(密林さんの商品ページよりm(_ _)m)
今回は、アンの考える<お祈り>について見ていってみたいと思います♪(^^)
ちなみに引用箇所は前回引用させたいただいた箇所の続きとなりますm(_ _)m
>>「あんたがこの家の屋根の下にいる間は、お祈りをしなくてはなりませんよ、アン」
「あら、もちろんよ。小母さんがそうしろとおっしゃるなら」
アンは元気よく承知した。
「小母さんのよろこぶことならあたし、何でもするわ。でも今度だけなんと言ったらいいのか教えてくださいな。おふとんへはいってから、あたし、これからいつも使えるようなすてきなお祈りをつくることにするわ。考えてみれば、お祈りということもなかなかしゃれてるわね」
「ひざまずくんですよ、とにかく」
とマリラはぐあいわるそうに言った。
アンはひざまずいてマリラの膝にすがり、まじめな顔で見あげた。
「どうしてお祈りをするときに、ひざまずかなくてはならないのかしら。あたしがほんとにお祈りしたいとき、どうするか教えてあげましょうか。たった一人で広い広い野原か、深い深い森へ行って、空を見あげるんだわ。上の上の上のほうを――底知れず青いあの美しい青空を見あげて、それからお祈りをただ心に感じるの。さあ、ひざまずきました。なんて言ったらいいの?」
(『赤毛のアン』モンゴメリ著・村岡花子さん訳/新潮文庫より)
第11章の、<アン日曜学校へ行く>でも、アンはこれと似たようなことを言っていますよね。
>>「ああ、日曜学校はどうだったかい?」
アンがもどってくると、マリラは待ちかねてきいた。あの花かざりはしおれてしまったので、アンは小径に捨ててきたのでその当座はマリラは何も知らなかった。
「あたし、ちっとも好きじゃないわ。いやだったわ」
「アン・シャーリー!」
とマリラはしかった。
アンは、ほうっと溜息をついてゆり椅子にすわると、ボニーと名をつけた葵の葉の一つにキスし、釣浮草(レディーズ・イア・ドロップス)の花に手をふってみせた。
「あたしがいない間、ボニーもあの花たちも、さみしかったでしょうからね」
と説明した。
「日曜学校のことね。小母さんに言われたとおり、あたしお行儀よくしたわ。リンドの小母さんは出かけてしまったあとでしたから、一人で行ったの。ほかの女の子たちおおぜいと、教会の中へはいって、礼拝の間、窓のそばの座席のすみっこにすわっていたの。ベルさんは、おっそろしくながいお祈りをしなさったわ。窓のそばにいなかったら、あたし、お祈りがおわらないうちに、すっかり、あきあきしてしまったにちがいないの。でも、窓が『輝く湖水』に向かっていたもんで、じっとながめて、いろんなすばらしいことを想像していたの」
「そんなことをするんじゃありませんよ。ベルさんのおっしゃることを、よく聞いてなくてはいけないじゃないの」
「でも、ベルさんはあたしに話してたんじゃないの。神様にお話ししてたのよ。それもあんまり、熱心じゃなかったわ。神様のいらっしゃるところはあんまり遠いから、いくら一生懸命にしたって、つまらないと思ってるんじゃないかとあたし考えたわ。でもあたし、自分だけで、小さなお祈りを言ったのよ。白樺がずらっと一列に、湖水にのりだしていてその間をくぐって日の光が、深く、深く水の中にさしているの。ああマリラ、それは美しい夢のようだったのよ。あたしぞくぞくっとして、思わず『神様、ありがとうございます』ってニ、三回言ったの」
(『赤毛のアン』モンゴメリ著・村岡花子さん訳/新潮文庫より)
実をいうとここは、アニメのほうを見るとアンの心情がよくわかるんじゃないかなっていう気がします(^^;)
このベルさんというのは実際はとても気のいい方らしいのですが、このあたりを読んでいると、おそらく作者のモンゴメリが抱いていたであろう、キリスト教に対する反骨精神がアンを通して代弁されているようにも感じられます。
これはモンゴメリが健全なキリスト教観を持っていなかったということではなく、小さい子供にとって教会というのは退屈なところだという側面もあるといったことや、また日曜礼拝が進行する間、子供がまったくべつの空想世界に浸っているというのはよくあることだ……という描写であるのと同時に、実は<信仰の本質>ということについては、「神さま、ありがとうこざいます。ああ、ありがとうございます!」と、恍惚として感謝できるアンのほうが、より神さまの望みに近いという側面があるような気がするんですよね。
