くろまめさんのブログ

デイサービスひだまりは平成29年5月から同富田区に「くろまめさん」として移転しました。株式会社ひだまり介護が運営。

楽技介護勉強会 !好評開催中♪

2014年03月25日 | 日記

やっと春らしくなってきました♪

皆さんいかがお過ごしでしょうか??

 

「もっと色んな人と話したいし、刺激を受け合いたい。」

そして、僕たち介護に携わる者の原点である

「生きていてよかった!あんたに会えて良かった!」

って思える介護を深め合っていきたい♪

 

そのために欠かせないのが介護技術です!

「生理的な動きを引き出し、腰を痛めない」

それで、立てない人が立ち上がったり、立ち上がった人が歩けるようになったりするのですが、

でも万が一、動けなくなったとしても、ラクチンに介助できちゃう

介護を受ける方も「気持ちいい」って思える介護技術を

一緒に勉強していきたいと思っています。

お年寄りが元気になりますよ~

 

日時    :  毎月第3火曜日 19時~

場所    :  丹波マーケス コミュニティーホール

参加者  :   誰でもOK

参加料 :  場所代4000円を参加者で割ります。(毎回200円~300円程度になっています)

 

実は2月から開催してまして、もう2回やりました♪

こんな感じで~す↓

 

立てるかもしれない!見極め方は???

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立つチカラのある人には生理的な動きを引き出します!

髪の毛あります!

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移乗です!
右手はヘソに。ハイ!包み込むように スマイル

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介護ってなんでしょう???

マジメな話。

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でも基本はお笑いです!

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介護の仕事してない人もがんばってます!(やってる方♪)

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前屈みを助けて♪
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床に寝ている人を椅子へ!

相手に立ち上がるチカラがなくても軽々できちゃいます♪

初めてなのにできましたよGOOD

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みんな違う職場!!

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こんな感じで楽しくケラケラお笑いから、マジで真剣な話まで!

色んな人が来てるから、

「へぇ。介護の仕事してない人やったら、そう思うんや!」ってこともあるし

「こないだ、お年寄りが喜んでくれたよ!」っていうエピソードもでてきたり!!

みんなで楽しみながら

「人をハッピーにできるスキル」

を高めていきましょう!

 

ご参加お待ちしていま~す!


お母さんの名前

2014年03月10日 | 日記

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『昭和20年8月15日 敗戦を知ったのが、渡満して3年目。16歳
昭和21年11月23日 引き上げ、博多上陸
夢にまで見た母は、1ヶ月前に他界していました。無情。』

この文はひだまりを利用してくれてはるマツエさんが
「開拓30年記念誌」の中で35年前に書かれた一文です。

マツエさんは12人兄弟の末っ子。
戦時中の13歳の時に一番上のお兄ちゃんに連れられて満州に渡られました。
それからほどなくして終戦。マツエさん達は満州を追われます。
その最中、ロシア兵に襲われそうになったこともあったそうです。
引き上げてくる船で一ヶ月間漂流してやっとの思いで博多に上陸。
福岡県の博多から、京都府の京丹波の蒲生地区で開拓されている親戚を頼り
蒲生開拓団として京丹波町の開発に尽力されました。

この「開拓30年記念誌」の中には、その激動の半生が記されています。

それをたまたま図書館で見つけマツエさんに渡すと
熱心に読まれた後、ボソッとつぶやかれました。

「お母さんの名前が出てこうへん・・・」


普段、マツエさんはほとんど自分から話さはることがありません。
表情もあまり表に出されることがなく
こちらからの問いかけに対しても、うなずかれたり首を振られたり。

そんなマツエさんが、
以前おかあさんの話をしてくれはったときがあったんです。
「兄弟が多かったし、それに 私のお父さんが病気やって・・・。
必死で仕事をしている姿を思い出します。」
そして
「京都に母のお墓があるんや・・」
って言わはりました。

こんなにお母さんを思い続けておられるマツエさん。
もう居ても立ってもいられなくなって、「お墓参り行こう」と誘いました。

以前住まれていたのは、七本松。
お寺の名前は「三会寺」とだけ思い出してくれはりました。

「どの辺?」
「・・・」
「行ったらわかる?」
「(うなずき)」

色んな人に尋ねながら行くと、たどり着けるモンですね。

お寺の前に着くと
「ここです。」
とマツエさん。 笑みがこぼれてました。

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しかし!
ご住職に伺うと、マツエさんの旧姓のお墓は2件あると・・・
えぇ~どうしょう・・・
すると
「行ったらわかる。」 ってマツエさん。
さすがっ

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車いすから立ち、手を合わされるマツエさん。

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そして、住職さんのお話を伺っていると

「母の名前はモンです。」

マツエさ~んウインク
思わず、ウルウル。

お母さんの名前を思い出してくれはったんです!


お寺の庭には梅が咲いていました。

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すっきりされた表情のマツエさんです。

帰りの車内で 一言
「何十年ぶり・・
よいお墓参りでした。」 って。


今回、マツエさんとじっくり話する中で、
お母さんへの憧れにも似た深い思いを知ることができました。
そして、心の奥にしまって、どこにしまったかもわからなくなっていた思いが
お墓参りをしている中でどんどん出てくる
そんな貴重な出来事を目の当たりにしました。

マツエさん。
今まで苦労してきはった分、これからは楽しくゆっくりした素敵な時間をすごしましょうね!


