【大天使ミカエル】クラウディオ・コエーリョ
>>悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
(エペソ人への手紙、第6章11~18節)
今回の記事は、全部で21回連載してきたマーリン・キャロザース先生著の『聖なる楽しみ』(生ける水の川出版刊)の補足記事となりますm(_ _)m
悪魔(サタン)・悪霊に対する霊的戦い……などというと、大抵の方が「何言っとんのや。頭おかしいんとちゃうか☆」と反応するのが、まともというか、常識ある人の反応と認められることと思います。
けれども、人類の歴史の最初から、人間の中には「神」、「悪魔・悪霊」といった概念や、その存在を強く感じる何かがあったらしい――というのは、誰もがご存知のことと思います。
世界の三大宗教と言われる、仏教・キリスト教・イスラム教のすべてに悪魔といった存在に対して言及がありますし、世界最古の文明と言われるメソポタミア文明、その頃にも人々が神という存在を崇め、悪魔や悪霊といった存在が人に病魔などの害悪をもたらす……といったことを信じていたのがわかります。
人間が想像力というものを得たのは、ある本によると7万年くらい前だそうですが、けれども、こうした神や悪魔といった存在は、人間の想像力が生みだしたもの――というより、人類誕生の以前より、そうした霊的存在はあり、そのような目には見えないけれども間違いなくその存在を<いる>と感じるという、人間にとっての霊の世界というのはそうしたことだったのではないでしょうか。
ところで、前回の「霊的最前線」に出ていく必要が何故あるのかということですが、当の本人が自覚している、自覚していないにせよ、悪魔(サタン)・悪霊といった存在に囚われ、苦しめられている人というのは大勢います。
そして、敵の陣地に捕虜となっているそうした人々を勝ち取るというのがクリスチャンにとってイエスさまの福音を述べ伝えるということであり、教会でイエスさまのことを受け容れる告白をし、聖霊さまを受けると……悪魔(サタン)・悪霊との絆を断ち切ることが出来ます。
『聖なる楽しみ』についての連載、その第17回目のところで、個人的にヨガはクリスチャンがしていいものなのかわからないので、一応念のため、自分はしない……といったように書きました。
何故わたしが個人的にそのように思ったかというと、悪魔(サタン)・悪霊関係のことについては、「何が一体<破れ口>になるのか」、正直わからないことがあるからなんですよね(^^;)
この<破れ口>というのは、敵(悪魔・悪霊)が侵入してくる傷口のようなものです。ほんの小さな傷口から質の悪いウィルスが入りこんで大事に至る――ということがあるものですが、この<破れ口>や傷口については、次のようなたとえ話がわかりやすいと思います。
わたしが自分の思考、良い考え、神さまからの知性……そのように感じるものを仮に白いタオルであるとします。他に、敵(悪魔・悪霊)からのものである思考や知性(たとえば黒魔術など)を黒いタオルであるとして、このふたつを密接にねじって撚り合わせた場合、どうなると思いますか?
どこからどこまでが自分の思考、良い考え、神さまからの知性であり、どこからが敵のものなのか、いまいちよく見分けがつかなくなると思います。(わたしの感じる限りにおいて)、悪魔(サタン)・悪霊がやりたいことというのは、どうやらこうしたことのようです。わたしたちの心にも肉体にも、どこかしら弱いところがあって、たとえばわたしが金銭欲に弱かったとすれば、そこが傷口になって借金まみれとなり、「こんな自分がイエスさまにお仕えするなどとんでもない」ということになるかもしれません。しかもその借金の出来た理由というのが、競馬やパチンコなどのギャンブルが原因で、家族にも非常に迷惑をかけている……といった種類のものだったらどうでしょうか。
こうした罪の思いというのを悪魔(サタン)・悪霊というのはよくわたしたちの思考に入れてこようとしますし、最終的にこのよじれた白のタオルと黒のタオルを引き離すには、非常な決断力、あるいは痛みに耐える忍耐力などが必要になってくると思います。
コカイン中毒やアルコール中毒、ギャンブル中毒、ショッピング中毒など、そうしたどこからどこまでが自分の思いで、どこからが敵の攻撃領域なのか、まるでわからなくなっている方も多くいると思います。そしてこうした場合、傷口になっている侵入口、その<破れ口>を閉ざす祈りというのが必要になってくるのです。
>>もしあなたが人生で悪霊に入口を開けてしまったことがあるなら、それを閉じなければなりません。
