活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

活字発祥の碑の前で年を送る

2014-12-31 15:59:29 | 活版印刷のふるさと紀行

 平成26年、2014年も今日で終わりです。その大晦日、午後になって築」地・銀座に出向きました。築地で足を向けたのは「活字発祥の碑」のところです。 

 ここは平野富二、まだ富次郎と名乗っていたはずですが、彼が「築地二丁目に百二十余坪購入、仮工場建設…」としている長崎新塾出張活版製造所、のちの東京築地活版製造所を建設したところです。、1873年(明治6年)6月のことです。8月にはじめて新聞に平野富二の名で移転広告が出ています。

 その前年に陰暦から太陽暦になりましたし、徴兵令が発布されて『徴兵告諭』といがう大量の布告の印刷がありましたのでまさにタイムリーな動きであったといえます。また、同じ年の11月には「東京日々新聞」が平野の活字を採用しています。私はまさにこの明治6年が日本の金属活字を使った活版印刷の事業化のスタート地点だと思います。

 それから150年ちょっとで、まさか印刷がこれほどの凋落を示すとは誰も予想できなかったと思います。印刷図書館の印刷倶楽部の会合でもしばしば話題になりますが、とくに出版物の印刷が全盛期の4割ぐらいはダウンしています。「活字発祥の碑」の碑文の晴れやかさと合わせて考えさせられることしきりです。

 偶然ですが築地の通りで懐かしい後輩D君と出会いました。まだ紙のカタログが断然有力だったころ、制作現場で苦労を共にしました。とくにきつかったのは深夜近くまでの商品撮影の立会いでした。クライアント側からの立会いはきびしい眼鏡女史でした。撮影が終わって、呼んでおいたハイヤーに乗っていただいて女史を送り出すと二人で顏を見合わせてため息をついたものです。あの種のカタログもおそらく今は電子メディアに切り替わっているはずです。

 そういえば碑のとなりに小さな手打ちそばの店が出来ていました。「年越しそば」の看板が出ていて覗き込んだ店内は満員、5.6人が行列をつくっておりました。

 あんまり冴えない報告になってしまいましたが、ご愛読ありがとうございました。2015年、来年もよろしくお願いいたします。


コメント
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