新釈いろは歌留多「み」
『身から出た錆』
錆=鉄が酸化されたもの。
鉄や銅を酸化するやら還元するなんてことが
陶芸と関係あるとは思いもしなかったのに、
高校時代あれほど苦手だった、化学をやり直すはめになって、
元素周期表から酸化還元反応、
はては電子遷移なんてところまで首を突っ込んでみたが、
今ではそれもすっかり錆ついて
「火の神さん、後はよろしゅう頼ンまっせ」陶芸になっている。
昔はモル計算などして、色のテストを山のようにやったものだ。
「さび」とくれば、「わび」が合言葉のように口に出るのが日本人。
さらに現在はこれに、「萌え」が加わって、
日本人の美意識を表す標語になっている。
「わび」と「さび」の違い、「萌え」と「ときめき」の違いを
考察してみるのもなかなか面白いのだが、それは例えばここに譲って、
ひとつ違いを指摘するとすれば、
「わび」は冬、「さび」は秋、「萌え」は早春というところか。
(そして「ときめき」は初夏だろうか)
わび、さび、萌えに共通するのは
さびしさ、かなしさ、わびしさ、弱さ、はかなさ、繊細さ、あわれ、
頼りなさ、もろさ・・・といった、いわば負の感性ではないだろうか。
か弱きもの、小さきものへの日本人の偏愛が見て取れるだろう。
もちろん日本人にはこれとは正反対の、
荒々しく、絢爛豪華、派手、ケレンといった美意識も一方にあるが、
どちらが日本人らしいかと問われれば、圧倒的に前者だろう。
さっきまでNHKのハイビジョン特集で、奈良東大寺の創建当時の姿を、
CGを駆使して再現したドキュメントをみていた。
壮大な建物と極彩色に描かれた壁面と仏像、
そしてまばゆいほどに輝く金メッキされた大仏。
「青丹よし奈良の都」を目の当たりにするようで、
確かに荘厳ではある、がどこか違和感を感じるのは
それが唐の美意識をそっくり移したもので、
和の美とは違うと感じるからだ。
日本人が神社仏閣あるいは仏像に感じる美は、
それらの色が落ち、油が抜けて枯れた木地がむき出しになり、
朽ち果てむとする風情にこそ、時の移ろいを想い、
人の世の所行無常、はかなさ、あわれを感じられるからだ。
やきものに関しても、日本人の感性、美意識は独特なものがある。
ゆがみ、いびつ、キズ、ヒビ、ひょうげ、汚れ、不均衡、無作為・・
中国人なら捨ててしまうようなモノに、美を見出してきた。
そういう独特な美意識・メンタリティーを「わび」「さび」と
言い習わしてきたが、これだけなら「老い」の美意識といってもよかった。
しかし老いの美だけで日本人の美を語られては、若者は迷惑だ。
そんな中いつの間にか「萌え」が市民権をえてきたが、
これが、わびさびと同列に語られ得るのは「燃え」ではないからで、
傷つきやすさ、か弱さ、ほのか、あえか、・・なものへのいとおしさを、
微妙なニュアンスで含むからだ。
色んなものが世界標準化されて、「らしさ」が失われていくが、
日本人の個性、美意識といったものは、そう簡単には変わらずに、
世代を越え形を変えて、伝わっていくのだろう。
ただ、「萌え」がロリコン趣味だけで終わるようでは
「身から出た錆」・・ハアハアして朽ち果てるだろう。