このところ、「介護の専門性」について、
twitterやblogで、
現場の、即ち、利用者さんや、そのご家族に一番身近にいらっしゃる方々から
ご意見が寄せられています。
頼もしい限りです。
私は、このように思っています。
医師の専門は、人の病気を診る専門職。
看護師の専門は、人の健康を看る専門職。
そして、
介護福祉士は、人の生活を観る専門職。
医者と、看護師と、介護福祉士の関係を考える時、わかりやすいのが、特別養護老人ホームの場のように思います。
医師は、利用者が病に罹ると治療を施しますし、病に罹らないよう、予防的に薬を処方したりして、人を診ます。
看護師は、利用者の健康状態が安定している状態にあるかどうかを看て、
必要により、医師に病についてを相談したり、介護福祉士に健康面から生活上の留意点を相談することでしょう。
そして、介護福祉士は、
利用者の生活面から、どのような困難性があるのかを観て、
それが病気が原因となる場合には、その特性に応じた対応を求められる事でしょうし、
健康を害するようなものであれば、看護と協働し、その状況を少しでも軽減できるように、働きかけることでしょう。
介護は誰にでもできる仕事か?
このことは、
看護師にも、ずっと言われてきました。
古来より、
人は病と闘ってきました。
病については、
祈祷、呪術といった時代を経て、家族以外のものにその「見立て」を求めるということが
行われてきたでしょう。
しかし、看病や介護は、ずっと、家族によって行われてきました。
私のゼミの先生は、
「障害者が住んでいた遺跡が北海道に残っている」と教えてくださいました。
おそらく、そこでは、家族により、その障害者に対し、様々な援助の手がさしのべられていたことでしょう。
今も、
熱をだしたら、クーリングをしてくれ、食べやすい食事を作ってくれ、水分を摂るようにすすめてくれる。
もし、怪我をして、お風呂に入れないようなら、蒸しタオルを用意し、身体を拭いたりしもしてくれることでしょう。
こうして、看護も、介護も、今でも家庭で、誰でもが行い、それを受け入れている行為なのだと思います。
しかし、
2010.9.4 ビートルズを愛するgitanisutのブログ:「介護の専門性とは(ちょっと追加)」 で、
bonn1979先生が、そのコメントで指摘されているように、
家族の1人か2人が、その人を限定に看護、介護を行うのと、
「業」として、一人の人が、多くの人に看護、介護を提供するのとでは、
単なる「行為」としては同じことであっても、
その「行為」のもつ関係性は、全く違うものであることでしょう。
利用者でも家族でもない第三者が、介護にかかわるようになった今、
「介護の専門性」というものを考えていくことは、
とても重要であり、急務であるといえると思います。
しかし、その反面、「介護の専門性」考えるとき、気になっていることの一つが、
どうしても、「介護=高齢者」とイメージが強いことです。
医師や看護師の世界でも、各分野の専門性というのはあるでしょうが、
その方法が、全く異なるとは思いません。
しかし、介護はどうでしょう?
おそらく、認知症の方への介護に長けている方が、
いきなり、明日から知的障害者への方に介護を行って下さい、といわれても、
おそらくは、難しいのではないでしょうか?
医師や看護師は、最初にその「業」があり、その専門性が細分化されていったように思います。
しかし、介護は、その逆をいこうとしているようにも思います。
そのとき、各分野の専門性が明確化されたのち、
「介護」として統合していくことができるのでしょうか?
「介護の専門性」を考える時、最初から対象者別に、その専門性を求めていこうとすることに、
少し、違和感を覚えています。
ちょっと、私もとりとめのない文章になってきました。
今日はこのあたりで、やめることとします。
ということで、今日の時点での私自身の整理は、
1)介護福祉士の専門性は、「生活を観る」ということにあるのではないか?
2)介護の専門性について、各論から入っていくことに問題はないのか?
ということです。
twitterやblogで、
現場の、即ち、利用者さんや、そのご家族に一番身近にいらっしゃる方々から
ご意見が寄せられています。
頼もしい限りです。
私は、このように思っています。
医師の専門は、人の病気を診る専門職。
看護師の専門は、人の健康を看る専門職。
そして、
介護福祉士は、人の生活を観る専門職。
医者と、看護師と、介護福祉士の関係を考える時、わかりやすいのが、特別養護老人ホームの場のように思います。
医師は、利用者が病に罹ると治療を施しますし、病に罹らないよう、予防的に薬を処方したりして、人を診ます。
看護師は、利用者の健康状態が安定している状態にあるかどうかを看て、
必要により、医師に病についてを相談したり、介護福祉士に健康面から生活上の留意点を相談することでしょう。
そして、介護福祉士は、
利用者の生活面から、どのような困難性があるのかを観て、
それが病気が原因となる場合には、その特性に応じた対応を求められる事でしょうし、
健康を害するようなものであれば、看護と協働し、その状況を少しでも軽減できるように、働きかけることでしょう。
介護は誰にでもできる仕事か?
