【Summertime】エドワード・ホッパー(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
パレアナは、<婦人の手と心>が無理でも、『子供のすがた』をペンデルトンのそば近くに置いてもらうことは可能だと考えて、孤児のジミー・ビーンの話をします。
>>「あのね、あたしにはわかったんです――お願いしなくても。パレー叔母さんはあたしをいっしょにおきたいんです。あたしもあそこに住みたいんです」
とこう言うのには勇気がいりました。
「パレー叔母さんがどんなにあたしをかわいがってくださるか、おじさまにはおわかりになりません。だんだん喜ぶこともやり始めているらしいですわ――いろいろのことをね。まえにはけっしてそうじゃなかったんですの。おじさまもそう言ってらしったわね。ねえ、ペンデルトンのおじさま、あたしはバレー叔母さんと別れたくないわ――いまでは!」
長い沈黙が続きました。暖炉の中の薪の燃える音よりほかにはなにも聞こえません。とうとう、ペンデルトンが口を開きました。
「そうだ、パレアナ、わかった。叔母さんとは別れられない――いまはね。ぼくはもうきみには頼まない――二度とは頼むまい」
と言いましたが、最後の言葉は聞きとれないほど低い声でした。けれどもパレアナは聞きました。
「おじさま、まだあとのお話があるのよ」
と熱心に言いました。
「なによりもうれしいことを、おじさまがなされるのよ――ほんとにそうなの!」
「いや、ぼくにはないよ、パレアナ」
「あるのよ、おじさまに。おじさまがおっしゃったじゃありませんか――女の手と子供の姿がホームを作れるのだってね。あたしがそれをさがしてあげます――子供の姿を。いいえ、あたしじゃないの。ほかの子供です」
「だれが、きみ以外の子供なんかほしいものか」
ペンデルトンの声にはありありと怒りが読まれました。
(第二十一章『質問と応答』より)
パレアナはこうして、自分以外の子供――ジミー・ビーンと一緒に暮らすことを提案するのですが、このパレアナの提案は単にジョン・ペンデルトンの失意を強め、不興を買っただけでした。
さて、ここでジミー・ビーン君のことを説明しなければなりません。
ジミー・ビーン君は、パレアナがスノー夫人のお宅へ伺って屋敷に戻る帰り道に出会った少年です。本人によれば歳は、まる十一になろうっていうところで、孤児院の子供です。彼のパレアナに対する<自己紹介>を引用しておきましょう。
>>「おれはジミー・ビーンで、まる十一になろうってとこだ。去年、孤児院へきたんだが、うじゃうじゃ子供がいて、おれのいるとこはないんだ。どこでもおれなんかおいてくれるとこはねえんだ。だから、出てきたのさ。どっかへ住むんだけど、まだどこもさがせないのさ。おれはうちが欲しいんだよ――監督じゃなくておっかさんのいるうちがさ。うちがありゃ身寄もあるだろうがな。父ちゃんが死んでから身寄ってものはねえんだ。おらあ、うちをさがしてるんだ。四軒のうちへいったんだけど――だめなんだ――働くって言ったんだけど、おいてくれねえんだ。さあ、これだけ言ったらいいだろう?」
(第11章『ジミーを紹介する』より)
パレアナはこの可哀想なジミーのことをどうにかしてあげたいと思い、まずはパレー叔母さんにジミーのことを紹介します。けれども見事に断られてしまうのでした。その前にパレアナは哀れな野良犬と野良猫を連れてきており――それだって、動物嫌いの叔母さんには物凄い譲歩だったのですが――今度は人間の男の子とあっては、流石のパレー叔母さんも今度こそは堪忍袋の緒が切れようというものです。
そこでパレアナは今度は、教会の婦人会に頼ることにします。けれどこちらでも、「自分の地域の身近にいる可哀想な子供」よりも、「インドの気の毒な子供たち」のために寄付金を送ることに熱心で、誰もジミー・ビーンのことを引き取ろうとはしてくれなかったのでした。
この部分はユーモアという砂糖衣に包まれつつも、かなりピリッとしたブラックジョークを自分としては感じてしまいます(^^;)
わたしたちも割と、これと似たことを行っていたりしますよね。アフリカの難民の子供のためにお金を寄付したら、いつも駅にいるホームレスのおじさんのことは、透明人間のようにまるで目に入ってこないといったようなことですけど
