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絵空ごと

あることないこと、時事放談から艶話まで・・・

わび・さび・萌え

2006-12-12 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「み」
『身から出た錆』

錆=鉄が酸化されたもの。
鉄や銅を酸化するやら還元するなんてことが
陶芸と関係あるとは思いもしなかったのに、

高校時代あれほど苦手だった、化学をやり直すはめになって、
元素周期表から酸化還元反応、
はては電子遷移なんてところまで首を突っ込んでみたが、
今ではそれもすっかり錆ついて
「火の神さん、後はよろしゅう頼ンまっせ」陶芸になっている。
昔はモル計算などして、色のテストを山のようにやったものだ。

「さび」とくれば、「わび」が合言葉のように口に出るのが日本人。
さらに現在はこれに、「萌え」が加わって、
日本人の美意識を表す標語になっている。
「わび」と「さび」の違い、「萌え」と「ときめき」の違いを
考察してみるのもなかなか面白いのだが、それは例えばここに譲って、
ひとつ違いを指摘するとすれば、
「わび」は冬、「さび」は秋、「萌え」は早春というところか。
(そして「ときめき」は初夏だろうか)

わび、さび、萌えに共通するのは
さびしさ、かなしさ、わびしさ、弱さ、はかなさ、繊細さ、あわれ、
頼りなさ、もろさ・・・といった、いわば負の感性ではないだろうか。
か弱きもの、小さきものへの日本人の偏愛が見て取れるだろう。
もちろん日本人にはこれとは正反対の、
荒々しく、絢爛豪華、派手、ケレンといった美意識も一方にあるが、
どちらが日本人らしいかと問われれば、圧倒的に前者だろう。

さっきまでNHKのハイビジョン特集で、奈良東大寺の創建当時の姿を、
CGを駆使して再現したドキュメントをみていた。
壮大な建物と極彩色に描かれた壁面と仏像、
そしてまばゆいほどに輝く金メッキされた大仏。
「青丹よし奈良の都」を目の当たりにするようで、
確かに荘厳ではある、がどこか違和感を感じるのは
それが唐の美意識をそっくり移したもので、
和の美とは違うと感じるからだ。
日本人が神社仏閣あるいは仏像に感じる美は、
それらの色が落ち、油が抜けて枯れた木地がむき出しになり、
朽ち果てむとする風情にこそ、時の移ろいを想い、
人の世の所行無常、はかなさ、あわれを感じられるからだ。

やきものに関しても、日本人の感性、美意識は独特なものがある。
ゆがみ、いびつ、キズ、ヒビ、ひょうげ、汚れ、不均衡、無作為・・
中国人なら捨ててしまうようなモノに、美を見出してきた。
そういう独特な美意識・メンタリティーを「わび」「さび」と
言い習わしてきたが、これだけなら「老い」の美意識といってもよかった。
しかし老いの美だけで日本人の美を語られては、若者は迷惑だ。
そんな中いつの間にか「萌え」が市民権をえてきたが、

これが、わびさびと同列に語られ得るのは「燃え」ではないからで、
傷つきやすさ、か弱さ、ほのか、あえか、・・なものへのいとおしさを、
微妙なニュアンスで含むからだ。

色んなものが世界標準化されて、「らしさ」が失われていくが、
日本人の個性、美意識といったものは、そう簡単には変わらずに、
世代を越え形を変えて、伝わっていくのだろう。
ただ、「萌え」がロリコン趣味だけで終わるようでは
「身から出た錆」・・ハアハアして朽ち果てるだろう。


目には目を 歯には歯を

2006-12-06 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「め」
『目には目を 歯には歯を』

やられた分だけやりかえす。
いっけん至極公平で、フェアな裁き方に思える。

いうまでもなく法律を作るというのは、裏を返せば、
規制を設けなければならない、目に余る行為が溢れていたということだ。
目を抜かれたら、命を取るなんてことが、日常的にあったということだ。

思ってもみてほしい。
もし自分の愛する身内が暴徒に傷つけられ、まして殺されたりした場合に、
「命には命、目には目、歯には歯」などと冷静に反応できるものだろうか。
生じた憎しみが、人を冷静にしておくわけがない。
憎しみによる報復、復讐、私刑(リンチ)が、
受けた被害の何倍も、凄惨で残酷なものになるのは当たり前だろう。
一寸刻みの痛みを与え、失ったひとつの命に対して
何倍もの命を奪わなければ気が済まない。
古代といわず、少し法の網を外れた所なら、
どこでも行われていることだ。