「もし私たちが私たちの罪を告白するなら、神は忠信で正しい方であられ、私たちに対してそれらの罪を赦し、私たちをすべての不義から清めてくださいます」
(ヨハネの手紙第一、第1章9節)
もしあなたが以上述べてきたことと何らかの関わりを持ったことがあるとしても、次のように祈ることによってその扉を閉ざすことができます。
「お父さま、私は○○と関わりを持ったことをあなたに告白します。そのようなことはあなたに忌み嫌われることであると、私は知っています。私がこのことで犯した罪のために、あなたにへりくだって赦しを求めます。私の行ないによってできた悪霊の入口を取り除き、私を罪から清め、イエス様の尊い血でその入口を永遠に閉ざしてくださるよう、お願いいたします。私はこのことを求め、またあなたに感謝します。イエス様の御名によって」
それから、あなたがサタンと彼の悪霊たちに対し、声を出して次のように言うことをお勧めします。
「サタンと悪霊ども、私は天の父に、私が○○に関わったことの赦しを求め、その赦しを受けた。私は今、信仰により、私のために十字架上で流されたイエス・キリストの血により、私の生活のその領域の入口を、おまえたちに対して永遠に閉ざす。イエスの御名によって、おまえたちに命じる、私から去れ!」
力の強い悪霊で汚染されている場合は、解放のために他の一人あるいは複数の人々の助けを必要とすることがあります。あなたが熱心に祈り、どんな犠牲を払ってでも解放されることを願うなら、主はあなたがどうする必要があるかを教えて下さり、確かに、捕われ人を自由にしてくださいます。
(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊)
そして、この傷口が何故できたかというと、日常で満たされない思いを感じていることが原因でしたら、その部分を聖霊さまによって満たしてもらう必要があるでしょうし、親から虐待されたり、過去にレイプされたことや、誰かに対する憎しみが原因でしたら、その傷が癒されるように祈ったり、また二度とその<破れ口>から悪魔(サタン)・悪霊といったものが入ってこないように祈ることも大切なことです(個人での祈りも有効ですが、教会でより多くの方に祈ってもらうと、さらに強い効力、聖霊さまからの癒しがあるのではないでしょうか)。
自分の人生上の問題について、悪魔(サタン)・悪霊が働いていると感じる方というのは、実際そう多くはないと思います。けれどもそれでいて、いわゆる霊感商法というのでしょうか。ああしたものに引っかかる方の中には、「あなたの家庭に問題のあるのは、悪い霊の仕業だ」と出会った瞬間に見抜かれ、三十万する壺を買い、言われたとおり「悪霊の入ってくる細い隙間がある」という北東の方角にこの壺を置くこにとした……など、人から見れば「バッカじゃね?☆」といったことに惑わされるのは、「多少なりとも心あたりがある」という場合が案外あるからだと思うんですよね(この心理的カラクリというのは簡単なもので、家庭に何も問題のない人などほとんどいないことを思ってみれば――大抵の方が少しくらいはそうした<隙>を持っているということです)。
また、悪魔・悪霊といった存在を、そう本格的に信じているわけでもないのに、「あなたには悪い霊が取り憑ついている。除霊してあげましょう」とお寺系の宗教の誰かしらに言われたら、「とりあえず一応念のため」と思って、そうしてもらう方も多いのではないでしょうか(特にお金がかからなければなおそうだと思います^^;)。
「悪魔・悪霊だって?馬鹿らしい」と思いつつも、「何かそうした霊らしきものはいるよね」ということを信じている方はとても多いですし、こうした<霊関係>のことについて、系統立てて説明しようする宗教というのは、かなりのところ用心が必要だと個人的には思います(その時点で「オカシイ」ということに、クリスチャンであれば気づけなければ駄目です)。
たとえば、人間は肉体と心(精神)と魂(霊魂)から出来ていて、この霊魂は普段目には見えないが、霊の世界でこの霊魂の中核にある魂魄を破壊されると、その人は二度と生まれ変わってこの世に誕生することが出来ない、それが霊的死である……など、ちょっと聞くと物語性があって頷きたくなるようなところもありますが、結局のところ「誰にも確かめようがない」ことでもあるわけですし、わたし自身、霊の世界で誰かの魂魄を破壊されるその瞬間を目の当たりにするといったことは――今後死んでも、あるいは死んでからもないのではないかと思っています。
それはさておき、霊の世界については、肉体にある以上、その一部しか人は知ることが出来ない……というのが、キリスト教、また聖書の教えているところです。神さま、イエスさまの御心により、聖霊さまを通してその一部を啓示などによって知るというのは、旧約聖書の預言者たちや、新約聖書の聖徒のみならず、現在のクリスチャンに対しても起きることです。
けれど、そうした方が語ることというのは、「霊の世界(神さまや天国に属する世界)の一部を知っただけでもこんなに素晴らしいのに、死んでそのすべてをいつか知ることが出来たとしたら、それはどれほどのことだろう!」といったことであり、たとえば、霊の世界はすべてで十二階層から出来ているとか、そのすべてを見渡して私は感嘆した――といった証しについては、少なくともわたしは聞いたことがありません(^^;)
それで、ですね。何を言いたいかと言いますと、聖霊による啓示でない以外のそうした霊的情報というのは、大抵がその人自身の頭が考えだしたものか、あるいは悪魔・悪霊が働いて、そちらから得た情報のいずれかということです。
そしてこの際の悪魔(サタン)・悪霊の目的は何かというと、自分の教えに染めることで、真実の神(イエス・キリスト)へ立ち返る道から遠ざける、もっと言うなら永遠に二度とそちらへと続く道を閉ざしてしまうということです。
こうした道へ迷いこんでしまった場合、先にあげた白と黒のタオルの例で言うとしたら、まず白いタオルが灰色になり、もう元の白い状態には戻れないだろう……というくらい、オカルトの道などにどっぷり漬かってしまった、という方もいらっしゃるかもしれません(マーリン・キャロザース先生の奥さまのメアリーさんは、救われる以前、オカルトに関わっていたことがあり、その頃の自分は霊的にまったく惨めな状態だった、というように告白されていたと思います)。
わたしも小学生くらいだった頃、こっくりさんを何度かやったことがあり、わたしはその頃からこうした事柄については非常に懐疑的な性格をしていたので、自分では一切指は動かしませんでした。けれど、もうひとりの当時の友達がですね、まあ、動かしていたんだろうなと思います(^^;)でも本人は「わたしは動かしていないのに!」みたいに言うんですよ(笑)そして、最後に「そろそろお帰りください」って言うと、「か・え・り・た・く・な・い」って文字が動いていったわけなんです。んで、その瞬間その場にいた5~6人の子供たちは「ギョエ~!!」みたいになって、慌てて教室から出て逃げ帰りました。
もちろん、ああしたこっくりさんというのは、二人のうちのどっちかが無意識のうちにも手を動かしているというのが答えらしいですが(と、本に書いてあるのを昔読んだことがあります)、でもこっくりさんについては、こっくりさんをやってる最中に隣のクラスの子がちょっとおかしくなったですとか、別の学年の生徒が突然おかしくなって窓から飛び降りた……といった噂話がいつでもありました。
そして個人的に思うに、「こっくりさん?馬鹿らしい」というのが一般的な大人の見解でしょうけれども、あれは降霊術の一種ですから、時に何か変な霊がやって来るとか、そうしたことはありうるだろうと思っています。
また、こうしたことが自分でも知らない間に悪魔・悪霊の侵入してくる<破れ口>となって、そこから不運がはじまるということもありえます。「念のため、ヨガはやめておこう」とわたしが考える理由というのが、実はそれです。ヨガをやったからといって、ヒンズー教徒になるわけでないことは確かです。けれども、こうした霊的な何かで不幸になった経験のある人で、そののち、イエスさまのことを知って救われた人というのは、絶対的にこうした事柄について用心深くなるということなんです(^^;)
一度、悪魔・悪霊側の侵入を許した方というのは、霊的な意味で向こうのコントロール下に置かれるということになります。たとえば、新興宗教的なものを信じている方で、キリスト教の教えの何かを聞いただけで怒り狂ったようになったり……といった話を聞くことが時にありますが、この場合は、悪霊側の支配がそれだけ強く、霊的に解放される道の方角へは向かわせないように阻んでいる可能性が高いということなんです。
また、こうした悪魔・悪霊の支配が強いからといって、不幸な目に遭っている……という人ばかりでもないんですよね。新興宗教の教祖の方など、お金と権力もあり、家族も全員健康で幸せそうだ――といった場合も結構あると思います。ただ唯一、イエスさまのことを教会で信仰告白しようとは思わないというだけで、イエスさま自身のことは歴史上の優れた人物として褒めそやしているといった場合も多いのではないかと思います。
