【放蕩息子の帰還】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前をください』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるのにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません』
ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
そして肥えた牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから』
そして彼らは祝宴を始めた。
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。
『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです』
すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
しかし兄は父にこう言った。
『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか』
父は彼に言った。
『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか』
(ルカの福音書、第15章11~32節)
すみません。「神を喜ぶことはあなたがたの力だから-【2】-」の前に、放蕩息子のことについて先に書いておきたいと思いますm(_ _)m
この放蕩息子の箇所は、<福音の中の福音>として有名なたとえ話ということなのですが、実をいうとわたしが初めてこの箇所を読んだ時に一番驚いたのが――聖書の注釈のところに書かれている言葉でした(^^;)
第29節の注釈に、>>兄は、父に仕えたという奴隷根性から、戒律主義の生活を維持していたにすぎなかった。とわたしの持っている聖書の注釈には書かれています。
いえ、弟のほうのお話は感動的ですし、この父というのはようするにキリスト教の父なる神のことですから、神さまはそこまで堕落した我々のことをも悔い改めるなら救ってくださる……と思えて、読んでいて元気になる、嬉しい聖書箇所でもあります。
ただ、お兄さんのことはちょっと気の毒な感じがするんですよね。何故といって彼は、弟がせっかくもらった身代を無駄遣いする間も父に仕えて家畜の世話など色々真面目にやっていたのでしょうし、そう考えるとこのお兄さんの面白くない気持ちもよくわかるような気がします(^^;)
けれど、おそらくここは、この<兄>というのは例によってというべきか、パリサイ人を暗示していると思うんですよね。
モーセの律法を事細かく守ることで、「わたしはあるゆる規定を守っていますし、あらゆる十分の一の捧げ物もしております。さあ、これであなたがわたしを祝福しないとしたら、おかしいですよね、神さま?」とでも言ったらいいのでしょうか(^^;)
もちろん、神さまはこの兄のことも弟のことも両方祝福しているとは思うのですが、カインとアベルのお話と同じく、神さまがより愛しておられるのは弟のほうだというのは明白というか。
>>ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」
(ルカの福音書、第18章10~14節)
そして、この放蕩息子のたとえは、信仰者が辿る典型的な道のような気がしたり(^^;)
弟のほうは最初に、「それをあなたが自分に与えるのは当然だ」とばかり、財産の分け前を要求しています。
わたしたちも、神さまに対してよく思いますよね。「あなたがこうしてくだされば、わたしは幸せになれるのに」とか「それなのにこれこれのものをあなたが与えてくださらないのはどういうことですか」といったように。
でも結局のところ、人間というか、その人当人とって何がもっとも幸福であるのかはわからないことのほうが多いのではないでしょうか。
この弟は父からもらった財産を無駄に費やしてしまったわけですが、そのあとハッと我に返って自分の罪深さをはっきりと自覚し、父の元へと戻っていきます。
日本はキリスト教国ではありませんから、小さい頃は両親に連れられて教会へ通ったりしたものの、キリスト教の神にあまり魅力を感じられず、その後自分の好きなとおり・思ったとおりのところを行い、人間として堕落したところをもう一度神さまに救われる……といったことは、もしかしたらあまりないかもしれません。
けれど結局、信仰者も同じなんですよね。何かをきっかけにしてキリストを主であると受け容れ、心から神を信じているものの――やっぱり人間には<この世の生活>というものがありますから、何がしかの罪の誘惑にあってその後手痛い刈り取りをするということは、誰もが一度は経験することなのではないでしょうか(その罪の大小に違いはあったにしても)。
わたし自身も実際そうでした。それはもちろん法律に触れるようなものではありませんでしたし、ある一定の範囲において道徳的・倫理的にも問題はないように思われることでした。でもわたし個人はこの種に関することで結構間違い(神さまの声の聞き間違いとも言います)を犯しているというか。
「そっちへ行くべきじゃないよ」、「やめたほうがいいよ」と聖霊さまの語りかけがあったとしても、「この世の法律に触れるわけではない」、「クリスチャンでもノンクリスチャンでも、普通の人はみんなやってることだ」、「それなのになんでわたしは駄目なの?」といったことがあった場合……まあ、思うんですよね。神さまに止められた気がするけど、そっちのほうが聞き違いかもしれないから、まずは自分の思ったとおりに事を行って、何か問題が起きたらその時考えよう、みたいに(^^;)
