秀英舎(大日本印刷)の創業は明治9年の10月でした。明治ヒトケタ年代に創業して今日まで続いている印刷会社は同社だけですが、この会社の創立発起人の代表が佐久間貞一その人
でした。
幕臣の次男として江戸、下谷に生を受けた彼は徳川幕府瓦壊のときは彰義隊員でした。いったんは徳川慶喜について水戸入りをしましたが、慶応4年に徳川家達の駿府入りに従って駿府に転進、掛川城下の掛川勤番組の一員として沼津兵学校掛川支寮に学び、財、漢、英、数と武術を学んで卒業したとされております。この支寮の頭取が保田久成でしたので、のちに秀英舎創立のとき力をかりることが出来たといいます。
また、創業当初、秀英舎の基盤づくりに大いに役立った『改正西国立志編』の中村正直は静岡学問所の出身でしたから、あるいは駿府で2人に交流があったのではないでしょうか。
以上は2007年に大日本印刷から刊行された『大日本印刷百三十年史』によりました。
佐久間貞一に限らず、沼津兵学校出身者と当時のニューメディア「印刷」との結びつきには
濃いものがあったはずです。今回の神田川大曲塾の研修旅行でもその辺での新事実発掘を心ひそかに期待していたのですが「残念」という結果に終わりました。明治史料館の木口学芸員によると掛川支寮の記録も見つかっていないとのこと、やはり明治は遠かったのです。
さて、ポツンポツンと書いておりますこのつたないブログを今年も応援してくださった皆様に心からお礼を申しあげて2010年を締めくらせていただきます。
意外に寒い歳の暮れですね。私の部屋から見える東京夕景を添えて「佳いお年を」と。
でした。
幕臣の次男として江戸、下谷に生を受けた彼は徳川幕府瓦壊のときは彰義隊員でした。いったんは徳川慶喜について水戸入りをしましたが、慶応4年に徳川家達の駿府入りに従って駿府に転進、掛川城下の掛川勤番組の一員として沼津兵学校掛川支寮に学び、財、漢、英、数と武術を学んで卒業したとされております。この支寮の頭取が保田久成でしたので、のちに秀英舎創立のとき力をかりることが出来たといいます。
また、創業当初、秀英舎の基盤づくりに大いに役立った『改正西国立志編』の中村正直は静岡学問所の出身でしたから、あるいは駿府で2人に交流があったのではないでしょうか。
以上は2007年に大日本印刷から刊行された『大日本印刷百三十年史』によりました。
佐久間貞一に限らず、沼津兵学校出身者と当時のニューメディア「印刷」との結びつきには
濃いものがあったはずです。今回の神田川大曲塾の研修旅行でもその辺での新事実発掘を心ひそかに期待していたのですが「残念」という結果に終わりました。明治史料館の木口学芸員によると掛川支寮の記録も見つかっていないとのこと、やはり明治は遠かったのです。
さて、ポツンポツンと書いておりますこのつたないブログを今年も応援してくださった皆様に心からお礼を申しあげて2010年を締めくらせていただきます。
意外に寒い歳の暮れですね。私の部屋から見える東京夕景を添えて「佳いお年を」と。