けれども、個人的な経験として、わたしが救われることが出来たのは、唯一イエス・キリストの御名によってだけでした。長く、心身症によって普通に働くということが出来ませんでしたので、「働けないような人間は死ぬしかない」と思い、悩んでいましたから、確か19歳か20歳くらいの頃に、神社に厄払いに行ったことがあります。わたしの心理としては、それで治るというよりも、まあようするに「藁にも縋る思い」というやつですよね。いくらお金払ったのか忘れてしまったんですけど(確か2,500円くらいだったかなあ^^;)、神社の中に厄年の人だけ通されて、神主さんみたいな方がお祓いしてくださるんですけど、その時、紙の人形みたいなものを渡されて、神主さんがお祓いをする間、悪いところがあったらその紙人形を悪いところに当てなさいと言われました。それで言われたとおりにしたんですけど、結果からいえば、このお祓い、わたしにはなんの効果もなかったのです(^^;)
日本ではイエス・キリスト以外の霊的なものが宗教として主流ですから、自分では「縁起がいい」と思ってしていることが、悪魔・悪霊との繋がりや結びつきを作ってしまうことが案外多いのではないでしょうか(一般に言われるパワースポット参りというのもそうです。パワースポットと呼ばれるところは、霊の力が強いからこそパワースポットなのであり、色々な霊の力が働いていますから、それらからむしろ悪い影響を受けるということがあると思います)。
これもまた小学生の頃、神社からもらったお守りの中身がどうなっているのか見たくてたまらなくなり、中を開いてしまったということがわたしにはあります。中には赤い文字で<巡礼>とあるだけでしたが、その瞬間、わたしものすごく縛られました。ようするに、見てはいけないものを見てしまったという、強い罪悪感に、です。もちろん、今はわかります。お守り自身にはなんの力もないですし、それに力を持たせるのも持たせないのも、人間の思いひとつだということは。けれどもわたし、昔から信心深い性格をしていたので、「あーっ、もうものすごく悪いことしちゃった!!」と思って、そのことは結構そのあとも尾を引きました。。。
こうした、特に恐れるべきでないものを恐れたり、怖がらせたりする力が悪魔・悪霊にはあり、また、わたしたちのそうした弱い部分を巧みに突いてきます。こうした事柄から防御する力というのは、わたしの知る限りイエス・キリストから以外ありませんし、この方の御名を通した時にのみ、(悪魔・悪霊からの)霊的な開放が起こってくるというのは本当のことです。
>>「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、
羊の毛のようになる。
もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、
この国の良い物を食べることができる。
しかし、もし拒み、そむくなら、
剣にのまれる」と、主の御口が語られた。
(イザヤ書、第1章18~20節)
>>長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。
すると、彼は私にこう言った。
「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を子羊(イエス・キリスト)の血で洗って、白くしたのです。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことありません。
なぜなら、御座の正面におられる子羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」
(ヨハネの福音書、第7章13~17節)
さて、例の白いタオルと黒いタオルですが、一度灰色になったタオルは二度とは元に戻らない……と考えるのが普通かもしれません。どんなに超強力な洗剤も、わたしたちの罪で汚れた性質や、悪魔・悪霊によって汚された霊的領域を清めることは出来ないと思います。
けれども、唯一イエス・キリストの御名を通した時のみ――<破れ口>から侵入してきた悪魔・悪霊といったものがそこから追い出され、灰色のタオルも黒いタオルも、神さまにあってまったく白く清めていただくことが出来ます。これはただ神にのみ成しうることで、わたしたちの罪の状態というのは言ってみれば、心の中に灰色と黒のタオルがぐちゃっと置かれていて、自分でもどうしていいかわからないわけですが、イエスさまは自らそれを洗濯してわたしたちの心を隅々まで綺麗に整理整頓してくださるのです(そしてこれがクリスチャンにとっての清め、新生にあたることだと言っていいと思います)。
わたしたちが神の御名を信じているにしても、イエスさまがそこまでしなくてはいけない理由はないはずです。けれども、わたしたちがまた不注意にごちゃっ☆とさせてしまった時にも、イエスさまは繰り返し聖霊さまを通して同じことを何度でもしてくださる方なのです。
