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絵空ごと

あることないこと、時事放談から艶話まで・・・

猿も木から落ちる

2006-11-02 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「さ」5
『猿も木から落ちる』

「猿も木から落ちる」・・・見たんかい!
「河童の川流れ」・・・見たんかい!
「弘法も筆の誤り」・・・わかるんかい!
まあそう突っかかるものではない。
想像すると、どことなく可笑しいだろう?
猿が木の枝を掴み損ねて尻餅を搗く、
河童が川の流れを読み間違えてアップアップする、
かの弘法大師が筆順を間違えて坊主頭を掻く、
その道の名人達人でさえ間違いはあるという喩えじゃ。

だから我々が時に間違いや失敗を仕出かすことに、
いちいち目くじらを立てる訳ではないが、・・・がね、
あんたらかりそめにも専門家・プロといわれる者たちがさ、
なんでまあそう何遍も何遍も、ペコペコと頭を下げるかな。
土下座して謝っても、どうも愛嬌がないのね。
頭の上の嵐が過ぎていく間だけの辛抱って、
頭を下げながら舌を出してるように見えるわけですよ。
「あってはならないことと、深く反省しております。
 今後このようなことのないよう、真摯に検討してまいります。
 多大なご迷惑をお掛けいたしましたこと、
 心よりお詫び申し上げます。」
おエライさんが連れションよろしく雁首揃え、薄い頭を見せて謝ってもね・・・
”お騒がせした世間の皆様”の中にわたしは入ってないしさ・・・
謝った人が、今の地位から滑り落ちたって話も滅多にないどころか、
会社では”責任の所在をハッキリさせる”とかいって、
部下を叱り飛ばしているんだろうね。
エライ人はいいよね。
 


あばたもエクボ

2006-09-29 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「あ」8
あばたもエクボ』

ヤンキース・ゴジラ松井のあばたが全部エクボに見えたら
それはそれで、かえってコワイ気もするが、
ファンではあっても恋しているわけじゃないから、
あばたがエクボに見える心配は全くない。
毎朝ヤンキースの試合を見る楽しみを奪った骨折からようやく復帰、
しかもモデルチェンジでパワーアップした松井の
プレーオフでの活躍が楽しみでならない。

「恋は盲目」といわれる。
正確にいえば、全く見えなくなるわけじゃなく、
特殊なフィルターがかかった状態といったところ。
恋はいっときの熱病だから、その熱にうかされて
幻覚症状が現れ、本来あるべき姿が見えなくなるのである。
周りの人間は、ハラハラして注意するのだが、聞く耳を持たない。
目だけじゃなく耳もやられる。
酔っ払いが「酔ってない」と言い張るのと同じで、
精神がイカレテしまうのである。
心臓バクバクで血圧が上がり、気も大きくなって
世界はふたりのもの、とか
愛があれば人生怖いものはない、などと叫ぶ興奮状態。
危なっかしいったらない。
こうなったら放っておいて醒めるのを待つしかない。

問題は醒めた後だ。
あばたがあばただと気付いて愕然とする。
熱にうかされていた間にやった事を覚えてないのは、
これも酔っ払いと同じである。
”いやだあたし、この人の何を好きになったの?”
深い自己嫌悪に陥る。
反動で「エクボもあばた」に振れたりする。
恋の二日酔いというのが、酒のそれよりツラク長引く。
・・なのに、また同じ病気にかかる。
習慣性がある点でも、アルコール中毒と同じである。

考えてみれば、恋の熱病に罹らなくても、
”見たいように見る”のが意思の疎通を難しくするので、
早とちりのせいなのか、視野の狭さなのか、エゴの強さなのか、
中には進んで誤った解釈をしたがるタチの悪い者もいる。
いずれにしても世の中というのは、
解釈次第でどのようにも見えるものだ。
短所を長所に読み替えることだってアリだ。


当たって砕けろ

2006-09-22 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「あ」6
『当たって砕けろ』

砂浜を裸足でエッサホイサと走っているのは、空手部員たちだ。
ひとしきり、組み打ちなどが済むと監督の訓示がはじまる。
”今度の相手は確かに格上の強豪だ。
 ・・といっても同じ高校生、臆することはない!
 あの怒涛のように、押して押して砕ける覚悟で行け!いいかっ!!
”押忍っ!
などと無茶なハッパを掛ける。

”。。まあな、、99%無理だと思うよ・・
 でもまあ、お前の熱意に、グラッとこないとも限らない・・
 どうせダメ元、振られて死ぬわけじゃないし・・
 告白して身の程を知るのもいいんじゃないか・・・
 

”。。まあねえ、99.9%無理だ、この成績では資格ナシ。
 それでもどうしても挑戦したいというなら、
 間違って大ヤマが当たって奇跡が起こらないとはいえん。
 どうせダメ元、自爆するつもりで受けてみるか?

