水月光庵[sui gakko an]

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博士の非正規雇用、社会に損害

2010年07月04日 | 庵主のつぶやき
いわゆる若手と呼ばれる博士たちを含む、さまざまな立場の「博士号持ち」の人に会って話を聞く機会が多い。

いつも感心するのが、みなさんえらく面白いことをやってらっしゃるということ。しかも、相当レベルが高い。ひとつのことを極めた方ばかりなので、考えてみるとそう不思議ではない。

確かな知識と旺盛な探求心のもと知的活動に勤しむこんな博士たちのことを、もっと世の人たちに知って欲しいとも思うのだが、どうにも機会が少ない。

少子化で、大学内に若手を正規採用するポストが激減していることが少なからず影響している。ほとんどの場合、非正規雇用かそれすらもない場合が珍しくない。

日本は役職を重視する社会である。正規雇用されない以上、役職上は組織の末端に位置づけられてしまう。そうなると、どうなるか? たとえ博士号を持っていたとしても、扱われ方は大学院生あたりと同じレベルにとどまる。

実際には、彼らは何年も研究キャリアを積み重ねているし、教育にも携わっている。だが、研究者としてのポストは一番下に据え置かれたままなので社会に対して発言する機会を持つことは稀である。では、教育者としてはどうか? こちらも、十年のキャリアを重ねても、「非常勤(講師)」扱いのままだ。仮に二十年でも、「非正規」の期間が伸びたというだけなのだ。プロとして扱われることはない。あくまでも細切れ雇用のバイト先生に過ぎない。

こんなわけで、新聞・TVなどのメディアが彼らに意見を求めたりすることは、どうしても稀になりがちだ。コメントは、多くの場合、社会的地位がある「教授」に〝行く〟。メディアに登場する教授の顔ぶれは、意外と変化が少ないように思うのだが、恐らく雇用システムとの絡みも無視できないはずだ。

つまり、正規雇用されている人がそれだけ少ない、ということだ。新しく人が雇われないため―正規雇用されないため―、役職上しっかりとした地位に就けない。すると当然、(メディアに露出する)顔ぶれは同じようになってくる。しかも、正規雇用された数少ないこれらの人たちの定年は、大学の場合65歳あたりが普通だから、それこそ〝ず~っと〟同じ人の顔ばかりが映ることになる。

キャリアを積んだ博士たちのなかには、優れたスキルや見識を備えた人たちが大勢いることを、私は膨大は取材体験を通してよく理解している。だが、非正規雇用のために、社会から彼らにスポットがあてられることはほとんどない。十年、二十年と研究や教育活動に身を投じていても、「先生」として扱われることはない。

こうして多様性が広がらず、社会はいつも同じ顔ぶれの〝先生〟たちから〝いつもの〟発言を与え続けられ、劣化していく。市民にしても、フレッシュな研究や教育方法などに触れることなく「いつもと同じ」日々が過ぎていくばかり。

非正規雇用の博士たちは、普段どのような生活をしているのだろうか。
多くの場合、時間給で大学に雇われ、研究・教育に従事している。が、それだけでは生活ができないため、コンビニなどでバイトしている人も少なくない。気がつくと、ある一定以上の年齢層に達して、大学から「もういらない」と言われてしまう。そうなると、単なるフリーターに転落する。

まことに悲惨だが、そうなってもほとんどの場合こう言われてお終いだ。「自己責任でしょ?」

でも、社会問題が〝個人のこと〟として流され(スルーされ)続ければ、実は社会自身も大損をする。新しい視点や技術・発想などは、(大学の世界では)比較的若い博士たち(三〇代後半付近)が多くを持っている場合が少なくない。今や、そうしたものに直接触れる機会が失われているのである。

我が国から「活力が失われている」と指摘されて久しいが、それを生み出す基となる土壌が破壊されている。大学はやせた畑になろうとしている。博士人材の多くが機械の歯車のようにだけ使われている。それも油も差されずに(博士の多くは絶望して、心が錆びつきつつある)。身分が保障されている先生方であっても、大学行政で忙しすぎて研究時間が十分にとれない。

本来、社会に活力をもたらしたり,提言をする役割を持たされているはずの大学が、こんな状態では、我が国の未来も危うくなるばかりである。

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