>>「お祈りを唱えるのと、お祈りをすることはおなじじゃないわ」
とアンは考えこみながら、
「でもあたし、いま、自分が風になって、あの木のこずえを吹いているところを想像してみよう。木にあきてしまったら、そよそよとこのしだのところにおりてきて――それから今度はリンドの小母さんの庭へ飛んで行って花たちを踊らせるんだわ――それからヒューッとひととびにクローバーの原っぱへ行って、それから『輝く湖水』へ吹いて行って、キラキラするさざ波をよせるんだわ。まあ、風の中にはどっさり想像の余地があるわ。だからいまのところ、もう何も言わないわ、マリラ」
「やれやれ、助かったよ」
マリラは心からほっとした。
(『赤毛のアン』モンゴメリ著・村岡花子さん訳/新潮文庫より)
そしてモンゴメリの他の著作を読んでみてもわかりますが、彼女は<表面的な、型通りのおためごかしの信仰>と、真に小さな子供が持ちうる<真実の信仰>を対比させたりといった、こうした描写の仕方が非常にうまいと思います。
けれど、毎週日曜礼拝に「習慣として」通うといったことよりも、本当に心からの信仰といったものは別なところにある――といったことを遠回しにでも<判で押したような信仰生活>を送っている人々に突きつけたとしたらどうなるでしょうか。
きっと多くの人がその子が信仰の核心をついたことに狼狽し、反射的にその子供を叱ってしまうかもしれません。
マリラも大体のところそのような反応を示しながらも、心の奥深くではアンにも正しいところがあると、漠然と感じているところがあったのではないでしょうか?
前に、『地獄の実在性』のところで、モンゴメリに続いてエミリー・ディキンスンの詩を取り上げたのですが、彼女も詩の中で大体同じようなことを言っています。
安息日を教会へ通って守る人もありますが
私は家ですませます
聖歌隊は米食い鳥(ボボリンク)で
大聖堂(ドーム)は果樹園です
安息日を白い法衣で過す人もありますが
私はちょっと翼をつけるだけ
教会で鳴らす鐘の代りに
野の堂守さんが歌います
お説教は神さまご自身――とても名高い牧師さま
お話は決して長くない
だからやっとのことで天国に行き着くかわりに
もう最初から参ります
(『エミリ・ディキンスン詩集・続自然と愛と孤独と』中島完さん訳/国文社刊より)
この詩は、「私の安息日」と題されていて、書かれたのは1860年ごろと言いますから、エミリーがだんだんに隠遁生活へと入っていった頃に書かれたのではないかと想像されます。
つまり、<地獄の実在性Ⅲ>のところでも書いたように、神経症的な症状が強まっていったことで、エミリーはその信仰深さにも関わらず、教会へも通えなくなっていったのでしょうから、その代わりとしての信仰表明の詩なのではないかと、わたしは長くそう思ってきました(^^;)
「お説教は神さまご自身――とても名高い牧師さま」というのは、イエス・キリストのことです。
他の人々は、毎週ある部分「習慣として」礼拝を守り、アンも言っている「おっそろしく長いお祈り」をしたりするのかもしれません。けれど、<信仰の本質>というものに、日曜だけでなく日々触れているような生活を送っている人であれば、「もう最初から天国へ行っている」というのですね。
ある人々の信仰は、「やっとのことで天国へ行き着く」信仰なわけですけれども、「もう最初から(なんの疑いもなく)天国へ行っている」信仰こそ、本当に本物の信仰だということなのではないでしょうか。
もちろんこれは、だから日曜日に教会へ行くばかりが信仰じゃないといった話ではなくて、日曜礼拝を守ることはとても大切なことだと思います。ただ、エミリーやモンゴメリの生きた時代背景のことを思うと、多くの人々が判で押したような堅苦しい信仰生活を送っていて、<信仰の本質>というものから少し逸れている……と感じることが、やはりモンゴメリやディキンスンにはあったのだろうと思われます。
では、次回はまた少しエミリー・ディキンスンの詩について紹介して、この「赤毛のアンと聖書」的な記事は、またそのあとにでもと思います♪(^^)
それではまた~!!
