趣味の囲碁

囲碁大会の写真と、雑文です。

勉強すると弱くなる。

2020-12-23 19:26:59 | コラム(囲碁)


北陸新幹線敦賀駅工事 撮影 (R02 12/22 tue)  現敦賀駅の東側。

  囲碁の勉強に付いて不思議に思っていることがある。
 なぜ、碁の勉強を始めると勝てなくなるのだろう。

 いくらやっても効果が出ないので「もう、勉強は止めた」。すると、とたんに勝ち出す。あれって一体何だろう。

 今回もまた、自分なりの方法で勉強を始めた。やっぱり勝てなくなってしまった。ネット碁で維持している段級位も危なくなってきた。

 
「定石を覚えて二子弱くなり」と云う格言がある。なぜそう打つのか分からない定石を使っても混乱するだけ。車に例えると、ブレーキやアクセル、ハンドル、計器の位置が変わると運転にマゴつく。それと同じ。止めると勝ち出すのは使い慣れた車に戻るから。

 そもそも、低段者は、碁の理屈で碁を打ってはいない。慣れと、世渡りの才覚と、ハッタリで碁を打っている。

 以下、何だかんだあるが、昨今、そんなことを思っている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史小説・逆軍の旗

2020-12-14 17:00:25 | コラム(暮らし)


手筒山から望む敦賀港。

藤沢周平と云えば時代小説作家として有名。本屋へ行くと、まるで現役作家のように著書がたくさん並んでいる。フィクション小説が多いが、実際にあった出来事を描いた「歴史小説」もある。

 いつものように一杯飲んで、布団に入って、その日は「逆軍の旗」(文春文庫)を読んだ。明智光秀の本能寺の変を書いた歴史小説。何回か読んでいるので、あらすじは分かっている、、、つもりだった。

 読み始めて3ページ目。「昔、(光秀が)近江の朝倉義景に寄食していたとき」。この文節に引っかかってしまった。さらに、その時「加州一揆に遭遇し、鉄砲を打って活躍した」とも書いてある。

 誰が考えても朝倉義景と云えば越前、一乗谷の人(福井市郊外)。ひょっとして近江に居たこともあったのか、と思ってネットで調べてみたが、そんな経歴は無い。近江とは滋賀県のこと。

 加州とは何処のことかも調べた。加州とは加賀の国 (現在の石川県加賀市辺り)。加賀の国の門徒宗が起こした一向一揆。

 とすると、光秀が滋賀県の何処かにいたとき、石川県の加賀市辺りの門徒宗が起こした一向一揆に遭った、ことになる。これでは話が合わない。

 歴史小説を書く作家は、実に詳しく資料を調べる。郷土の歴史家、お寺や神社、図書館などに残っている古文書、庄屋の日誌や旅籠の宿帳、商人の帳簿などで調べる。

 文芸春秋社だって原稿をそのまま出版するハズがない。文字に間違いは無いか、時代考証は合っているかなど、スタッフがチェックする。

 今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀の一生を描いたドラマ。光秀が流浪していたとき、一乗谷の朝倉義景の里に寄宿するシーンもあると思う。

 近江の朝倉義景と云う記述が気になる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

囲碁、覚え書き

2020-12-02 18:54:24 | コラム(囲碁)

街角 (敦賀市 市役所通り) 2020/11/18 水曜日

囲碁は何だかんだ云っても、結局、勝負ごと。しかし勝ち負けを決めるものは、一天地六の博才(ばくさい)ではない。考え方によって勝負が決まる。同じ局面でどのように考えるか。白、黒ともに同じ考えなら、次の分岐点へ打ち進む。

 もし、両者の考えが違っていれば、そこで差が付く。例え微差でも差が付く。その微差が溜まり溜まって大きな力になる。溜まった力を地に換算できるのかも、知れない。 

 差が付く原因は「理解度」。どれだけ囲碁を理解しているか、それによって差が付く。理解度を深めるためには勉強するしかない。

 詰碁、定石、手筋、棋譜並べ、その他諸々の勉強方法があるが、それらは全て「技術」。碁の考え方は技術だけではダメ。もっと他のもの (抽象的なもの) が必要。

 ここに「芸」と云う概念が出てくる。囲碁の「芸」とは、、、。

 ある局面で初段の人が考えることと、六段の人が考えることは違う。当然、打つ手も違ってくる。それが「芸」の差。

 「芸」とは、繰り返し練習して得た「境地」。言葉で云うのはムツカシイ。会得とか体得と云う。

 囲碁、覚え書き 終わり。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする