人間関係における単純な真実、それは「助け合うか、助け合わないか」だそうです。
つまり、愛のあるところには自然、お互いにそれと意識せずとも助け合いが存在し、助け合いが存在しないところには、愛もまたない……と言いますか。
言われてみると、確かに本当にそうだなあと思いました。
家族、学校のクラスメイト、職場の上司や部下や同僚などなど……たとえば、自分が過去にちょっと嫌な目に合わされた人に対しては、「なんでわたしがあいつを助けなきゃなんないの?」と思うものでしょうし、それが積極的な意地悪行為として表れなくても、相手が困ってるのを見ても助けない、無視する、突き放した態度を取るなど、人生で一度もそんなことは誰に対してもしたことがない――という方は、まあまずいらっしゃらないと思うわけです。
また、人間は難しい生き物なので、特段相手から積極的に嫌な思いをさせられた……といったことはなくても、なんとなく顔が気に入らない、全身から醸し出される雰囲気が癇に障るなど、何かと色々あるのが普通と思うんですよね(^^;)
そこで、学校では「いじめ、ダメ、ゼッタイ!」とか、職場では「みんなで助け合って健やか職場」など、ある種のスローガンが必要になってくるというか。つまり、自分が本能的に好ましいと感じる人に対しては、人間は「愛をもって助け合いましょう」なんて、わざわざ言われなくても意識せずそうするわけですが、本能的に「やな奴」、「あんま好きじゃない」ほうに振り分けた人に対しては、意識して努力しなきゃならないということですよね。
また、そうしたところで相手がこちらに感謝したり、感謝するような態度すら微塵も見せなかったとすれば、「あ~やめやめ!こんな奴のことはもう助けない!!」みたいになるのがむしろ普通かもしれません。
キリスト教ではそうした時、イエスさまがわたしたちにそうしてくださったように、アガペーの愛によって愛するように……というのが理想とされています。大体意味としては、無償の愛、無限の愛、自己犠牲的な愛、というところでしょうか。
ギリシャ語では他に「愛」という時、フィリアー(友愛)、エロス(男女間の愛)、ストルゲー(家族愛)とあるということなのですが、基本的に、自分が好ましいと感じる人と友情というのは生まれるものでしょうし、エロスに関しては自分が好ましいと感じる異性への愛、また家族にはその家庭によって色々事情もあるとはいえ、ただ「家族だ」というだけで、互いになんらかの愛情や愛着を持っているのが普通と思うわけです。
でも、この中でアガペーの愛によって、イエスさまが我々人間を愛してくださったような愛によってすべての人を愛す……というのは、とても難しいことだと思います。最近、中世ヨーロッパ系の本を読んだりしてるのですが(※歴史等に詳しいわけではないです・笑)、戦争に次ぐ戦争ばかりで、むしろ今、よく平和になったなあと不思議に感じるくらいなのですが、そんな本を読んでるうちにふと思ったんですよね。
戦争っていうのは、もし戦っている国がふたつあった場合、お互いに膝を折った時に終わるっていうことなんだろうなあ、と。もちろん、そんな形で戦争が終結することはなく、一方がもう片方をイヤというほど打ち据えて屈服させるであるとか、武力vs武力の勝負で、総合的に力の上回ったほうが勝つという、そうしたことかもしれません。ウクライナとロシアの戦争の場合は、ロシアのほうが勝つまでやめないと宣言しているので、ウクライナのほうで膝を折って「戦争はよくない。やめよう」と言ってもロシアがやめない以上は仕方がないという、そうした戦争なのだろうとは思います。
でも、戦争というほど規模が大きくなくても、キリスト教における理想の人間関係は、互いに服従しあう関係、ということなんですよね。もしわたしの他にもうひとり誰か人がいたら、互いに相手を尊重し、(心の中で)膝を屈めている……という、人間関係が良好な場合は自然そんな形かもしれません。もしそのことを強く意識してなかったとしても。
>>兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
(ローマ人への手紙、第12章10・16・18節)
とはいえ、これもまた言うは易し、行うは横山やすし案件とは思うのですが、ちょっとだけこのことを心の片隅に留めておいて、夫婦関係、家族関係、友達関係、職場の人間関係……に当てはめて見るとわかることが多少あると思います。
つまり、奥さんのほうがいつでも旦那さんに対して膝を屈めているけれど、旦那さんはいつも立ったままでいるとか、息子さんや娘さんがお母さんに対してそうである場合が多いとか、大抵より多く愛を実践している側のほうが、足を折り、膝を屈めている場合が多いということです。
母の日はついこの間終わってしまいましたけれども、「お母さん/奥さんを立たせてあげて、自分のほうが膝を屈めて仕えるくらいの態度を取る」というのが、一年に一度だけじゃないほうがもちろんいいんだろうな~と思ったり(^^;)
あ、もちろんこの逆の場合もあるとは思うんですよ。「うちでは女房がいつも立ってて、オレのほうが正座して説教されてんだ」とか、そういう場合も……。
ただ、あるひとつの人間関係において、片方がいつも膝を折ったままで、もう片方が一向それに寄り添う気がないといった場合、何かが歪んでるか、一方が相当何かを我慢して耐えているっていうことなんじゃないかなあと思うので。。。
それではまた~!!
