土曜日,神田川大曲塾の勉強会が東京国立近代美術館フィルムセンターでありました。
折から開催中の展覧会「日本の映画ポスター芸術」会場でフィルムセンター主任研究員
岡田秀則さんのレクチャーを受ける日です。
2月にあった印刷博物館学芸員寺本美奈子さんの「映画ポスターと印刷」が自己都合で
聴けなかったのは残念でしたが、今回の岡田さんの数々のエピソード入りのレクチャーは
楽しく、充実した時間が持てました。
もともと映画ポスターは映画会社で内製するものでしたからデザイナーは黒子だったよ
うです。B2サイズで映画の題名、主演俳優の名場面、惹句、キャスト陣と内容が規定さ
れていたし、映倫にチェックされてハンコをポンという制約もありました。
その点、今回の展示ではデザイナー名が全部出ておりますし、1960年代、70年代の
デザイナーの映画に対する熱意によって映画ポスターとグラフィックががっちり結びついた
歩みを知ることが出来ました。その結びつきの最初は松竹シネマが当時は自社にいた河野鷹
思を起用して「お嬢さん」や「隣の八重ちゃん」を制作した戦前1030年代にあるようで
すが、戦後、粟津潔が内製の橋頭保、映画会社にあるアイデアで切り込んだ話は初耳でした。
「禁じられた遊び」、「旅情」、「大人はわかってくれない」など絵画を使った野口久光
の秀作、日本画家の大御所岩田専太郎を引っ張り出した大映の「雨月物語」「千姫」もユニ
ークでした。シルクスクリーンで意欲的な作品を送り出した和田誠「怪奇と幻想」草月シ
ネマや日宣美用の「チャツプリンの歩み」、「ギャング・エイジ」など、イラストものに
岡田さんは熱心に話されました。
これは前述寺本さんの領域ですが、私の印象では粟津潔・横尾忠則が映画ポスターに打ち
込んだ時期とオフセット印刷のテクニックの進展が重なっていて、映画ポスターのアート性
が急激に膨らんだと思います。私のお気に入りは佐藤晃一さんの「利休」1989年でした。
写真は粟津 潔さんのの「心中天網島」1968年。
この展覧会は3月一杯です。
折から開催中の展覧会「日本の映画ポスター芸術」会場でフィルムセンター主任研究員
岡田秀則さんのレクチャーを受ける日です。
2月にあった印刷博物館学芸員寺本美奈子さんの「映画ポスターと印刷」が自己都合で
聴けなかったのは残念でしたが、今回の岡田さんの数々のエピソード入りのレクチャーは
楽しく、充実した時間が持てました。
もともと映画ポスターは映画会社で内製するものでしたからデザイナーは黒子だったよ
うです。B2サイズで映画の題名、主演俳優の名場面、惹句、キャスト陣と内容が規定さ
れていたし、映倫にチェックされてハンコをポンという制約もありました。
その点、今回の展示ではデザイナー名が全部出ておりますし、1960年代、70年代の
デザイナーの映画に対する熱意によって映画ポスターとグラフィックががっちり結びついた
歩みを知ることが出来ました。その結びつきの最初は松竹シネマが当時は自社にいた河野鷹
思を起用して「お嬢さん」や「隣の八重ちゃん」を制作した戦前1030年代にあるようで
すが、戦後、粟津潔が内製の橋頭保、映画会社にあるアイデアで切り込んだ話は初耳でした。
「禁じられた遊び」、「旅情」、「大人はわかってくれない」など絵画を使った野口久光
の秀作、日本画家の大御所岩田専太郎を引っ張り出した大映の「雨月物語」「千姫」もユニ
ークでした。シルクスクリーンで意欲的な作品を送り出した和田誠「怪奇と幻想」草月シ
ネマや日宣美用の「チャツプリンの歩み」、「ギャング・エイジ」など、イラストものに
岡田さんは熱心に話されました。
これは前述寺本さんの領域ですが、私の印象では粟津潔・横尾忠則が映画ポスターに打ち
込んだ時期とオフセット印刷のテクニックの進展が重なっていて、映画ポスターのアート性
が急激に膨らんだと思います。私のお気に入りは佐藤晃一さんの「利休」1989年でした。
写真は粟津 潔さんのの「心中天網島」1968年。
この展覧会は3月一杯です。