京都新聞に載せてもらいましたよ。イェーィ
去年の8月にひだまりに来てくれていた坂本勝美さんを看取らせてもらった時のことを
書かせてもらいました。
ひだまり利用のおばあちゃんから
「勝美さんは、ひだまりを一つ大きくしてくれはったなぁ」
と言われて、ホンマその通りで、
勝美から、大切なことを教えてもらいました。
文字数の関係上、新聞社の方が、編集してくれはりました。
よかったら原文と読み比べてみてください。
~「これからの大往生のあり方とは」~
「親父はひだまりの稲葉さんのことを孫のように思てます。
最期は親父らしく逝かせてやりたいんです。ひだまりでみてもらえんへんやろか?」<o:p></o:p>
96歳の勝美さんの最期をひだまりでみさせてもらえるなんて、なんて光栄なことなんやろ。
精一杯、勝美さんらしいお見送りをさせてもらおうと、
息子さん(といっても私の父より年上)の申し出を受けさせてもらいました。<o:p></o:p>
勝美さんとの出会いは3年前。人の世話などになりたくないと
がんとして家から出はりませんでしたが、
あるご縁からご家族に説得されしぶしぶひだまりに通い始められました。
ひだまりは、京丹波町ではさほど珍しくないトタン葺き屋根の古民家を使ったデイサービス。
地元のお年寄りにしたら、ご近所の茶飲み友達の家へ遊びにくるような感覚で、
違和感なく来ていただけるという強みがあります。<o:p></o:p>
勝美さんは若い頃、地元で劇団を創って活動されており、
歌や余興が大のお得意で盆踊りには欠かせない方だったそうです。
ひだまりでは、毎日のように職員による寸劇が始まり、
勝美さんは大喜びでわしもわしもと芸を披露してくださっていました。
ひだまりの雰囲気が性に合ったのかもしれません。<o:p></o:p>
ある日、帰らはるときに万歳三唱で見送ると勝美さんも「ばんざーい」と喜び、
バンザイでのお見送りは勝美さん恒例となりました。
特に忘れられないのは「もう一度みてみたい」と言わはった金閣寺で満足された表情でした。
今でもまぶたにやきついて離れません。満面の笑みで「ありがとう。ありがとう。」と
何度もお礼を言ってくれはりました。<o:p></o:p>
そんな楽しい日々を過ごしていたある日、勝美さんは自宅で高熱が続き、肺炎で入院。
ドクターからはもう回復の見込みはないと伝えられ、しかしながら絶飲食でもあったため、
「食べたい!帰りたい」と懇願され、ご家族は悩んだ末、こんなに帰りたがってるんやから、
それならひだまりでもう一度みてもらうのが、いちばん喜ぶんやないかと相談してくれはりました。<o:p></o:p>
私は涙が出るほどうれしかったし、同時に背筋が伸びる想いがしました。
「勝美さんの気持ちに応えなければいけない。自分の本当のお爺ちゃんのつもりで接しよう」<o:p></o:p>
退院しひだまりに帰ってきた勝美さんはとても嬉しそう。
私たちも大喜び。すぐに退院パーティーをしようとケーキを用意すると
勝美さんはおいしそうに食べはり、ご家族は「食べれてよかったね。食べれて良かったね」と
泣きながら喜んでくれはりました。
その日の夜は「酒が飲みたい!」と言われ、職員と一緒にさっそく宴会。
勝美さんとおいしいお酒を酌み交わし、歌え、踊れの楽しい時を過ごしました。
「これから毎晩宴会をしよう」
と約束しました。
しかし、宴会は二度と開くことはありませんでした。<o:p></o:p>
次の日からは体調は落ちていき、ご家族は勝美さんの様子を見て
「病院にいたころとは違って穏やかな顔をしている」
と言ってくれはりました。
退院してから三日目。徐々に意識も朦朧とし始めました。
ひだまりのみんなとご家族が見守る中、ゆっくりゆっくり呼吸が遅く、浅くなっていく。
最期の一息があり、そのまま静かにあの世へ旅立たれました。
みんな思い思いに勝美さんに声をかけました。
私も外に響くぐらい大きな声で「ありがとう」と叫んでいました。きっと届いたと信じています。<o:p></o:p>
「ばんざーい。」最後の万歳三唱に見送られ、
勝美さんはひだまりから帰っていかはりました。
私たち職員たちに大往生をしっかり見せてくださったのです。<o:p></o:p>