でも罪の大小に関わらず、神さまの制止の声に聞き従わず何か事を起こした場合――大抵は結構な手痛い罪の刈り取りをすることになると思います。しかもその罪の刈り取りをしながら思うんですよね。「ああ、わたしは神さまに聞き従わなかった罪の刈り取りをたった今してるんだなあ」みたいに。そして内心では神さまの正しさについてよくわかってますから、とにかくひたすらへりくだって、自分の罪を認め、放蕩息子のように「豚の食べてるレンズ豆食いたい」と思いつつ、ある一定の期間ただ黙って自分に許された状況を耐え忍ぶしかないと言いますか。
これはわたしの受けている感じからそう思う……ということなんですけど、罪の大小に関わらず、とにかく神さまは神さまに「聞き従わない」という罪を犯して人間がどこか別の道を行った場合、「じゃあ、その責任は自分で負って解決したまえ」という感じで、割と冷淡だと思います。でも一度「ごめんなさい。わたしが間違ってました。許してください。今からでも遅くないでしょうか」といったように悔い改めると、再びまたわたしたちを正しい位置へと戻し、一からやり直すようにしてくださるというか。
このことの内にはふたつくらいの大きな意義があるのかなと、自分的には思ったりします。
まずひとつ目が「神の道を用意し、神の通られる道を真っ直ぐにせよ」ということで、わたしたちが肉体的にも精神的にも霊的にも信仰の態度を真っ直ぐにする、心の内に曲がったこと、曲がった欲望があった場合は、それが真っ直ぐに矯正されるまで、神さまは何度でも繰り返し忍耐強く、同じことを繰り返されるのかなと思います。
そして二番目が、「わたしたたちが実を結ぶ者となること」です。
>>わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
(ヨハネの福音書、第15章1~5節)
おそらくこの放蕩息子の弟は、父から財産の分け前をもらって、「この世的に成功した者」となりたかったのではないでしょうか。今のわたしたちで言えば、いわゆる勝ち組と呼ばれる中でも、その上位クラスの経済的に裕福な者となりたかったというか
もちろんお父さんのほうでも、こうした弟の考えというのは、財産を分け与える前からわかっていたことでしょう。けれど、人間には誰しも「自分の欲望を成し遂げるまでは諦めきれない」と思うことが大抵ひとつかふたつはあるものであり、「神さま。どうしても諦めきれません。あなたに背いてでも、わたしはその道をゆきます」というところがあるのではないでしょうか。
これは全人類的に見てもそうだと思います。たとえば、わたし個人はゆきすぎた科学は究極的には諸刃の刃どころかただの毒でしかなくなるだろうと思っているのですが、「それでもわたしたちはそれを極めます。ええ、もちろん責任は取ります。自己責任、それがわたしのもっとも好きな言葉です」とばかり、神さまから離れて己の力に頼った肉的な道をゆきたがるというか(苦笑)
けれど、人間は間違いなく絶対に自分の罪の責任を負えません。そして神さまには最初からそのことがわかっておいででした。
>>「彼のむさぼりの罪のために、
わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、
自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。
わたしはくちびるの実を創造した者。
平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。
わたしは彼をいやそう」
と、主は仰せられる。
(イザヤ書、第57章17~19節)
また、こうもおっしゃっておられます。
>>人の心は何よりも陰険で、それは直らない。
だれが、それを知ることができよう。
わたし、主が心を探り、思いを調べ、
それぞれの生き方により、
行ないの結ぶ実によって報いる。
(エレミヤ書、第17章9~10節)
それでもなお、父なる神は――我々人間に対する愛のゆえに、神の子であるイエスさまをこの地上に遣わし、全人類の罪を彼が背負い十字架上で血の贖いをなすことにより、救いの道が開かれることをお望みになられました。
放蕩息子のことに話を戻すとしますと、ある意味ここは<信仰の実>のことに関わる箇所として読めるようにも思います。弟のほうは自分が罪深い者であると自覚していればこそ、それが信仰として実を結ぶまでに至り、神さまからも祝福されているのですが、兄のほうは宗教的戒律を窮屈な思いですべて守っている、あるいは出来うる限り守ろうとしているにも関わらず、その信仰が実を結ぶに至っていないのだろうと思います。
もちろん、神さまがお喜びになるのは当然、信仰があるだけでなく、信仰が実を結ぶに至る者ですよね。聖書に出てくる、悪魔・悪霊・サタンという存在は、信仰がない、あるいは信仰があまりない人々には「無神論最高!!」とか「神なんか信じたってろくなこたあねえぜ。それよりこの世的快楽を謳歌して時間を潰そう!」といったように囁きかけ、信仰のある人々にはそれが実を結ぶに至らぬよう、あらゆる妨害・攻撃を仕掛けてくるものだと思います
けれど、その厚い雲すらも突き抜けて、先を見ると、真に神さまにあって素晴らしい世界が開けてきます。