このように、無理を承知で臨む無謀な挑戦に、
人を鼓舞し、自らの奮起を促すときに使われる『当たって砕けろ』
・・がひとたび非常事態になると、気分が高揚し神がかりになりやすい。

玉砕・・尊い宝玉である若き命を、鉄砲玉のように捨てさせたあの戦争。
アメリカの兵士を震え上がらせた神風特攻隊。
何の勝算もないのに、ただ無闇に突撃して、ほとんどは打ち落とされた。
後は野となれ山となれ。そのように海の藻屑となって散った。

忘れもしない5年前の9.11
彼らは周到な計画を練り上げ、防御不能な作戦を実行した。
飛行機を丸ごと、乗員乗客も巻き込んでの自爆テロ。
アメリカの栄華の象徴を破壊してしまった。
隣のバッグを担いだ若者が突然爆発したり、
何気なく止まっている車が爆発したり、
飛行機に乗っても、隣の乗客の様子を疑ったりするほどに、
世界中に心理的な不安が広がっている。
神に命を捧げた死を恐れぬ彼ら、見えない敵からの無差別な攻撃。

”私に命をくれないか。当たって砕けてくれ”
どんな組織でも命令する連中は、
人の命を道具くらいにしか思ってないのさ。


悪女の深情け

2006-09-16 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「あ」4
『悪女の深情け』

性格の悪い美人と、性格は悪くないが不美人
どちらを選ぶかとなれば、大抵の男は
性格は二の次にして美人を採る。
言うまでもなく、この二つのタイプの両脇に、
性格の良い美人と、性格も悪い不美人がいる。
しかしこちらは答えが明瞭なので、問題の起きようもなく、
しかもそうそう居るものではない(と思う)から、
今回の考察から除外して構わないのである。

まあナンダカンダ言っても、男は「イイ女」が好きなんである。
”いやぁ、よだれの出るような、イイ女だねぇ!!
 一晩でいいから、お付き合い願いたいモンだねぇ!!”
このように、男のスケベな眼差しを浴びることに狎れ、
甘い言葉でおだて上げられていれば、
女は気持ちよく思い上がって、驕慢になる。
男に可愛がられようとする、健気な努力を怠り、プライドだけが高くなる。
愛嬌を振るのはカネの為。
”愛??そんなママゴト!!フン!”・・こんなのに限って、
”アタシってこう見えても尽くすタイプなの”ってほざく。

この格言の「悪女」とはこの「イイ女」の反対、
「悪いイイ女」ではなくて、
”イヤァー、折角だけど、遠慮させてもらうわ、ハハ・・”の口。
性格の悪い美人に辟易すると、
”やっぱり女は心だわ”と改心して、いざ付き合ってみれば、
痒いところに手が届く、まさに至れり付くせりの殿様気分。
しかし勝手気儘に生きてきた男が、
女に何から何まで世話を焼かれるというのも、
次第に鬱陶しくなってくるもので、
まして「たまにはイイ女と・・・」遊んだことがバレたりしたら、
その焼もちの激しいったらありゃしない。
”アタシがこれだけあんたのことを思って尽くしているっていうのに・・・”
女の献身がなんとなく重く被さってくるんですね。
”悪かった悪かった・・・謝る、ほんの出来心だから・・・”

???あっ!そうか!悪女ってのは、男に
”悪かった悪かった”って、すぐ謝らせる女のことだったのか!!
そして謝ればまあ何とか許してくれる深い情けもある。

そうか世の中の女はほとんどが「かわいい悪女」ってことなのね。
・・・( ;^^)へ..ごますりごますり・・・


逢うは別れの始め

2006-09-09 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「あ」3
『逢うは別れの始め』

逢った途端「この出会いも別れが定め」などと悲観的に思いつめて、
良い関係が結べるだろうか。
「誕生は死への旅立ち」・・・それはその通りではあるが、
「どうせ死ぬんだから」と投げやりに生きる人生に、価値はない。

「逢うは別れの始め」とは、その人と過ごした年月を振り返って、
しみじみと感傷に耽る詠嘆、あるいは惜別の辞なのですね。
ある年月愛しあった者と、別れることにはなったが、
しかしその年月を恨めしく思っているわけではない。
たしかに最後は憎しみの感情も湧いたが、
逢わなきゃ良かった、などと思うわけもなく、
それもまた「いとおしい」人生の一頁なのだ。

親しくしてもらった人が亡くなる。
出会えてよかったと思うから、悲しみもひとしおなのだ。
そういう哀惜の情を訴える言葉だと理解したい。

そしてこれには「別れは逢うの始め」なる対句があって、
別れがあれば、新しい出会いがあるという希望を詠っている。
ページをめくって次の展開に期待するのである。