なんにしても、パレアナはこのジミー・ビーンのことを「自分のかわりにこの屋敷に置いてはくれまいか」と頼みます。
けれど、当然のことながらペンデルトンはこのパレアナの頼みを断ります。無理もありません。かつて自分が心から愛した女性の子供に心を明るくされ――この子をこそ、自分は養女として引き取りたいと思っているのに、その望みを絶たれてしまったのですから……。
>>「だれを――引き取るのかね?」
「ジミー・ビーンよ。ね、『子供の存在』なのよ、ジミーが。ジミーも喜びますわ。先週ジミーに会った時、婦人会の方たちもだめだったと言いましたら、がっかりしましたわ――ジミーがこのことを聞いたら――どんなに喜ぶでしょうね」
「そうかね?でも、ぼくはうれしくないね」
ペンデルトンはわざとせきばらいをして、
「パレアナ、これはまったくのくだらないことだ」
「まさか、おじさま――引き取らないなんて、おっしゃらないわね?」
「いや、そのとおり、それがぼくの本心だ、引き取らないというのがね。パレアナ、これはまったくあきれ返った冗談だよ」
「引き取らないってことじゃ――あのう、おいやなんですか?」
「そのとおりだ。引き取りたくない」
「でも、『子供の存在』っていうのに、ちょうどぴったりなんですのに」
パレアナは途切れ途切れに言って、もう泣きだしかねない有様です。
「ジミーがそばにいたらさびしくなくなりますのに」
「そうだろう。それはそうだろうが――ぼくはさびしいほうがいい」
(第二十一章『質問と応答』より)
ジョン・ペンデルトンの言うことももっとも……というより、常識的に考えて、ペンデルトン氏のこの反応のほうが<普通>と言えたでしょう。
ペンデルトンは、パレアナが自分と一緒にここへ住んで<喜ぶ遊び>をしてくれるなら、それが出来るようになるだろうと言いましたが、その子供が身も知らぬジミー・ビーンなどという子供ではさっぱり喜べないと言います。
もちろんわたしだって読んでいて「そりゃそうだよ、パレアナ」と思いましたが、けれどもやっぱりここも『少女パレアナ』という素晴らしいお話の、物語の妙といった感じがするんですよね。
わたしたちは――『赤毛のアン』で言うなら、「男の子が欲しいと思っていたのに、女の子の孤児がやって来た」というように、「自分の望みは自分が一番よく知っている。それなのに神さまときたらまあ!」といったように呟きがちです。聖書には、「子供が魚を欲しいというのに蛇を、卵をくださいというのにサソリを与える親がいるでしょうか」といった言葉がありますが、それと同時に、確かにあるんですよね。ガチョウが欲しいというのにアヒルが、猫が欲しかったのに犬がやって来る……なんていうことが(^^;)
けれど、この場合、神さまは最善をご存じであり、「ガチョウが欲しかったのにアヒルが来たのを感謝します」とか「本当は猫が欲しかったですが、犬が来たことを喜びます」といったように人間の側が<感謝して受け取る>という信仰の姿勢を見せた時に――唯一、百年動かなかった岩が動くといった奇跡を信仰者は体験するのだと思います。
そしてそんな奇跡のようなものが起きるのは、<心から感謝した時>である場合が多いですし、「ケッ。だったらこんなもの、いらんわい☆」といった態度だと、問題の岩は動くことなく、「普通にずっとそのまま」なのです。
なんにしても、この時ペンデルトンはパレアナのかわりの子供のことなど欲しくありませんでしたし、前には自分を「そんなに年寄りでもない」と言っていたのに、今はもう十も年を取ったように感じたことでしょう。
でも、とてもびっくりすることには――ペンデルトン氏はこのジミー・ビーンのことをのちには引き取るのです
ペンデルトン氏は実際のところ、かなりの現実家といった性格の持ち主ですし、もし仮にそうでなかったにしても、パレアナとは違い、一目見て「様子があまりよくない」ように思われるジミー・ビーンを引き取るなどとは、ある程度慈善心の厚い人でも「わたしはもっと様子のいい子がいいよ」と言うかもしれません。
にも関わらず、ペンデルトンはジミー君を引き取ることにするのでした!果たして、一体彼にどんな心境の変化があったというのでしょうか?
では、それはまたあとのお話で……。
それではまた~!!
