Dream-Speaker

有縁の方々のインタビューを通じて、共感と共有の種を播き、育てたい。

ケミンダ師との会話。北九州市・世界平和パゴダにて

2010年11月01日 | インタビュー
サイト『仏法僧』掲載原稿から加筆・転載
2010年11月に総選挙を迎えるミャンマー。遠い国のようですが、日本とミャンマーは第二次世界大戦を機に深く結び付いていました。その象徴が、レトロ地区観光で有名な北九州市の門司港と関門海峡を見下ろす小高い山「和布刈公園(メカリ)」に世界平和パゴダ。このパゴダには、昭和32年6月11日にミャンマー政府仏教会から派遣、来日されたケミンダ師(ウー・ケミンダ大僧正)がおられます。私は2010年3月に世界平和パゴダを参詣し、ケミンダ師と貴重な時間を過ごさせていただきました。その会話の一部を記します。レトロ地区観光に行かれる方は、どうぞ世界平和パゴダも参拝してください。



私は19歳で戦争の真中にいました。

――今日は、先生に昔の話を教えてもらいにきたのです

ケミンダ師 私はトングーで生まれました。ミャンマーでは本来、20歳になると僧侶になれるが、私が20歳のときは戦時中。何をすることもできないので、終戦後、23歳になってからマンダレーの僧院に入った。そして33歳までマンダレーの僧院にいて、国家試験などを終わって、ヤンゴンで1年。34歳のときに日本に来た。プラス54年だから88歳になったというのが大きな流れ。

――戦争をどうとらえるか。ということについて、教えていただきたいことがあったのです。20歳前後の多感な時期に、僧侶の修行をしていたわけだが、一方で日本軍がヤンゴンに来たし、戦争が始まったわけです。

ケミンダ師 私はそのときは、まだお坊さんになってないですよ。17歳でトングーのハイスクールを卒業して、19歳のときに日本軍が来た。19歳から20歳の1年間は、日本の兵隊と一緒に、トングーの駅で働いていた。 実は、機関車を運転していたのです。あの大きな蒸気機関車を動かすんです。ディーゼルがないから蒸気。 ことの経緯と言うのは、そもそも私の家とトングーの駅が近いから、駅周辺に駐留していた日本人と友達になった。
彼らから仕事は何をしたいのかと聞かれたので、機関車を動かしたいと答えた。町から出て長距離を運転するのではなく、駅の構内で車両の入れ替えなどをするときに私が運転した。日本式の背の高い機関車も、イギリス式の背の低い機関車も、同じ要領だった。私の運転を見て日本人は喜んだものだ。

――先生が僧侶になられていく過程について教えてください。

ケミンダ師 最初にお寺に入ったのは10歳くらいのとき。このときはまだ子供すぎて、良くわかっていなかったのも事実ですね。どうしてかと言うと、夜はお寺に寝る。これは怖い。夕食が食べられない。これも子供にはつらい。しかし、私の親は喜んだ。なんとも複雑な気持ちでしたね。ミャンマーでは子どものころにお寺に入る習慣がありますので、これは多くの人が経験しています。
その後、成長するにつれて、私たちの時代はイギリス統治下だから、英語を習っていました。ハイスクールなどでは、夏休みのたびに、1週間くらい僧侶になりました。これは私が自分で選んだ習慣でした。他の人はしなかったですね。夏休みだけの特別な体験です。この時代は、お寺に行くと、おなかいっぱい食べられた。
お寺での食事がどのような流れになっているか、知っていますか?まず僧侶が托鉢に行く。大人は全部食べられないから、小僧さんが食べる。小僧さんが食べたら、残りは犬やカラスなどが食べる。最後は動物にあげておしまい。貯蔵しないという方法をとります。

――そういう時代に目の前で戦争があった。目の前というよりも、先生自身の存在がまるごと戦争の中にいたわけです。戦争の中にいたということは、自分が僧侶になるぞ。あるいは、僧侶になるしかないと自覚・自認する要素だったのですか。