このことは、
看護師にも、ずっと言われてきました。
古来より、
人は病と闘ってきました。
病については、
祈祷、呪術といった時代を経て、家族以外のものにその「見立て」を求めるということが
行われてきたでしょう。
しかし、看病や介護は、ずっと、家族によって行われてきました。
私のゼミの先生は、
「障害者が住んでいた遺跡が北海道に残っている」と教えてくださいました。
おそらく、そこでは、家族により、その障害者に対し、様々な援助の手がさしのべられていたことでしょう。
今も、
熱をだしたら、クーリングをしてくれ、食べやすい食事を作ってくれ、水分を摂るようにすすめてくれる。
もし、怪我をして、お風呂に入れないようなら、蒸しタオルを用意し、身体を拭いたりしもしてくれることでしょう。
こうして、看護も、介護も、今でも家庭で、誰でもが行い、それを受け入れている行為なのだと思います。
しかし、
2010.9.4 ビートルズを愛するgitanisutのブログ:「介護の専門性とは(ちょっと追加)」 で、
bonn1979先生が、そのコメントで指摘されているように、
家族の1人か2人が、その人を限定に看護、介護を行うのと、
「業」として、一人の人が、多くの人に看護、介護を提供するのとでは、
単なる「行為」としては同じことであっても、
その「行為」のもつ関係性は、全く違うものであることでしょう。
利用者でも家族でもない第三者が、介護にかかわるようになった今、
「介護の専門性」というものを考えていくことは、
とても重要であり、急務であるといえると思います。
しかし、その反面、「介護の専門性」考えるとき、気になっていることの一つが、
どうしても、「介護=高齢者」とイメージが強いことです。
医師や看護師の世界でも、各分野の専門性というのはあるでしょうが、
その方法が、全く異なるとは思いません。
しかし、介護はどうでしょう?
おそらく、認知症の方への介護に長けている方が、
いきなり、明日から知的障害者への方に介護を行って下さい、といわれても、
おそらくは、難しいのではないでしょうか?
医師や看護師は、最初にその「業」があり、その専門性が細分化されていったように思います。
しかし、介護は、その逆をいこうとしているようにも思います。
そのとき、各分野の専門性が明確化されたのち、
「介護」として統合していくことができるのでしょうか?
「介護の専門性」を考える時、最初から対象者別に、その専門性を求めていこうとすることに、
少し、違和感を覚えています。
ちょっと、私もとりとめのない文章になってきました。
今日はこのあたりで、やめることとします。
ということで、今日の時点での私自身の整理は、
1)介護福祉士の専門性は、「生活を観る」ということにあるのではないか?
2)介護の専門性について、各論から入っていくことに問題はないのか?
ということです。
JUNKOさんの発言
専門性を巡って
だんだん
発言の回数も
コメントの参加者も
増えているようです。
1 「生活」の視点
2 各論だけにいきなり入らない
は、
重要なまとめと思います。
・介護福祉士など介護職からの発言
・ネットを介しての相互の意見交換
・時折のオフ会
・施設の「民主化」というか施設管理者に
介護福祉士や社会福祉士を要件とする(検討)
など
が最近の意見から感じたことです。
最後の点は
ドイツの施設法の規定など研究してみたいです。
この施設法では
日本で言う障害者も高齢者の一本ですね。
どりーむさんの指摘される
2点目とも重なります。
気がついたものが
どんどん発言して
気がついたものがまとめてみる
上下の関係がなく
ツイート状態
というのが
ネット以前の時代と違うと思います。
理学療法の専門性に対する僕なりの答えの1部が笑福会での「理学療法って何?」という発表でした。
bonn1979先生が他ブログのコメントでご指摘されたことは、現場の職員なら誰でもわかるし理解できることだと思います。しかしそれが外部に理解されていないから問題なわけですよね。
専門性がありますよ!と主張することはいくらでもできるし、していかなくてはいけません。しかし「専門性があるかないか?専門性が高いか低いか?」という判断は、あくまでもサービスを利用する人や他職種の人間が判断すべきことだと思います。ここを間違うと「理解されない」とぼやくようになってしまうと思います。
そういう視点で見ると、「言語化」や「見える化」という作業は重要なんでしょうね。
ちなみに僕は、介護は高齢者限定で考えてはいませんです。
異存はありません。
JUNKOさんの昨晩のご意見にもつながることと思います。
が、「生活」の中に「健康」も含まれてくることから、
介護と看護は重なる部分があって、介護士は看護師さんに
バトンタッチするまでのことは最低限できなければ
いけないように思えてきました。
「生活」を観ることついては、各職員のやり方でよい、
あるいは上に立つ人間のやり方でよいとされているところに、
専門性の弱さを感じます。
入浴介助でも、丁寧に洗う人、雑な人、
レクにしても、工夫する人、しない人
排泄に至っては、私の職場では失禁した便を発見し、
悲鳴をあげただけ、片づけられない職員もいました。
このあたりの気づきや努力は、個人に任せられています。
