるなら、
より象徴的な意味を与える手しかないのではないだろうか。
どうも人間というものは、モノに象徴的な意味を与えないと
世界を理解できない生物なのかもしれない。
芸術とはまさにそのために必要なものだった。

八尾 越中おはら節
http://www.asahi-net.or.jp/~UD3T-KRYM/008-kazebon/p014.htm


ノスタルジジイ 

2007-07-22 | 日記・エッセイ・コラム’07

身体はクタクタに疲れているのに、なかなか寝付かれない状態が続いて、
ついに睡眠薬の力を借りることにしたのだが、
そうなると活字はおろか、テレビを見る気力もなくなり、
慰みにCDの棚を探しては、あれこれ探しては聴いていた中に、
特別ジンワリ心に沁みたのが、サザンオールスターズ
20年も前の2枚組みCD『kamakura』だった。

サザンのCDといっても、これしか持っていないくらいだから、
入れ込むほどのファンでもなく、最近のヒット曲を聴いても
むしろ無残な気分しか起きないくらいなのだが、
この2枚組アルバムだけは、20年前の・・
つまりまだ40歳前の、元気の残っていた自分を想い出すための、
無くてはならない大事なアルバムで、
時折引っ張り出して聴いては、ノスタルジーに耽るというわけだ。

当時絶頂期のサザンのヒット曲の何曲かは当然知ってはいても、
CDを買うほどの思い入れがない者が、
何故¥5.000もするこの2枚組みを買ったのか、
今でははっきり思い出せないが、とにかくコレを聴くと、
当時よく通った夜の古町の匂いが甦ってくるのだ。

サザンオールスターズの最初のヒット曲「いとしのエリー」を
さんざん聴かされていた頃は、「洋楽にかぶれた都会の田舎者の猿真似の上手」
くらいにしか思わず、あの英語訛りの日本語を聞くたびに寒気がしたものだ。

『kamakura』がサザンのアルバムの中でどんな位置づけにあるのかわからないが、
有名なジャズミュージシャンが編曲を担当したり、プレーヤーとして参加しているためか、
サザンオールスターズというミュージシャン・グループの実験的な遊びに溢れた
アーチスト魂といったものを強く感じたことは確かで、
それは今聴いても、「面白いことをやっていたんだな」と、思わせるものがある。
田舎者がいつの間にか垢抜けして、ホンモノになっていたようなものか。

そんな私的な評はともかく、このアルバムと20年前の夜の古町の思い出が重なるのだ。
今の時期なら店を出ると夜が明けていて、フラフラしながら帰ったものだ。
大して強くもない酒を、バカ話に興じてよく飲んでいたものだ。
この前行ったらあの店はもうなかったなあ・・・
一緒に飲んでいたあの人も、病気をしてから引退してもう2年か・・・
あの美人ママももうバアさんだろうなあ・・いい旦那をみつけて居酒屋でもやってるか?
あの可愛いバイトの看護婦、フツーの主婦に納まって、フツーのオバサンになってしまったか?
変遷の激しい業界の上、めっきり寂れてしまった古町だが、
”なんとか持ちこたえている"という,マスターの顔が浮かんで、無性に行きたくなる。

そんなことを思い出させるCDはこれだけだ。
あの頃、本当によく聴いていた。


クロイツェル・ソナタ 後 

2007-06-08 | 日記・エッセイ・コラム’07

トルストイの「クロイツェル・ソナタ」をようやく読み終えた。
文庫本でわずか150ページの中篇なのに、いっこうに進まない。
読後感想文を書く、と言った手前、義務感で手に取ってみるが、
2~3行ほど目で追うものの、頭に入ってこない。
つまらないのか?・・・つまらない!何の感興も呼び起こさない。
「諸悪の根源である性欲」でもなし「純潔を謳いあげる」わけでもない。
異常な嫉妬心から妻を殺した男の独白が、延々と続く。
ついて行けない。
トルストイから100年以上の間に、嫉妬による男女の愛憎悲劇なら、
様々な意匠で描かれてきて、今更古典的な心理劇でもない。

タイトルのクロイツェル・ソナタと結びつく話にたどり着くまでに、
それまでの話をすっかり忘れ、ようやくたどり着いてからは、
力を振り絞って走りぬけてテープを切った。

”音楽というのは、・・・作った本人(ベートーベン)にとっては
 その心境が作曲という行為に駆り立てて、意味を持つ。
 しかしこっち(聴く方)にとっては、本来意味のないものだから、
 駆り立てられ、苛立たせられただけで(作曲という形のようには)
 決着をつけてはくれない。
 ・・・だからこそ音楽は時によると実に恐ろしい、実に不気味な作用を及ぼす。
 ・・・駆り立てられたエネルギーや情熱が、なんらはけ口を見出せぬまま、
 破滅的な作用を及ぼす。
 少なくとも私に対しては、あの作品(クロイツェル・ソナタ)は
 恐ろしく効き目があった。

なるほどね。
クロイツェル・ソナタの出だしのプレスト(性急に)に駆り立てられるように、
嫉妬の炎を燃やし、激情的発作的行為に及んだという仕業。

音楽を癒しのBGMくらいにしか聴いていない者には、
芸術が人の精神に及ぼす力、を受け止めることは難しいことだが・・・・

映画「羊たちの沈黙」で、
Dr.レクターが護送先で警備員を殺してまんまと逃亡するのだが、
檻の中でレクターが聴いている音楽が、バッハの「ゴールドベルク」だった。
逃亡への冷徹・緻密な計画をたくらむレクターの頭脳と、
数学的な美しさと評されるバッハを重ねて、印象的なシーンだ。
レクターはバッハを聴きながら、機をうかがい、実行し、
殺したあとで、まるで自らへの賛歌であるかのように、聴き惚れている。

これはアウシュビッツでのナチスの将校のエピソードだが、
ユダヤ人を手順どおりにガス室へ送りこんだあと、
何事もないかのように自室に戻って、モーツァルトを聴いていたという。
将校にとっては自分の仕事をしただけなのだ。
仕事に善や悪といった観念の入る余地はなく、
仕事が済めば、自分の落ち着ける日常の世界に身をしずめるだけ。

もうひとつ、これはロシアの捕虜になった作家のエッセイだったと思うが、
終戦直前参戦してきたロシア軍が、
抵抗する余力もない相手に、乱暴狼藉の限りを尽くしたあと、
隊列を組んで整然と帰っていった。
その時、彼等が行進しながら歌うロシア民謡が満州の大地に響き渡り、
そのあまりの美しさに、シベリア送りになる身を忘れて感動した、という。