ケミンダ師 私は昔からお寺に興味があったし、10代のころにはすでに、20歳になったら出家しようときめていました。ですから戦争が私の出家に直接影響しているわけではありません。しかし、戦争には良いことは何もない。私は日本の兵隊にもよく言ったのですが、日本軍が入ってくるまでは、我々を助けに来てくれるのだと思っていた。ところが、実際に来ると、彼らは獰猛。悪い人間だった。人をたたいたり、殺したりする。こうした暴力の現場を見てしまうと、それ以降、日本兵とは心の底から仲良くすることはできなくなった。まさに我々は戦争の真っただ中にいたんですよ。
そして、自分が僧侶になったら、仏教は素晴らしい世界だと知った。その気持ちで続けたら、今に至った。それだけですよ。そうしないと長続きしないでしょう。自分の気持ちで、僧侶になることを納得できたのです。もうちょっと僧侶でいたい。もうちょっと僧侶でいたいと思い続けて88歳になったわけです。

日本人が参拝しなくなった門司港のパゴダ

――門司港はレトロ地区という町づくりが奏功して観光の名所になっていますが、戦時中はこの港から日本人が各地の戦場に出征していった。そして、その港を見下ろす世界平和パゴダには、良くも悪くも、日本人兵士やその遺族たちの想いが詰まっています。ビルマ戦線には33万人も出征したわけですから。

ケミンダ師 昭和32年に建立されたこのパゴダは、ミャンマーと日本の協力関係の結実したものです。このパゴダに参ることは、ビルマ戦線を思い返していくことにつながっていくぞということが知れ渡り、日本人は、全国からここを目指してやってきた。そのことがパゴダと僧院の護持を果たしていく原動力になった。私が今日までここにいられるのは、この関係によるものですね。
しかし、日本人にも分かってほしいことがあります。戦争に直接かかわりのある日本人、つまり戦地に出征していった人の多くが、もう亡くなっています。つまり、このパゴダでいえば、護持する人がいなくなってきているということです。ビルマ戦線に出征していった兵士たちの子や孫の世代は、残念なことにほとんどこの場所を訪れない。これは、何を意味するのでしょう。



ケミンダ師 今、このパゴダに1日何人の人が参拝に来られるか、あなたはご存知ですか?1日1人、2人くらいですよ。パゴダの建立当時から参拝者には、大人は1人100円、子どもは1人50円の護持費用を頂いていますが、往時のように大勢の人が押し掛けてくるならばまだ知らず、今は護持できるほどの資金にはなり得ていないのが実態です。
だからご覧の通り、私たちミャンマー人僧侶は、大変慎ましやかに暮らしている。今の日本人には私たちのような質素な生活を真似るのは無理でしょう。
私は今88歳。あと何年生きているかは分からない。それまでは、この慎み深い生活で辛抱するのです。辛抱とは修行のことだから、自分にとっては平気です。死後、自分がどんな人間だったかということはきちんと評価してくれるし、私はそこできちんと扱ってくれることを知っているから。人は、人間として現世に存在しているが、その心は不完全です。誰であっても修行をしなければならないのです。

現世は何をする時間でしょう。

――先生がマンダレーの僧院に入るまで、戦争が激しくなっていく時代に、何を思っていたのですか。

ケミンダ師 戦争がどうこうと言う問題ではないですよ。戦争があるかないかではなくいのちのあり方と、そのいのちが必ず来る死を自覚し、そこで見えてくる人生への取り組み方だ。人間は死んだら、パーラミー(悟りの世界に至るための行い)ができなくなる。それがいやだった。

――死んだらイヤ、死にたくない、ではなくて、死んだら修行ができないと思っていたのですか。

ケミンダ師 そうだよ。死んだら修行はできないよ。生きている間、しかも、人間だけしか、修行はできないのだ。もし、私が仏様になったら、既に自分が仏なのだから功徳は必要ないし、修行はしないだろう。
もし、私が地獄にいたら、地獄で善を積むことはできないから、つまり修行はできない。
この現世にいる人間だけが、良いことと悪いことを判断して、自分で改善し、修行できる。
それは、ジャータカを読めば分かるよ。
人間は、地獄とニルヴァーナの境目、分岐点という意味で存在している。ジャータカを知らない人はこの考えがわからない。

