『わび・さび』異説
茶の心といえば、日本人ならすぐに『わびさび』って答えると思うのですが、
でも不思議だと思いませんか?
お茶会などを覗いてみれば、どこに『わびしさやさびしさ』があるの?ってくらい
華美を競っているだけじゃないですか。
何か変だ!何か間違っている!ってずっと思っていました。
僕のユリイカ!!
そうある時気づいたんです。
『わび・さび』のわびは侘びしさじゃなくて詫びじゃないのか。
さびとは寂しさじゃなくて錆びなんじゃないか、って。
念のために村田珠光・武野紹鴎・利休と続く正統な侘茶の歴史を
wikiなどでおさらいしておくことをお勧めします^^
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E8%8C%B6
まず「侘び茶のわびは、侘びでなく詫びである」説です
大名・貴族・高僧・豪商といった大金持ちが
書院造りの部屋で、宋から運ばれてきた高価なお茶を、
青磁や天目といった名物茶碗で喫するものだったのを、
禅の精神を取り入れて、田舎造りの庵で、朝鮮の下手物茶碗で飲む趣向にした。
したものの、これはあくまで田舎くさい「フリ」です。
本当に汚い東屋でお茶を啜るわけじゃない。
練りに練ったアイデアを盛り込んで、
最上の材料を吟味して造りあげた庵です。
金持ちが形だけ貧乏人の真似をして遊ぶ、の図です。
それを詫びてるわけです。
「ホントは金持ちなんだけどさ、贅沢な遊びに飽きちゃったんで、
貧乏人のフリをしてんだけど、これが面白くてね。ゴメンね。」
朝鮮の庶民も捨てるような茶碗に、「オモロイ!」と言って
べらぼうな値をつけて弟子に売りつけたといわれる利休。
なんとアコギな真似をと怒りが沸きますよね。
でここで「さびは寂びではなくて、錆びである」です。
つまりピカピカの新品より、古びたものが美しいという美学です。
例えると、新品の学生服やジーンズを、わざわざ生地を傷め
色を落として着るのを、カッコイイという、アレです。
そうなんです、「わびさび」ってちょっとねじくれた
バンカラ野郎のもので、高尚な精神性ばかりを求めると
反って道を踏み外しかねません。
朝鮮の下手物茶碗を、キズつき汚れ具合が「オモロイ」と
天下の目利き、利休さんが云えば、大名といえども
その美学に逆らえるわけがない。
あらためて言います。
「わびさび」というのは、どこまでも大金持ちならではの趣向なのですね。
そんな金持ちの美学を、ドン百姓生まれの秀吉には、反発こそすれ
理解できるはずがありません。
で作ったのが成金趣味丸出しの、黄金の茶室。
「シャレの分からぬドン百姓」って鼻でせせら笑う利休。
はい、もうあからさまに顔に出ちゃったんでしょう。
「鼻持ちならぬ奴!その傲慢な鼻、オレがへし折ってやる」
豪商と水呑み百姓、育ちの違うものが産んだ悲劇でしょうか。
金持ちが貧乏人の真似をするから洒落になるが、
貧乏人が金持ちの真似をしても滑稽なだけ。
『わびさび』はどこまでも、お金持ちが貧乏人のフリをする遊びです。
付録『一期一会』異説
普通には「一生に一回だけの出会いなのかもしれないから、誠心誠意おもてなしをせよ」ってところでしょうが、
これは「わびさび」とは関係ない江戸中期以降に喧伝されるようになったものらしい。
何度も言いますが、お茶というのは生まれてから今までずっと、お金持ちの「遊び」です。
それを貧乏人にまで広めようという過程で、どこか抹香臭い行儀作法といったものへと堕落し、
「遊び」がなくなっていく。
「遊び」が無くなったら、ルールに怯え、狭い空間で主客はなごまず、息苦しいだけでしょう。
主客は一生に一回しか会わないんじゃなくて、気の合うものが事に応じて主客入れ替わり、
相手をアッと驚かせ喜ばせようとする、今で云うならさしずめ「サプライズ」を仕掛けるわけです。
その仕掛けはその時一回しかサプライズの効果はないということ。
「やられた!まいった!」と相手に言わせる、そういうゲームです。
遊びがなくて何がオモロイねん。