つまり、愛のあるところには自然、お互いにそれと意識せずとも助け合いが存在し、助け合いが存在しないところには、愛もまたない……と言いますか。
言われてみると、確かに本当にそうだなあと思いました。
家族、学校のクラスメイト、職場の上司や部下や同僚などなど……たとえば、自分が過去にちょっと嫌な目に合わされた人に対しては、「なんでわたしがあいつを助けなきゃなんないの?」と思うものでしょうし、それが積極的な意地悪行為として表れなくても、相手が困ってるのを見ても助けない、無視する、突き放した態度を取るなど、人生で一度もそんなことは誰に対してもしたことがない――という方は、まあまずいらっしゃらないと思うわけです。
また、人間は難しい生き物なので、特段相手から積極的に嫌な思いをさせられた……といったことはなくても、なんとなく顔が気に入らない、全身から醸し出される雰囲気が癇に障るなど、何かと色々あるのが普通と思うんですよね(^^;)
そこで、学校では「いじめ、ダメ、ゼッタイ!」とか、職場では「みんなで助け合って健やか職場」など、ある種のスローガンが必要になってくるというか。つまり、自分が本能的に好ましいと感じる人に対しては、人間は「愛をもって助け合いましょう」なんて、わざわざ言われなくても意識せずそうするわけですが、本能的に「やな奴」、「あんま好きじゃない」ほうに振り分けた人に対しては、意識して努力しなきゃならないということですよね。
また、そうしたところで相手がこちらに感謝したり、感謝するような態度すら微塵も見せなかったとすれば、「あ~やめやめ!こんな奴のことはもう助けない!!」みたいになるのがむしろ普通かもしれません。
キリスト教ではそうした時、イエスさまがわたしたちにそうしてくださったように、アガペーの愛によって愛するように……というのが理想とされています。大体意味としては、無償の愛、無限の愛、自己犠牲的な愛、というところでしょうか。
ギリシャ語では他に「愛」という時、フィリアー(友愛)、エロス(男女間の愛)、ストルゲー(家族愛)とあるということなのですが、基本的に、自分が好ましいと感じる人と友情というのは生まれるものでしょうし、エロスに関しては自分が好ましいと感じる異性への愛、また家族にはその家庭によって色々事情もあるとはいえ、ただ「家族だ」というだけで、互いになんらかの愛情や愛着を持っているのが普通と思うわけです。
でも、この中でアガペーの愛によって、イエスさまが我々人間を愛してくださったような愛によってすべての人を愛す……というのは、とても難しいことだと思います。最近、中世ヨーロッパ系の本を読んだりしてるのですが(※歴史等に詳しいわけではないです・笑)、戦争に次ぐ戦争ばかりで、むしろ今、よく平和になったなあと不思議に感じるくらいなのですが、そんな本を読んでるうちにふと思ったんですよね。
戦争っていうのは、もし戦っている国がふたつあった場合、お互いに膝を折った時に終わるっていうことなんだろうなあ、と。もちろん、そんな形で戦争が終結することはなく、一方がもう片方をイヤというほど打ち据えて屈服させるであるとか、武力vs武力の勝負で、総合的に力の上回ったほうが勝つという、そうしたことかもしれません。ウクライナとロシアの戦争の場合は、ロシアのほうが勝つまでやめないと宣言しているので、ウクライナのほうで膝を折って「戦争はよくない。やめよう」と言ってもロシアがやめない以上は仕方がないという、そうした戦争なのだろうとは思います。
でも、戦争というほど規模が大きくなくても、キリスト教における理想の人間関係は、互いに服従しあう関係、ということなんですよね。もしわたしの他にもうひとり誰か人がいたら、互いに相手を尊重し、(心の中で)膝を屈めている……という、人間関係が良好な場合は自然そんな形かもしれません。もしそのことを強く意識してなかったとしても。
>>兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
(ローマ人への手紙、第12章10・16・18節)
とはいえ、これもまた言うは易し、行うは横山やすし案件とは思うのですが、ちょっとだけこのことを心の片隅に留めておいて、夫婦関係、家族関係、友達関係、職場の人間関係……に当てはめて見るとわかることが多少あると思います。
つまり、奥さんのほうがいつでも旦那さんに対して膝を屈めているけれど、旦那さんはいつも立ったままでいるとか、息子さんや娘さんがお母さんに対してそうである場合が多いとか、大抵より多く愛を実践している側のほうが、足を折り、膝を屈めている場合が多いということです。
母の日はついこの間終わってしまいましたけれども、「お母さん/奥さんを立たせてあげて、自分のほうが膝を屈めて仕えるくらいの態度を取る」というのが、一年に一度だけじゃないほうがもちろんいいんだろうな~と思ったり(^^;)
あ、もちろんこの逆の場合もあるとは思うんですよ。「うちでは女房がいつも立ってて、オレのほうが正座して説教されてんだ」とか、そういう場合も……。
ただ、あるひとつの人間関係において、片方がいつも膝を折ったままで、もう片方が一向それに寄り添う気がないといった場合、何かが歪んでるか、一方が相当何かを我慢して耐えているっていうことなんじゃないかなあと思うので。。。
それではまた~!!
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