――そうか、行をするということが、先生にとってはものすごく重要なことだったのですね。

ケミンダ師 そうだ。前世のタネは分からない。しかし、現世は喜びよりも苦しみが多いのです。現世はもともと、パーラミーをするための時間なのですよ。

――大乗仏教と上座部仏教では、大きな流れは同じでも細部は違ったように見えますね。

ケミンダ師 あなたもミャンマーに行かるのだから知っているだろうが、ミャンマーには日本のようなお墓がないでしょう。そうだ、死ということに関する大きな違いを教えてあげましょう。
日本人は、人が死ぬと、僧侶が死人を拝む。あるいは、その人の死を縁として、参集した人々が自分のいのちに気づいていく場とするなどの意味で葬式を営みますね。
ミャンマーでは、死んだ人が僧侶を拝みます。どのようにするかと言うと、亡骸を僧侶の足元に横たえる。本当は、僧侶の足元にひざまずいて、手を合わせるべきだが、死んでしまってはできないので、その行為を模して、足元に横たえる。それが、死んだ人ができる最後の功徳だから。

――私が死んだら、私の死体を先生の足元に横たえるという意味ですか。

ケミンダ師 そうだ。それが、あなたがこの世でできる最後の功徳だからだ。死んだら戒律を守ることはできないので、僧侶が代わりに「三帰依文」を唱える。それだけで終わりだ。死んだら何もできないのだと知るべきだ。 命がなければ、その死んだ肉体そのものは、丸太、石ころと同じものだ。そのことに価値を見出す必要はないのです。
昔、日本人の会社の社長が部下と連れ立って私に会いに来たことがありました。その社長は、自分はビルマに行ったことはない。部下は駐在員でビルマにいた。という関係です。
さて、この社長が、ビルマでは人が死んだらどうなるかとたずねたので、肉体はゴミになると答えたら、この社長は真っ赤になって激昂しました。なぜかそんなことを言うのかと聞くので、死人にはできることがないと答えた。
怒る社長のとなりで部下が、だからそう言ったでしょうとなだめていました。部下はビルマ駐在時代にこのことを知っていたのです。後で聞けば、この人は四大朝刊紙のうちの1社の社長でした。私は、人の社会的な地位になど関心がありません。その人が真理に対して誠実かどうか。大切なのはこの点だけです。

日本で暮らすビルマ僧という特別な存在

――先生が来日されたことは、つまり日本人から見れば、「ビルマの象徴」が日本人社会に入ってこられた、ということを意味します。遠く離れてしまったビルマが、先生と言う僧侶の存在を通して、日本人の中に再度存在するようになったという捉え方ができます。

ケミンダ師 私は軍人会の集いで彼らに向かって、こう言ったことがあります。「あなた達は、あれだけ悪いことをしていたのに、日本に帰ってきたら虫も殺さないような顔をしている」。この言葉の意味がわかりますか?
そういわれると、怒る人もあれば、すみませんと謝る人もいた。私はこの目で見てきたんですよ。日本人兵士は残酷で鬼そのものだった。その人が、日本に帰ってくると悪気などまったくない人に見える。
これが不思議なので、本人たちにそう言った。言われると、皆、恥ずかしそうな顔をした。
日本国内で私に会うということは、彼ら日本人たちにとっては、特別な思いがあったのです。私は彼らとともに戦争の現場にいたのだから、事実の証人である私に対しては嘘をつけない。だから、私を憎む人もあれば、だからこそ好きになってくれた人もいる。彼らは、一様に、もう二度と悪いことをしないようにすると誓ったものです。
だから、帰還兵の中でも、私に対してよく面倒を見てくれた人もいますよ。
復員後、医者になった兵士がいる。この人は、私の診察・治療はすべて無償でしてくれています。今でもその病院はありますよ。

――行きつけの病院ですか。

ケミンダ師 あるよ、歯医者も外科医も。それぞれ、ミャンマーに出征して復員した親が亡くなり、息子の代になっているがそれでも父親と変わらずに接してくれています。今もたまに通っています。私は今、総入れ歯です。だいたい、歯医者というものには65歳まで行ったことがなかったくらいですから。そうした治療もすべて面倒を見てくれています。