せめて「生活を観る」上で、最低限のレベルとか、
指標的なものがあったらいいと思いました。
数年前、介護保険が始まったころすぐにだったと思いますが、施設における介護行為の標準化というものを現場にスタッフ全員で協力して作成しました。
その時に重要性について一番においたのが「最低限の対応」イコール「これは誰もが行わなくてはならないもも」そいて、具体的な介助の場面では、やはりここのスタッフの判断にゆだねられることから、その判断の「目安」をできるかぎり盛り込んで、画像もいれて作成しました。
このことによってはたして共通に認識された介護ができたかというと疑問がのこりました。しかし、専門性とはある意味、共通する目標レベルであることも事実かなと思う時があります。生業とする者が等しく判断できる物差しと、それを高められる組織、ことこの組織が厳しい状況にありますが、これはなんとかなりそうな気がします(ちっちゃいけど僕の職場ではそうしていこう思っています)これもそこに身をおいて考えている人が取り組んでいくしかない現状ですが。
みなさんの意見は大きなヒントです。現場にいるものとして即活かしていきたいところばかりです。
「生活」ということの広さと考えると広いです。今なんとか他の人の手を借りなくても生活行為を維持できている人が、もし、明日寝たきりになったら、どのような介護を提供するか。介護の方法は勿論ですが、その人の社会関係をみると思います。その時、その人はどのような判断をするのか、どのようなおもいなのだろうか。今までどのような行為と関係の中で暮らしてきたのか、そのあたりも生活という中には必要な視点ではないかと思います。介護の見える化もその人の暮らしの支援においてどのようなケアや係わりがなされているのか、ひとつの思考ではないかと思います。なんだかわけわかんなくなってきました。自分でも、整理がつきませんが。
何度も言っているように思いますが、
介護については、
それを考えている人は、
現場にしろ、教育界にしろ、
昔からいらっしゃいますね。
それが、先生のご指摘のように、
blogやtwitterで
様々な職種が、人が、
上下や地域の壁を越えて議論しあうことができる。
その可能性に期待が膨らみます。
私も、介護の専門性を考える時は、
高齢者支援のみを視野にしてはいません。
身体分野も、知的障害者や精神障害者の方々への介護や、
小児への介護も含め、
考えています。
そうすると、介護と看護だけでなく、
介護と保育とや、
介護と介助とは、
といったことも、併せて考えていくことになります。
しかし、昨日のツイートでは、
枕詞に「高齢者における」をつけて語られる人もいます。
語る前提を明らかにしながら議論していくこともまた、
必要ですね。
よく「健康な生活」というように、生活の概念は広いですよね。
しかし、私が「介護は生活」というときの「生活」の概念は、
実は、多分、皆さんが思っている生活よりも
もう少し、日常生活といった、
狭義な部分を思っています。
ただ、まだ、そこを、うまく言語化できていません。
おそらく、
私のいう「病気」「健康」「生活」というのは、
各専門職が軸足としておく「場」なのだと思います。
そして、介護職であれば、
「生活」の場を通して、病気や健康を知らなければ、介護ができない。
医師であれば、その人の健康や生活を考えなければ、
病気を診たあと、どう治療を施すのかがわからない。
そして、看護師もまた、
健康を保つためには、その人の病や生活をわからなければ、
健康に対する支援が行えない。
といった具合です。
そしてそれらは、それぞれの立場で、
人を全人的にとらえる場合、
重なり合いながら、見立てていく必要があるのでは、
と思い、
そこに、役割分担や連携が生まれてくるのでは、
と思います。
介護行為を考える時、
その行為には、必ず、
利用者と介護者の関係性が背景にあるため、
まるっきり同じことをする、ということは
実は、不可能なんですよね。
これは、看護も同じです。
(医師と重なる部分は「共同問題」として、
分けて考えるようになっていますが、
外からは、見えにくいですね)
その中で、どこをミニマムにするのか。
私は、専門性を考える時、
それと平行して考える必要があるのでは?
という派です。
そしれ、それは
「教育」「養成」ということにも
かかわってきますよね。
そして今では、精神や身体に障がいのある方の介護もしています。
確かに、最初は「え!できるかな私」と思いましたが
介護福祉士として前向きに取り組んでいます。
そうやって幅を広げていくことが介護福祉士の
専門性につながるのではないかと思うのです。
私がサービスに関わっているのは20代~90代まで様々!
年齢や症状・病気じゃなく、相手をみて何をすべきかが決まってきます。
生活を含め、人間全体をみるのが介護福祉士の仕事だと考えています。
どんなことにでも、
最初から自信をもって取り組むなんてことは
難しいですよね。
自信は、経験しながら付けていくものと思います。
介護でも、看護でも、
最後は、というか、
最初から「人」なのだと思います。
ただ、その何処を支援するのか・・・
という違いだけ。
それぞれを尊重しあい、助け合っていけるとよいですね。