※本文の引用箇所はすべて、角川文庫『少女パレアナ』(エレナ・ポーター著/村岡花子さん訳)からのものですm(_ _)m
パレアナは、<婦人の手と心>が無理でも、『子供のすがた』をペンデルトンのそば近くに置いてもらうことは可能だと考えて、孤児のジミー・ビーンの話をします。
>>「あのね、あたしにはわかったんです――お願いしなくても。パレー叔母さんはあたしをいっしょにおきたいんです。あたしもあそこに住みたいんです」
とこう言うのには勇気がいりました。
「パレー叔母さんがどんなにあたしをかわいがってくださるか、おじさまにはおわかりになりません。だんだん喜ぶこともやり始めているらしいですわ――いろいろのことをね。まえにはけっしてそうじゃなかったんですの。おじさまもそう言ってらしったわね。ねえ、ペンデルトンのおじさま、あたしはバレー叔母さんと別れたくないわ――いまでは!」
長い沈黙が続きました。暖炉の中の薪の燃える音よりほかにはなにも聞こえません。とうとう、ペンデルトンが口を開きました。
「そうだ、パレアナ、わかった。叔母さんとは別れられない――いまはね。ぼくはもうきみには頼まない――二度とは頼むまい」
と言いましたが、最後の言葉は聞きとれないほど低い声でした。けれどもパレアナは聞きました。
「おじさま、まだあとのお話があるのよ」
と熱心に言いました。
「なによりもうれしいことを、おじさまがなされるのよ――ほんとにそうなの!」
「いや、ぼくにはないよ、パレアナ」
「あるのよ、おじさまに。おじさまがおっしゃったじゃありませんか――女の手と子供の姿がホームを作れるのだってね。あたしがそれをさがしてあげます――子供の姿を。いいえ、あたしじゃないの。ほかの子供です」
「だれが、きみ以外の子供なんかほしいものか」
ペンデルトンの声にはありありと怒りが読まれました。
(第二十一章『質問と応答』より)
パレアナはこうして、自分以外の子供――ジミー・ビーンと一緒に暮らすことを提案するのですが、このパレアナの提案は単にジョン・ペンデルトンの失意を強め、不興を買っただけでした。
さて、ここでジミー・ビーン君のことを説明しなければなりません。
ジミー・ビーン君は、パレアナがスノー夫人のお宅へ伺って屋敷に戻る帰り道に出会った少年です。本人によれば歳は、まる十一になろうっていうところで、孤児院の子供です。彼のパレアナに対する<自己紹介>を引用しておきましょう。
>>「おれはジミー・ビーンで、まる十一になろうってとこだ。去年、孤児院へきたんだが、うじゃうじゃ子供がいて、おれのいるとこはないんだ。どこでもおれなんかおいてくれるとこはねえんだ。だから、出てきたのさ。どっかへ住むんだけど、まだどこもさがせないのさ。おれはうちが欲しいんだよ――監督じゃなくておっかさんのいるうちがさ。うちがありゃ身寄もあるだろうがな。父ちゃんが死んでから身寄ってものはねえんだ。おらあ、うちをさがしてるんだ。四軒のうちへいったんだけど――だめなんだ――働くって言ったんだけど、おいてくれねえんだ。さあ、これだけ言ったらいいだろう?」
(第11章『ジミーを紹介する』より)
パレアナはこの可哀想なジミーのことをどうにかしてあげたいと思い、まずはパレー叔母さんにジミーのことを紹介します。けれども見事に断られてしまうのでした。その前にパレアナは哀れな野良犬と野良猫を連れてきており――それだって、動物嫌いの叔母さんには物凄い譲歩だったのですが――今度は人間の男の子とあっては、流石のパレー叔母さんも今度こそは堪忍袋の緒が切れようというものです。
そこでパレアナは今度は、教会の婦人会に頼ることにします。けれどこちらでも、「自分の地域の身近にいる可哀想な子供」よりも、「インドの気の毒な子供たち」のために寄付金を送ることに熱心で、誰もジミー・ビーンのことを引き取ろうとはしてくれなかったのでした。
この部分はユーモアという砂糖衣に包まれつつも、かなりピリッとしたブラックジョークを自分としては感じてしまいます(^^;)
わたしたちも割と、これと似たことを行っていたりしますよね。アフリカの難民の子供のためにお金を寄付したら、いつも駅にいるホームレスのおじさんのことは、透明人間のようにまるで目に入ってこないといったようなことですけど
なんにしても、パレアナはこのジミー・ビーンのことを「自分のかわりにこの屋敷に置いてはくれまいか」と頼みます。