――先生は、日本に帰ってきた兵隊に対して、虫も殺さないような顔をしているねと皮肉を言うわけですが、それは何を引き出す作業なのでしょうか。

ケミンダ師 日本人はビルマでは獰猛だった。

――そこなのです。ビルマにいたときは悪かったのに、今は悪くないのか。ということについて。人間の本性について。

ケミンダ師 それを聞いたら、答えに困った彼らは、「先生、あなたの言うとおりです。しかし、悪い人はビルマで死んだんです」と答えた人もいた。残念だがこんな言い訳はしないほうが良い。
しかし、1人だけ、自分の行いについて正しく白状した人がいた。私がトングーの寺にいたとき、放生池にいた大きな亀がいなくなった。日本兵が殺して食べたのです。
私は日本に来てから、軍人会の集いに出席することが多かった。そうした集まりのひとつで、この亀について話題にしたとき、「すみません、それは私です」と名乗り出てきた人がいた。こんな面白いことはそうあるものではないでしょう。
また、別の人は、「ビルマで私に助けられた」と申し出てきた。「私に助けられた命なので、自分の命を私にくれる」と言ってきた。私はこの人については記憶がありません。
しかし、考えてみれば、これは当たり前のことです。私がいた寺に日本軍が来たときに、バナナがあるから食べて行けと渡したりするのは、当たり前のことだった。相手が日本人だからどうこうということではなくて、寺とは本来的にそういう場所。いのちを助ける場所だから。
また、私の寺ではないですが、負傷した日本の兵隊の一群を、半年以上丸ごとかくまって療養させたこともあります。大勢の兵士がいることを隠し続けたのです。それをしたのは、私ではありませんが、しかし、そのときにかくまった兵隊が復員後、医者になった。
この医者は、自分を助けたビルマの僧侶の代わりだからと、私の治療を買って出てくれた。この人は長崎にいたが、もう亡くなった。私が昔、脱腸になったとき長崎にまで行って、この医者に診てもらった。治っても1ヶ月以上、病院にいて、食事などの世話をしてもらった。そういう付き合いもあった。
「ミャンマー人僧侶の私という個人」が「○○さんという日本人個人」を助けたのではない。しかし、僧侶は皆、師弟関係でつながっているから、事情が分かると、日本人は、自分を助けた人を直接助けることができないから代わりに私を助けようとする。

今、人と人の絆はありますか?

――そういう、人間のつながりですね。戦争はどうしようもない悪いことだが、その中で、人のつながり、絆が生まれてくる。

ケミンダ師 そうだ。絆があった。日本に来た頃は、私を見かけると1000円を手渡してくるおばあちゃんなどがいた。私を見るたびに、毎日でも。私からくれといった覚えはないのですが、おばあちゃんにはそうせずにはいられない想い、衝動があった。あの頃はみんなそういう絆を実感しながら生きていた。
日本人僧侶でも、宗派は関係なく、「一度私の寺に食事に来てください」などの声を掛けてもらったものです。当時住職だったおじいさん達は亡くなり、今はもう孫の時代だが、まだ親しく付き合うところもある。宗派は関係ないという絆もある。何十年付き合っても私とけんかする僧侶はいない。私が自分の範囲を守り、相手を重んじる付き合い方をしてきたからです。真宗、禅宗、法華、あらゆる宗派と仲良くできる。
88歳まで元気でこられたのは、みんなに好かれたから。憎まれていたらとてもこの年までもたないだろう。私はもう腰が痛いが、来日してから風邪をひいたことはない。くしゃみもせきも出ない。成人病もない。そういう、自分なりの方法で分を守れば、限界を超えないようにすれば、できる。

ミャンマーでは無料の病院や老人ホームが当たり前のこととして運営されている。
日本ではなぜこんな簡単なことができないのか。


――私は自分にできることとして、JIVITA DANA SANGHA HOSPITAL(ジビタダーナサンガホスピタル=僧侶のために奉仕する病院)の紹介文を日本語に翻訳したところです
http://blog.goo.ne.jp/dream-speaker/e/426cc85aa25173be47b575d0c4747dfe
日本語に訳して日本で紹介することによって、日本人観光客が病院を訪問し、5ドルでも10ドルでも寄付をしてくるような流れが生まれれば良いと思っています。先生が、「その病院の名前は、いのちをあげるという意味だ」とおっしゃったのは、新鮮でした。

ケミンダ師 ビルマには、そういう病院は各地にありますし、それぞれが無料ですよ。老人ホームも無料です。ところで日本では老人ホームは大金が必要でしょう。つくづく変な仕組みですね。
ビルマではなぜお金をもらわないか分かりますか?それは、お金をもらわないと出来ない仕事ならば、その仕事は、その仕事をする人々にとってパーラミーにならない。その仕事はやっても功徳にならない仕事だと判断する。そこが違うのです。