では、次回からはそこに至るまでにはどうしたらいいかについて、書いていきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前をください』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるのにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません』
ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
そして肥えた牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから』
そして彼らは祝宴を始めた。
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。
『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです』
すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
しかし兄は父にこう言った。
『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか』
父は彼に言った。
『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか』
(ルカの福音書、第15章11~32節)
すみません。「神を喜ぶことはあなたがたの力だから-【2】-」の前に、放蕩息子のことについて先に書いておきたいと思いますm(_ _)m
この放蕩息子の箇所は、<福音の中の福音>として有名なたとえ話ということなのですが、実をいうとわたしが初めてこの箇所を読んだ時に一番驚いたのが――聖書の注釈のところに書かれている言葉でした(^^;)
第29節の注釈に、>>兄は、父に仕えたという奴隷根性から、戒律主義の生活を維持していたにすぎなかった。とわたしの持っている聖書の注釈には書かれています。
いえ、弟のほうのお話は感動的ですし、この父というのはようするにキリスト教の父なる神のことですから、神さまはそこまで堕落した我々のことをも悔い改めるなら救ってくださる……と思えて、読んでいて元気になる、嬉しい聖書箇所でもあります。
ただ、お兄さんのことはちょっと気の毒な感じがするんですよね。何故といって彼は、弟がせっかくもらった身代を無駄遣いする間も父に仕えて家畜の世話など色々真面目にやっていたのでしょうし、そう考えるとこのお兄さんの面白くない気持ちもよくわかるような気がします(^^;)
けれど、おそらくここは、この<兄>というのは例によってというべきか、パリサイ人を暗示していると思うんですよね。
モーセの律法を事細かく守ることで、「わたしはあるゆる規定を守っていますし、あらゆる十分の一の捧げ物もしております。さあ、これであなたがわたしを祝福しないとしたら、おかしいですよね、神さま?」とでも言ったらいいのでしょうか(^^;)
もちろん、神さまはこの兄のことも弟のことも両方祝福しているとは思うのですが、カインとアベルのお話と同じく、神さまがより愛しておられるのは弟のほうだというのは明白というか。
>>ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」
(ルカの福音書、第18章10~14節)
そして、この放蕩息子のたとえは、信仰者が辿る典型的な道のような気がしたり(^^;)
弟のほうは最初に、「それをあなたが自分に与えるのは当然だ」とばかり、財産の分け前を要求しています。
わたしたちも、神さまに対してよく思いますよね。「あなたがこうしてくだされば、わたしは幸せになれるのに」とか「それなのにこれこれのものをあなたが与えてくださらないのはどういうことですか」といったように。
でも結局のところ、人間というか、その人当人とって何がもっとも幸福であるのかはわからないことのほうが多いのではないでしょうか。
この弟は父からもらった財産を無駄に費やしてしまったわけですが、そのあとハッと我に返って自分の罪深さをはっきりと自覚し、父の元へと戻っていきます。
日本はキリスト教国ではありませんから、小さい頃は両親に連れられて教会へ通ったりしたものの、キリスト教の神にあまり魅力を感じられず、その後自分の好きなとおり・思ったとおりのところを行い、人間として堕落したところをもう一度神さまに救われる……といったことは、もしかしたらあまりないかもしれません。
けれど結局、信仰者も同じなんですよね。何かをきっかけにしてキリストを主であると受け容れ、心から神を信じているものの――やっぱり人間には<この世の生活>というものがありますから、何がしかの罪の誘惑にあってその後手痛い刈り取りをするということは、誰もが一度は経験することなのではないでしょうか(その罪の大小に違いはあったにしても)。
わたし自身も実際そうでした。それはもちろん法律に触れるようなものではありませんでしたし、ある一定の範囲において道徳的・倫理的にも問題はないように思われることでした。でもわたし個人はこの種に関することで結構間違い(神さまの声の聞き間違いとも言います)を犯しているというか。
「そっちへ行くべきじゃないよ」、「やめたほうがいいよ」と聖霊さまの語りかけがあったとしても、「この世の法律に触れるわけではない」、「クリスチャンでもノンクリスチャンでも、普通の人はみんなやってることだ」、「それなのになんでわたしは駄目なの?」といったことがあった場合……まあ、思うんですよね。神さまに止められた気がするけど、そっちのほうが聞き違いかもしれないから、まずは自分の思ったとおりに事を行って、何か問題が起きたらその時考えよう、みたいに(^^;)