けれど、当然のことながらペンデルトンはこのパレアナの頼みを断ります。無理もありません。かつて自分が心から愛した女性の子供に心を明るくされ――この子をこそ、自分は養女として引き取りたいと思っているのに、その望みを絶たれてしまったのですから……。
>>「だれを――引き取るのかね?」
「ジミー・ビーンよ。ね、『子供の存在』なのよ、ジミーが。ジミーも喜びますわ。先週ジミーに会った時、婦人会の方たちもだめだったと言いましたら、がっかりしましたわ――ジミーがこのことを聞いたら――どんなに喜ぶでしょうね」
「そうかね?でも、ぼくはうれしくないね」
ペンデルトンはわざとせきばらいをして、
「パレアナ、これはまったくのくだらないことだ」
「まさか、おじさま――引き取らないなんて、おっしゃらないわね?」
「いや、そのとおり、それがぼくの本心だ、引き取らないというのがね。パレアナ、これはまったくあきれ返った冗談だよ」
「引き取らないってことじゃ――あのう、おいやなんですか?」
「そのとおりだ。引き取りたくない」
「でも、『子供の存在』っていうのに、ちょうどぴったりなんですのに」
パレアナは途切れ途切れに言って、もう泣きだしかねない有様です。
「ジミーがそばにいたらさびしくなくなりますのに」
「そうだろう。それはそうだろうが――ぼくはさびしいほうがいい」
(第二十一章『質問と応答』より)
ジョン・ペンデルトンの言うことももっとも……というより、常識的に考えて、ペンデルトン氏のこの反応のほうが<普通>と言えたでしょう。
ペンデルトンは、パレアナが自分と一緒にここへ住んで<喜ぶ遊び>をしてくれるなら、それが出来るようになるだろうと言いましたが、その子供が身も知らぬジミー・ビーンなどという子供ではさっぱり喜べないと言います。
もちろんわたしだって読んでいて「そりゃそうだよ、パレアナ」と思いましたが、けれどもやっぱりここも『少女パレアナ』という素晴らしいお話の、物語の妙といった感じがするんですよね。
わたしたちは――『赤毛のアン』で言うなら、「男の子が欲しいと思っていたのに、女の子の孤児がやって来た」というように、「自分の望みは自分が一番よく知っている。それなのに神さまときたらまあ!」といったように呟きがちです。聖書には、「子供が魚を欲しいというのに蛇を、卵をくださいというのにサソリを与える親がいるでしょうか」といった言葉がありますが、それと同時に、確かにあるんですよね。ガチョウが欲しいというのにアヒルが、猫が欲しかったのに犬がやって来る……なんていうことが(^^;)
けれど、この場合、神さまは最善をご存じであり、「ガチョウが欲しかったのにアヒルが来たのを感謝します」とか「本当は猫が欲しかったですが、犬が来たことを喜びます」といったように人間の側が<感謝して受け取る>という信仰の姿勢を見せた時に――唯一、百年動かなかった岩が動くといった奇跡を信仰者は体験するのだと思います。
そしてそんな奇跡のようなものが起きるのは、<心から感謝した時>である場合が多いですし、「ケッ。だったらこんなもの、いらんわい☆」といった態度だと、問題の岩は動くことなく、「普通にずっとそのまま」なのです。
なんにしても、この時ペンデルトンはパレアナのかわりの子供のことなど欲しくありませんでしたし、前には自分を「そんなに年寄りでもない」と言っていたのに、今はもう十も年を取ったように感じたことでしょう。
でも、とてもびっくりすることには――ペンデルトン氏はこのジミー・ビーンのことをのちには引き取るのです
ペンデルトン氏は実際のところ、かなりの現実家といった性格の持ち主ですし、もし仮にそうでなかったにしても、パレアナとは違い、一目見て「様子があまりよくない」ように思われるジミー・ビーンを引き取るなどとは、ある程度慈善心の厚い人でも「わたしはもっと様子のいい子がいいよ」と言うかもしれません。
にも関わらず、ペンデルトンはジミー君を引き取ることにするのでした!果たして、一体彼にどんな心境の変化があったというのでしょうか?
では、それはまたあとのお話で……。
それではまた~!!
※本文の引用箇所はすべて、角川文庫『少女パレアナ』(エレナ・ポーター著/村岡花子さん訳)からのものですm(_ _)m
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