――ああ、ビルマでは、そういう社会のセーフティネットのようなポジションの仕事はすべて、パーラミーかそうではないか、ということで判断しているのですか。

ケミンダ師 当たり前じゃないか。日本社会はなぜこんな簡単なことができないのだろう。社会を支える仕事はすべてパーラミーだ。パーラミーは、私たちがこれから迎えていく老病死を終了する、ニルヴァーナに到達するための仕事ですよ。
パーラミーについて、仏教を学ばないと誤解が生まれる。家内安全、金持ちになりますように、病気になりませんように、と今の日本人が拝んでいるのは、あればパーラミーではないですよ。ところで、お布施という字はどう書くか。ちょっとそこに書いてみてください。

――「布を施す」。と書きます。

ケミンダ師 それがそのままの意味だ。お釈迦様の時代は、衣は僧侶が自分で作るから、その素材を提供した。僧侶を食事などに接待して、帰りに布を持たせたのです。
お釈迦様の時代、ある金持ちが布の代わりにお金を差し出したいと申し出たことがある。この人は急用で商売に行かないといけなくなって、布を買いに行く時間がなかった。お金なら手元にあった。だから、お釈迦さまに、「私は今から商売に行く。功徳を積みたいが今すぐ出発しないといけない。お金なら手元にあるから、布のかわりにこれを差し出したい」と申し出た。お釈迦様は、「それで良い」と答えれば、説法がお金と言う対価を求めたことになる。「ダメだ」と言えば、布施をしたいという気持ちを踏みにじったことになる。だから、お釈迦様は、「そのお金は僧侶に対してではなく、僧侶の世話をする在家の人に差し上げてください」と答えた。しかも、「食事のため」か、「着る物を買うため」か、「僧院を護持するため」か、「薬を買うため」か。その4つの項目について目的を明言するように言った。その指定された通りに使わないとだめ。流用は許されないという指針が生まれたのです。
衣については、僧侶が着る衣は本来、「糞雑衣(ふんぞうえ)」と言いますね。これは、昔のインドでの生活を見ればわかることだ。インドでは、人が死ぬと遺体をサラシで巻く。ほとんどは風葬。山の中で放置した。インドは暑いので3日くらい放置すると蛆がわく。そうなるとその布をはずして、きれいな部分だけを切り取って使ってもよい。僧侶はその布を自分で縫った。

――糞雑衣は、上等ではない布という意味で受け取っていたが、死体に巻いた布のことだったのですか。

ケミンダ師 そうだ。人が最後に置いていく、捨てていくものは、自らの肉体です。死とは体を捨てていく作業だから、最後に捨てていったものから、使えるものをもらったわけです。
しかし、今はそういうことはできない。今は、衣はどこの社会でも既製品。日本でもミャンマーでも同じです。在家の人は既製品の衣を買ってきて、僧侶が托鉢で通る道端にきれいに畳んで置いておく。僧侶は自分が通る時にこれを持ち帰る。という仕組みです。
本来は、糞雑衣とは「ゴミだらけのいやらしいもの」という意味です。普通の人はそんなものは欲しくありません。だから、道端に置いておく。ちなみに、内衣、上衣、重衣の3枚の衣がないと僧侶になれない。重衣は日本でいう五条袈裟などのもの。ひもが4番目。5番目が托鉢の鉢。6番目が剃刀。7番目が針と糸。8番目は飲み水をろ過する布。
この8つが僧侶になるための道具だ。しかし、今は水を濾して飲む人はいないね。

自分の人生の一瞬一瞬から逃げ出すな。

――先生ご自身もそうですが、年をとって体が動きつらくなると、日々の戒律や行というものを実行しにくくなるでしょう。

ケミンダ師 修業は心の問題だから、行為としての何かができなくなっても構いません。たとえば病気になって体が動かなくなったとしたら、私は病気なので修業できませんという新しい行がはじまるだけのことです。
人間は、自分の生老病死を避けて通れないものとして、一瞬一瞬を生きていくことが行なのです。
だから人生はずっと行なのです。人はそこから逃げずに、一瞬一瞬を生きるという自覚を持ちなさい。

Fin.


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