今回は、アンの考える<お祈り>について見ていってみたいと思います♪(^^)
ちなみに引用箇所は前回引用させたいただいた箇所の続きとなりますm(_ _)m
>>「あんたがこの家の屋根の下にいる間は、お祈りをしなくてはなりませんよ、アン」
「あら、もちろんよ。小母さんがそうしろとおっしゃるなら」
アンは元気よく承知した。
「小母さんのよろこぶことならあたし、何でもするわ。でも今度だけなんと言ったらいいのか教えてくださいな。おふとんへはいってから、あたし、これからいつも使えるようなすてきなお祈りをつくることにするわ。考えてみれば、お祈りということもなかなかしゃれてるわね」
「ひざまずくんですよ、とにかく」
とマリラはぐあいわるそうに言った。
アンはひざまずいてマリラの膝にすがり、まじめな顔で見あげた。
「どうしてお祈りをするときに、ひざまずかなくてはならないのかしら。あたしがほんとにお祈りしたいとき、どうするか教えてあげましょうか。たった一人で広い広い野原か、深い深い森へ行って、空を見あげるんだわ。上の上の上のほうを――底知れず青いあの美しい青空を見あげて、それからお祈りをただ心に感じるの。さあ、ひざまずきました。なんて言ったらいいの?」
(『赤毛のアン』モンゴメリ著・村岡花子さん訳/新潮文庫より)
第11章の、<アン日曜学校へ行く>でも、アンはこれと似たようなことを言っていますよね。
>>「ああ、日曜学校はどうだったかい?」
アンがもどってくると、マリラは待ちかねてきいた。あの花かざりはしおれてしまったので、アンは小径に捨ててきたのでその当座はマリラは何も知らなかった。
「あたし、ちっとも好きじゃないわ。いやだったわ」
「アン・シャーリー!」
とマリラはしかった。
アンは、ほうっと溜息をついてゆり椅子にすわると、ボニーと名をつけた葵の葉の一つにキスし、釣浮草(レディーズ・イア・ドロップス)の花に手をふってみせた。
「あたしがいない間、ボニーもあの花たちも、さみしかったでしょうからね」
と説明した。
「日曜学校のことね。小母さんに言われたとおり、あたしお行儀よくしたわ。リンドの小母さんは出かけてしまったあとでしたから、一人で行ったの。ほかの女の子たちおおぜいと、教会の中へはいって、礼拝の間、窓のそばの座席のすみっこにすわっていたの。ベルさんは、おっそろしくながいお祈りをしなさったわ。窓のそばにいなかったら、あたし、お祈りがおわらないうちに、すっかり、あきあきしてしまったにちがいないの。でも、窓が『輝く湖水』に向かっていたもんで、じっとながめて、いろんなすばらしいことを想像していたの」
「そんなことをするんじゃありませんよ。ベルさんのおっしゃることを、よく聞いてなくてはいけないじゃないの」
「でも、ベルさんはあたしに話してたんじゃないの。神様にお話ししてたのよ。それもあんまり、熱心じゃなかったわ。神様のいらっしゃるところはあんまり遠いから、いくら一生懸命にしたって、つまらないと思ってるんじゃないかとあたし考えたわ。でもあたし、自分だけで、小さなお祈りを言ったのよ。白樺がずらっと一列に、湖水にのりだしていてその間をくぐって日の光が、深く、深く水の中にさしているの。ああマリラ、それは美しい夢のようだったのよ。あたしぞくぞくっとして、思わず『神様、ありがとうございます』ってニ、三回言ったの」
(『赤毛のアン』モンゴメリ著・村岡花子さん訳/新潮文庫より)
実をいうとここは、アニメのほうを見るとアンの心情がよくわかるんじゃないかなっていう気がします(^^;)
このベルさんというのは実際はとても気のいい方らしいのですが、このあたりを読んでいると、おそらく作者のモンゴメリが抱いていたであろう、キリスト教に対する反骨精神がアンを通して代弁されているようにも感じられます。
これはモンゴメリが健全なキリスト教観を持っていなかったということではなく、小さい子供にとって教会というのは退屈なところだという側面もあるといったことや、また日曜礼拝が進行する間、子供がまったくべつの空想世界に浸っているというのはよくあることだ……という描写であるのと同時に、実は<信仰の本質>ということについては、「神さま、ありがとうこざいます。ああ、ありがとうございます!」と、恍惚として感謝できるアンのほうが、より神さまの望みに近いという側面があるような気がするんですよね。