でも罪の大小に関わらず、神さまの制止の声に聞き従わず何か事を起こした場合――大抵は結構な手痛い罪の刈り取りをすることになると思います。しかもその罪の刈り取りをしながら思うんですよね。「ああ、わたしは神さまに聞き従わなかった罪の刈り取りをたった今してるんだなあ」みたいに。そして内心では神さまの正しさについてよくわかってますから、とにかくひたすらへりくだって、自分の罪を認め、放蕩息子のように「豚の食べてるレンズ豆食いたい」と思いつつ、ある一定の期間ただ黙って自分に許された状況を耐え忍ぶしかないと言いますか。
これはわたしの受けている感じからそう思う……ということなんですけど、罪の大小に関わらず、とにかく神さまは神さまに「聞き従わない」という罪を犯して人間がどこか別の道を行った場合、「じゃあ、その責任は自分で負って解決したまえ」という感じで、割と冷淡だと思います。でも一度「ごめんなさい。わたしが間違ってました。許してください。今からでも遅くないでしょうか」といったように悔い改めると、再びまたわたしたちを正しい位置へと戻し、一からやり直すようにしてくださるというか。
このことの内にはふたつくらいの大きな意義があるのかなと、自分的には思ったりします。
まずひとつ目が「神の道を用意し、神の通られる道を真っ直ぐにせよ」ということで、わたしたちが肉体的にも精神的にも霊的にも信仰の態度を真っ直ぐにする、心の内に曲がったこと、曲がった欲望があった場合は、それが真っ直ぐに矯正されるまで、神さまは何度でも繰り返し忍耐強く、同じことを繰り返されるのかなと思います。
そして二番目が、「わたしたたちが実を結ぶ者となること」です。
>>わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
(ヨハネの福音書、第15章1~5節)
おそらくこの放蕩息子の弟は、父から財産の分け前をもらって、「この世的に成功した者」となりたかったのではないでしょうか。今のわたしたちで言えば、いわゆる勝ち組と呼ばれる中でも、その上位クラスの経済的に裕福な者となりたかったというか
もちろんお父さんのほうでも、こうした弟の考えというのは、財産を分け与える前からわかっていたことでしょう。けれど、人間には誰しも「自分の欲望を成し遂げるまでは諦めきれない」と思うことが大抵ひとつかふたつはあるものであり、「神さま。どうしても諦めきれません。あなたに背いてでも、わたしはその道をゆきます」というところがあるのではないでしょうか。
これは全人類的に見てもそうだと思います。たとえば、わたし個人はゆきすぎた科学は究極的には諸刃の刃どころかただの毒でしかなくなるだろうと思っているのですが、「それでもわたしたちはそれを極めます。ええ、もちろん責任は取ります。自己責任、それがわたしのもっとも好きな言葉です」とばかり、神さまから離れて己の力に頼った肉的な道をゆきたがるというか(苦笑)
けれど、人間は間違いなく絶対に自分の罪の責任を負えません。そして神さまには最初からそのことがわかっておいででした。
>>「彼のむさぼりの罪のために、
わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、
自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。
わたしはくちびるの実を創造した者。
平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。
わたしは彼をいやそう」
と、主は仰せられる。
(イザヤ書、第57章17~19節)
また、こうもおっしゃっておられます。
>>人の心は何よりも陰険で、それは直らない。
だれが、それを知ることができよう。
わたし、主が心を探り、思いを調べ、
それぞれの生き方により、
行ないの結ぶ実によって報いる。
(エレミヤ書、第17章9~10節)
それでもなお、父なる神は――我々人間に対する愛のゆえに、神の子であるイエスさまをこの地上に遣わし、全人類の罪を彼が背負い十字架上で血の贖いをなすことにより、救いの道が開かれることをお望みになられました。
放蕩息子のことに話を戻すとしますと、ある意味ここは<信仰の実>のことに関わる箇所として読めるようにも思います。弟のほうは自分が罪深い者であると自覚していればこそ、それが信仰として実を結ぶまでに至り、神さまからも祝福されているのですが、兄のほうは宗教的戒律を窮屈な思いですべて守っている、あるいは出来うる限り守ろうとしているにも関わらず、その信仰が実を結ぶに至っていないのだろうと思います。
もちろん、神さまがお喜びになるのは当然、信仰があるだけでなく、信仰が実を結ぶに至る者ですよね。聖書に出てくる、悪魔・悪霊・サタンという存在は、信仰がない、あるいは信仰があまりない人々には「無神論最高!!」とか「神なんか信じたってろくなこたあねえぜ。それよりこの世的快楽を謳歌して時間を潰そう!」といったように囁きかけ、信仰のある人々にはそれが実を結ぶに至らぬよう、あらゆる妨害・攻撃を仕掛けてくるものだと思います
けれど、その厚い雲すらも突き抜けて、先を見ると、真に神さまにあって素晴らしい世界が開けてきます。
では、次回からはそこに至るまでにはどうしたらいいかについて、書いていきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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