後日

2014年03月04日 | 日記

先日、「機織り工場」の 娘さんから手作りのはがきが届きました。

感謝の気持ちと、
暖かくなったら娘さんの方から会いに行きます。
というお便りでした。

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お婆ちゃん。今度は、あの頃の仲間を探しに行こな。


あの頃

2014年03月04日 | 日記

こんにちは、
まだ寒い日もある今日この頃ですが、ホンマに三寒四温ですね!

ひだまりでよく
戦前、戦時中の話が出ます。
特に、私のおばあちゃん、コハルさんは
いっつも身を乗り出して話 してくれはります。

ほんでもって、去年は、戦死された恋人のお墓参りにもいけたんです。
お婆ちゃん、めっちゃ喜んでて、「70年間の胸のつっかえがとれたわぁ」って
喜んでました。
(以前、ブログでも紹介しました)

次は戦争へ行かれた、みなさんに手を合わすため・・と
京都にある護国神社へ参拝に行ってきました。
「心がちょっと落ち着いたわ」って言うてはって、
私も手を合わすことができて良かったです。

で、その帰り道の話なんですけど、
窓の外をジーと見ながら、
「あの頃は、かなんこともあったけど良かったなぁ・・・」
ってお婆ちゃん。 

私 「あの頃っていつ?」
お婆ちゃん 「戦時中、働いとった頃やなぁ。」
私 「それや!それ行こう!」
最近、家でいろいろあって、元気のなかったお婆ちゃん。
(何があったかは ヒ・ミ・ツ チュッ ) 

てなことで(笑)
お婆ちゃんの仕事場探しがはじまりました。
そこは、西陣。
お姉さんが勤められていた「はた織り工場」に
学校を出たらすぐ住み込みで就職しはったそうです。
ビロードという生地を取り扱われていたんですって。

「商店街を抜けたら、道があるんやで。 あれっ!道ない!なくなってる!!」
と言いながら、走る92歳!


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「ちょっとすいませ~ん」
と人に尋ねたり、表札をみながら前へ進むお婆ちゃん。
こんなお婆ちゃん初めてみたというぐらいイキイキしてはりました!

そして


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ありましたぁ。 「はた織り工場」!!
でも残念ながらお留守ぅ。

近所の人に聞くと、持ち主変わってはるんやってぇ。
表札の名字も変わっていましたよぉ。

しかし建物はそのまま!

「ここで、はた織りをしとったんや。
知り合いを呼び、知り合いをよびして、気がついたら
丹波のモンばっかりが集まっとったんや。
田舎もんやさかい、町が珍しいて出かけたり、あーやこーや言うて
みんなぁわいわいおもしろかったわぁ。
こっそり晩に、うどん屋さんへも行きよったで。
秘かな楽しみやったんやぁ。
そこの主人には、
たしかベッピンさんの娘さんがおらはったようなぁ・・・おらはらへんだようおな」

もうお婆ちゃんは、うどん屋さんに向かってはります。

「ここや、ここや。」
なんと、そのべっぴんな娘さんが後継者になっておられました。
あの頃と同じうどんを食べてたら
次々思い出話がでてきて、
「私らがお給料をもらいに行っとった本宅が、中筋通りにあるんや。
行ってみようか。」
と、お婆ちゃん。

どんどん歩いて・・さがして・・
さすがお婆ちゃん。一番にみつけはりました。

「こんにちは!」
「エッ?!もしかしてコハルさんか?」

ホンマに40年ぶり??
顔を見てすぐに分からはりました。

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コハルさんの隣の女性が、工場の娘さん。その隣が
お婿さんです。

偶然にも、前日に、アルバムを夫婦で見られていたそうです。
「みんなどうしてはるかなぁと思っていたんです。
こんなこともあるんやねぇ・・
ビックリしました」
と話してくれはりました。

お婆ちゃんが勤めてはった時は
娘さんはまだ小学生だったそうですが、
子どもながらによう覚えていると言うてはりました。
「丹波からたくさんの女の人が
働きに来てくれる。
この人達がいなければ工場が成り立たない。
丹波に足を向けては寝られへんのや。」
と常々、家族で話していたそうです。

その後も、
お婆ちゃん達からの縁で
丹波からの就職者が続いていたそうです。
しかも、お婆ちゃんの娘も、この織物工場に就職されたんやってぇ。
「今は工場は閉鎖になったけど、
あの頃、工場を支えてくれてはったんは
コハルさんらぁでっせ」
と握手をしてはりました。

私が知ってる家でのコハルお婆ちゃんは、
あんまり、したいこととか言わずに黙々と仕事をする お婆ちゃん。
戦争時代の話がしたいとよく言わはるのは 
つらいことがあっても、
めっちゃイキイキと輝いてはったんが戦前、戦時中やったからかもしれんなぁ。
お婆ちゃんにとって、「あの頃」は
宝物なんやろうなぁ。

娘さん夫婦と
アルバムを見ながら嬉しそうに話をしてはる姿をみて、
ホンマに涙が出そうでした。 (というか出ました) 

マサマサ