>>「お祈りを唱えるのと、お祈りをすることはおなじじゃないわ」
とアンは考えこみながら、
「でもあたし、いま、自分が風になって、あの木のこずえを吹いているところを想像してみよう。木にあきてしまったら、そよそよとこのしだのところにおりてきて――それから今度はリンドの小母さんの庭へ飛んで行って花たちを踊らせるんだわ――それからヒューッとひととびにクローバーの原っぱへ行って、それから『輝く湖水』へ吹いて行って、キラキラするさざ波をよせるんだわ。まあ、風の中にはどっさり想像の余地があるわ。だからいまのところ、もう何も言わないわ、マリラ」
「やれやれ、助かったよ」
マリラは心からほっとした。
(『赤毛のアン』モンゴメリ著・村岡花子さん訳/新潮文庫より)
そしてモンゴメリの他の著作を読んでみてもわかりますが、彼女は<表面的な、型通りのおためごかしの信仰>と、真に小さな子供が持ちうる<真実の信仰>を対比させたりといった、こうした描写の仕方が非常にうまいと思います。
けれど、毎週日曜礼拝に「習慣として」通うといったことよりも、本当に心からの信仰といったものは別なところにある――といったことを遠回しにでも<判で押したような信仰生活>を送っている人々に突きつけたとしたらどうなるでしょうか。
きっと多くの人がその子が信仰の核心をついたことに狼狽し、反射的にその子供を叱ってしまうかもしれません。
マリラも大体のところそのような反応を示しながらも、心の奥深くではアンにも正しいところがあると、漠然と感じているところがあったのではないでしょうか?
前に、『地獄の実在性』のところで、モンゴメリに続いてエミリー・ディキンスンの詩を取り上げたのですが、彼女も詩の中で大体同じようなことを言っています。
安息日を教会へ通って守る人もありますが
私は家ですませます
聖歌隊は米食い鳥(ボボリンク)で
大聖堂(ドーム)は果樹園です
安息日を白い法衣で過す人もありますが
私はちょっと翼をつけるだけ
教会で鳴らす鐘の代りに
野の堂守さんが歌います
お説教は神さまご自身――とても名高い牧師さま
お話は決して長くない
だからやっとのことで天国に行き着くかわりに
もう最初から参ります
(『エミリ・ディキンスン詩集・続自然と愛と孤独と』中島完さん訳/国文社刊より)
この詩は、「私の安息日」と題されていて、書かれたのは1860年ごろと言いますから、エミリーがだんだんに隠遁生活へと入っていった頃に書かれたのではないかと想像されます。
つまり、<地獄の実在性Ⅲ>のところでも書いたように、神経症的な症状が強まっていったことで、エミリーはその信仰深さにも関わらず、教会へも通えなくなっていったのでしょうから、その代わりとしての信仰表明の詩なのではないかと、わたしは長くそう思ってきました(^^;)
「お説教は神さまご自身――とても名高い牧師さま」というのは、イエス・キリストのことです。
他の人々は、毎週ある部分「習慣として」礼拝を守り、アンも言っている「おっそろしく長いお祈り」をしたりするのかもしれません。けれど、<信仰の本質>というものに、日曜だけでなく日々触れているような生活を送っている人であれば、「もう最初から天国へ行っている」というのですね。
ある人々の信仰は、「やっとのことで天国へ行き着く」信仰なわけですけれども、「もう最初から(なんの疑いもなく)天国へ行っている」信仰こそ、本当に本物の信仰だということなのではないでしょうか。
もちろんこれは、だから日曜日に教会へ行くばかりが信仰じゃないといった話ではなくて、日曜礼拝を守ることはとても大切なことだと思います。ただ、エミリーやモンゴメリの生きた時代背景のことを思うと、多くの人々が判で押したような堅苦しい信仰生活を送っていて、<信仰の本質>というものから少し逸れている……と感じることが、やはりモンゴメリやディキンスンにはあったのだろうと思われます。
では、次回はまた少しエミリー・ディキンスンの詩について紹介して、この「赤毛のアンと聖書」的な記事は、またそのあとにでもと思います♪(^^)
それではまた~!!
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