岐阜市歴史博物館で切支丹禁制の高札をみました。
定(さだめ)一、切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守事(キリシタン宗門の儀はこれまで通り固くあい守るべきこと)一、邪宗門の儀ハ禁止の事(邪宗門の儀は固く禁止そうろうなこと)慶応四年三月太政官
キリシタン禁制の高札としては多少の違いがあるものの、同じ慶応4年、1868のあちこちに残っている高札と内容は同じです。島原の乱以降、極端にキリシタンが圧迫されたご時世の中でもこの地区は切支丹に好意的だった織田信長のお膝元だけに、私としては宗門改めは比較的おだやかだったと考えたいのですが、幕府が宗門改めの専任の役人をおき、高札管理を厳しくするように諸大名に号令したのが寛文4年(1664)からだといいますから、彼の死後80年、もう信長の効き目はなかったでありましょう。
ところでこの高札がどこの高札場にあったものかは確認できませんでしたが、私は「五郎丸」あたりではなかったのかと想像します。ここからは知ったかぶりで申しわけありませんが、いまの岐阜市や一宮市あたりは信長以来キリシタンの多い土地柄だったようです。とくに犬山市の五郎丸あたりに信者が多かったと聞きますから。車窓から五郎丸の地名標識を見たときにこうヒラメイタのです。
犬山といえばのちに犬山城主になる尾張藩家老だった成瀬正虎がキリシタンだったので弾圧に手心を加えていた尾張藩が1659年、正虎死後このあたりを厳しく取り締まるようにして何十人もの検挙者を江戸や名古屋に送ったといいます。
ところで、この高札の掲示された慶応四年といえば1868年です。その4年後の明治5年、1872に岩倉使節団がアメリカをはじめフランス、イギリス、ベルギーなど行く先々で日本のキリスト教禁教を責められ、信教の自由を説かれて頭をかかえた話は有名です。高札のことが宣教師を通じて本国に伝わっていたのです。しかし、晴れて日本で信教の自由が具体化したのは明治22年、1889大日本帝国憲法の発布まで待たねばなりませんでした。