しかし統治者としては、この増幅する憎悪の連鎖を野放しにはできない。
「憎悪の感情は我々統治者に預けてくれ、悪いようにはしない、
 我々が責任をもって、数量的にバランスの取れた刑罰を与えるから」
いったんそれで承諾せざるを得ないものの、いまひとつ気が収まらないのは、
10万円貸したのに、せいぜい元金しか返してもらえない気分だからで、
憎しみ分の利子を上乗せして返してもらえないという、不満が残るからだ。
「目には目、歯には歯」に皆しぶしぶ従ってはいるが、
本心から納得しているわけではない。
もっと憎しみをぶつけたいと思っている。

ところがひとり、トンデモナイヤツが現れた。

 「目には目,歯には歯をといわれているの聞いているだろう.
 しかし,私は言う.右の頬を打たれたなら,左の頬も差し出せ.
 下着を奪おうとするものには,上着も与えよ.
 もし,誰かがあなたを強いて1マイル行かせようとするなら,
 その人と共に2マイル行きなさい.
 求めるものには与え,借りたいというものには惜しまずに与えよ.」
   (マタイ 5:38-42)

目と目、歯と歯という対等なバランスさえ不承不承なのに、さらに
憎しみの感情を抑えるのも難しいのに

 「隣人を愛し,敵を憎めといわれているのを聞いているだろう.
 しかし,私は言う.敵を愛し,迫害するもののために祈れ」
    (マタイ 5:43-47)

イエスの思想がいかに過激(ラヂカル)か分かろうというものだ。
当時の人々ばかりか、現代の我々の多くだって
「そんなことは天国だけで可能な、宗教家の妄想だよ。
 この世知辛い世の中で、実現できるわけがない」と思う。
イエスの突きつけるあまりにラヂカルな理想と、
現実の生活とのギャップに引き裂かれて、迷うばかりだが、
しかしどこかで憎しみの連鎖を断ち切らなければとも思う。

イエスを女性的な優しい人物に描かれることもあるが、
その言動がいかに過激なものだったか、こういう一節を読んでも分かる。
そうでなければ、十字架にかかることもなかっただろう。

ハムラビ法典 
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/01_sensi&kodai/01-05_meniwameo.html

イエスの生涯とその教え
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/easy/tyusei.html


昨日の友は今日の敵

2006-11-21 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「き」2
『昨日の友は今日の敵』

言うまでもなくこれは『昨日の敵は今日の友』と対をなし、
人と人の繋がりの危うさ脆さを教える言葉である。

舞台を国会にみると、そこでは議員本人が目まいを起こすほどの、
複雑怪奇な合従連衡が繰り返されてきた。
 ある決起集会に参加した議員さん、
 顔ぶれを見れば仲間のはずが、
 ”○○さん、部屋が違うよ (^^?”
 どうやら以前属していた会派に来てしまった。
 ”オレは今、何党なんだっけ? (?_?)
  もう3回変わっているからなあ・・
  どうも紛らわしいよ”
誰が仲間で、誰が敵か訳がワカラン状態。
自分の信念より、選挙事情などの私利私欲で党に組しただけ。
節操の無さを恥じるデリカシーのカケラもない。
こういう人たちに、道徳教育やら「美しい国」やらを
抜け抜けと語って欲しくないんだがなあ・・・・

これが国際政治ともなれば、その方程式の複雑さは
我々凡愚のとうてい及ぶところではなくて、
あえて敵をでっち上げたり、表向き友人の顔で付き合う・・など、
本心を見せないのは、ごく初歩的な芸当なのだが、
国と国、人と人の関係の基盤は「信頼」とされている。
・・が、もちろん建前である。
「信」と「疑」はコインの裏表で、裏切りはいつでも起きる。

”あんたのことを誤解していたみたいネ”
人間関係というのは、相互の誤解で成り立っているようなもので、
好意的な誤解を持ち続けられるか、曲解を正そうとするかしないかが、
友と敵を分かつともいえる。
誤解が解け、間違いが正されれば敵は友になり、友は敵になり、
また新たな誤解が生産されていく仕組み。

