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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

憎しみを捨てる。

2018年03月29日 | キリスト教
【聖マルタとマグダラのマリア】カラヴァッジョ


 ついこの間、仏教についてのあるテレビ番組を見ていて……憎しみを捨てるというのはようするに、「誰の苦痛をも願わないこと」なんだなって思いました(^^;)

 まあ、人間として善良で、性格にも曲がったところのない方は、「誰の苦痛をも願わないこと?べつに、そんなこと普段からずっとしてるけど?」と思われるかもしれません。

 でも、やっぱり自分の心を気をつけてみていくと――昔自分を振った男(女性)が今は離婚して惨めな生活を送っている……と聞くとちょっと嬉しかったり、以前自分に人前で恥をかかせた上司が、その後左遷されたらしい……と聞くと、「ざまーみろ!」と思ったりとかって、誰でも少しくらいはあるのではないでしょうか。

 そう考えていくと、確かに人類のすべての人が「誰の苦痛をも願わない」なら、確かに世界平和って可能になるとは思うんですよね。一応理屈上は。。。

 けれど、一見簡単そうに見えるこのことって、実際はとても実践が難しいのかなっていう気がします(^^;)

 どうしてかっていうと、「憎しみ」とか「誰の苦痛も願わない」なんて言葉だけで聞くと――なんとなく、遠い国で戦争が起き、そこに住んでいる民族同士の人が憎みあっているとか、この場合、その自分の民族を傷つけた相手民族の幸福を願うとか、そんなことは不可能だ……といったようなことを漠然と想像するかもしれません。

 でもそうではなく、わたしたちの日常生活でも、そんなスケールの大きなことではなくて、ほんのこんな小さなことが許せない……とか、見過ごすことが出来ないっていうようなこと、結構あるのではないでしょうか。

 たとえば、自分の家庭生活がうまくいってない時に、職場の同僚の誰かが「夫が昇進した」とか「息子が超有名大学に進学した」とか「娘が超有名企業に就職した」といったことを耳にした場合――なんとなく遠まわしにチクッと他の人に「だけど、△□さんって○×よね」みたいに陰口を叩いてみたりとかっていう、そんなようなことです。

 このくらいなら、「憎しみ」というほど大袈裟なことではないし、まあ他の誰でもやっていることだ……と思い、多くの場合、あまり良心の痛みを覚えるということはないかもしれません。

 でもわたしがこれまで、こうした種類のことを世の中で見てきた限りにおいて――「自分のコンプレックスを刺激する」というか、刺激されるようなことがあると、その反動のような形で意地悪とかいじめとか悪口といったものが起きるって結構あるのかな……という気がしました。

 ええと、このことをわたしがふと思ったのは、ある時テレビを見ていて、でした。ちょっと細かいところ忘れてしまったんですけど、その女性は、お母さんが小さい時に家を出ていってしまってから、とても苦労をされたそうです。三人兄弟で、お父さんを支えるために小さい頃から料理や家事仕事を覚え……また、家が貧しかったことから、中学を出てからは働いていたとのことでした。

 だから、時々「そこそこ裕福で経済的にさして不自由もなく育った甘ちゃん育ちの子を見ると、『本当の苦労ってもんがどんなものか、知らねーだろ』って言ってやりたいことがある」と……。

 いえ、なんかこれ、すごくわかる気がしますよね(^^;)

 でも、自分の人生があまりうまくいってない時に、他人の自慢話の一部を聞いて、仮に苛立ったとしても――その人の家だって本当はいつでもそんなにハッピーということもなく、何かかにかあるのが普通だとも思います。

 そしてそういう時に、「交通事故にでも遭って骨折するがいい」というほどではなくても、何か本当にちょっとした心の腐るようなことが相手に起きればいい……みたいにチラッと思うことって、たぶん誰にでもあるのではないでしょうか。

 そして、こうして見ていくと、「誰の苦痛をも願わない」って、本当に難しいことのような気がしてくるんですよね。

 もちろん、わたしもこうしたことをそんなに難しく考えているわけではなく、「適度に受け流して生きる」ということが大切なのかなとは思うのですが、人の心の深くを探っていくと、そうしたものがあるゆえに……地上の御国建設というのは躓きになるものがたくさんあって難しいのかなと思ったりするのです(^^;)


 >>キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

 もし私たちが御霊(聖霊)によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

(ガラテヤ人への手紙、第5章24~26節)


 >>しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

 この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

(ガラテヤ人への手紙、第6章14節)


 イエスさまは、律法の中で特に大切な教えはふたつあり、それは>>「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」ということと、>>「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」の、このふたつだとおっしゃいました。

 そして、わたしたちが汚れた思いや自己中心な欲望を心の中に持つ時――そのようなものをもすべて、十字架に釘付けにして捧げるなら、他でもないイエス御自身の血によって、それらすべての罪をも赦してくださるです。

 確かにイエスさまが十字架につけられたのは、二千年以上も昔にただ一度この地上で起きた出来事でした。けれども、今も神さまは生きて働いておられ、わたしたち人間が罪を犯すたびに何度となく十字架にかかってくださり、わたしたちの罪の贖いをなし続けてくださるのです。

 たとえば第二次世界大戦中、人類は一体何度イエスさまのことを十字架に磔にし、処刑を繰り返したことでしょう。わたしたちが今の平和な日本で犯す罪は、もしかしたらその多くが小さなものばかりかもしれません。けれども、そうした小さな憎しみの根を持ち続けていると、いずれは大きく成長してしまい、自分の手ではどうにも出来なくなるという日が、いつかやって来てしまうかもしれません。

 ですから、憎しみの芽というものは、出来るなら小さなうちに摘み取ってしまったほうが――結局のところ自分のためでもあり、また同時にそれが神さまの喜ばれることになるのではないかと思います。

 それではまた~!!





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