身近な人間関係が信頼と美しい誤解から成る、そうありたいと思うが、
政治家が信頼を基にするというのは、少し危なっかしい。
まあ政治家が一般大衆を信じているとは思えませんが・・・

「相手を計りかねる」・・だから少しでも多くの情報を集めようと
躍起になるのだが、わからないものはわからない。
「不信」(相手は悪)から始めるのが政治家で、
だから政治家は皆、人相が悪くなる。
といって人の良さそうな政治家というのも信頼できない。
でもこれ政治家だけかっていえば、そうでもなくて、
人生、友が敵になったり敵が友になったりを重ねてくれば、
苦悩が皺に刻まれて人相に表れるものだ。

信から疑いが生まれ、不安が膨らみ争いが起きる。
男と女から国と国まで、相手のことは分からない。


聞くは一時の恥、聞かぬは・・

2006-11-17 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「さ」7
『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』

会話の中に未知の、あるいは意味不明の単語が出てきたが、
相手は「知らないわけないですよね」といった調子で話を続けるものだから、
ここで「知らない」では、ナメなれるってんで、意地を張る。
知ったかぶりを通して曖昧な相槌を打ちながら、
「話を文脈から推測していくうちに、わかるだろう」とタカを括っていると、
とうとう分からず終いで、脇の下にビッショリ汗をかくことがある。
「うまくはぐらかせたろうか、無知を見透かされたろうか」・・で酒がマズイ。

たとえばバッタリ会った人の名前が思い出せず、
愛想を浮かべてつなぐ話の裏で、記憶を総動員して検索を掛けるが、
とうとう思い出せないまま「どうも・・また・・」と別れ、
別れた後で思い出して、大事なお礼を言わなかった!とか、
身内の消息などを尋ねなかった!ことを悔やんだりすることもある。

”さきほどもお会いしたように思いますが、
 どなたさまでしたかな?”
”馬鹿っ!お前のアニキだ!”
これは落語の小咄だが、
知らないことを、素直に知らないと言って聞くのは
カンタンなようでムズカシイものだ。

 先日亡くなった大学者・白川静の「常用字解」によれば、
  『恥』・・心に恥じることがあると、まず耳が赤くなり、
       はじらいが耳に現れるものである・・

己れにプライド、気位、自負、矜持といったものが着きはじめると、
「知らない」ことを認め、虚心に尋ねることを、
人格を脅かされることのように、思うようになるらしい。
一時耳を赤らめ、顔を赤らめる、そんなカワイイ恥で済むものが、
見栄を張って知ったかぶりをした時の恥は、
しつこくいつまでも取り付くものだ。
これを赤っ恥という?


去るものは追わず

2006-11-06 | 日記・エッセイ・コラム’06.

新釈いろは歌留多「さ」6
『去るものは追わず』

習い事を辞めるタイミングを計るのは難しいものだ。
”せっかくガンバって来たのに、主人の転勤で・・”とか
”さあこれからって思ってましたのに、母の看病で・・”など
有無を言わせぬ理由が付けられれば、事は簡単なのだが、
辞めたい意思を言い出しかねていると、
”どうしたの?近ごろ元気がないわねぇ?”などと声を掛けられて
そのままズルズル続くことになる。

辞めたいと思ったら、『去るものは追えず』と諦めさせるくらい、
逃げ足は速いにかぎる。

教える側からすると、「去るものは追わず」と鷹揚に構えていられるのは、
生徒数が多く、ひとりふたり減った処で痛くない場合か、
指導者としての実績に関わりそうにない者が辞める場合である。
”またやる気が起きたらいらっしゃいね”で終わりである。

そうでない場合、つまり生徒数が少ない場合
辞める方も言い出しにくいが、先生も引き止めに必死になる。
休んだりするとすぐさま電話が掛かってくる。
”どうしたの?まっ、急に・・学校の行事で・・イヤぁね・・”
こうしていつの間にか生活状況を把握されていって、
逃れられない網がやんわりと掛けられてゆくのである。

ワタシなんかの場合は?・・・
絵に描いたような痩せ我慢タイプである。
”私まで去ってはお気の毒だから・・”という
心優しい仏のような生徒さんに支えられて、
かろうじて生息しているんである。