そして、一度このような霊的状態に達した人というのは――もう、イエス・キリストに由来しない霊のことは一切受けつけないようになります。何故なら、イエスさま自らの手で清めてくださったのに、他の小汚い霊の影響をあらためて受けるだなんて、もはや馬鹿らしいというか、何より、自分の霊を健全に保つことがどういうことかが一度わかると、他の宗教的なことやオカルトや占い、あるいはそれに関連したことにはまったく興味がなくなるのです。
まとまりのない文章で申し訳ありませんが、このことについては次回、再び取り上げて記事にしてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
>>悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
(エペソ人への手紙、第6章11~18節)
今回の記事は、全部で21回連載してきたマーリン・キャロザース先生著の『聖なる楽しみ』(生ける水の川出版刊)の補足記事となりますm(_ _)m
悪魔(サタン)・悪霊に対する霊的戦い……などというと、大抵の方が「何言っとんのや。頭おかしいんとちゃうか☆」と反応するのが、まともというか、常識ある人の反応と認められることと思います。
けれども、人類の歴史の最初から、人間の中には「神」、「悪魔・悪霊」といった概念や、その存在を強く感じる何かがあったらしい――というのは、誰もがご存知のことと思います。
世界の三大宗教と言われる、仏教・キリスト教・イスラム教のすべてに悪魔といった存在に対して言及がありますし、世界最古の文明と言われるメソポタミア文明、その頃にも人々が神という存在を崇め、悪魔や悪霊といった存在が人に病魔などの害悪をもたらす……といったことを信じていたのがわかります。
人間が想像力というものを得たのは、ある本によると7万年くらい前だそうですが、けれども、こうした神や悪魔といった存在は、人間の想像力が生みだしたもの――というより、人類誕生の以前より、そうした霊的存在はあり、そのような目には見えないけれども間違いなくその存在を<いる>と感じるという、人間にとっての霊の世界というのはそうしたことだったのではないでしょうか。
ところで、前回の「霊的最前線」に出ていく必要が何故あるのかということですが、当の本人が自覚している、自覚していないにせよ、悪魔(サタン)・悪霊といった存在に囚われ、苦しめられている人というのは大勢います。
そして、敵の陣地に捕虜となっているそうした人々を勝ち取るというのがクリスチャンにとってイエスさまの福音を述べ伝えるということであり、教会でイエスさまのことを受け容れる告白をし、聖霊さまを受けると……悪魔(サタン)・悪霊との絆を断ち切ることが出来ます。
『聖なる楽しみ』についての連載、その第17回目のところで、個人的にヨガはクリスチャンがしていいものなのかわからないので、一応念のため、自分はしない……といったように書きました。
何故わたしが個人的にそのように思ったかというと、悪魔(サタン)・悪霊関係のことについては、「何が一体<破れ口>になるのか」、正直わからないことがあるからなんですよね(^^;)
この<破れ口>というのは、敵(悪魔・悪霊)が侵入してくる傷口のようなものです。ほんの小さな傷口から質の悪いウィルスが入りこんで大事に至る――ということがあるものですが、この<破れ口>や傷口については、次のようなたとえ話がわかりやすいと思います。
わたしが自分の思考、良い考え、神さまからの知性……そのように感じるものを仮に白いタオルであるとします。他に、敵(悪魔・悪霊)からのものである思考や知性(たとえば黒魔術など)を黒いタオルであるとして、このふたつを密接にねじって撚り合わせた場合、どうなると思いますか?
どこからどこまでが自分の思考、良い考え、神さまからの知性であり、どこからが敵のものなのか、いまいちよく見分けがつかなくなると思います。(わたしの感じる限りにおいて)、悪魔(サタン)・悪霊がやりたいことというのは、どうやらこうしたことのようです。わたしたちの心にも肉体にも、どこかしら弱いところがあって、たとえばわたしが金銭欲に弱かったとすれば、そこが傷口になって借金まみれとなり、「こんな自分がイエスさまにお仕えするなどとんでもない」ということになるかもしれません。しかもその借金の出来た理由というのが、競馬やパチンコなどのギャンブルが原因で、家族にも非常に迷惑をかけている……といった種類のものだったらどうでしょうか。
こうした罪の思いというのを悪魔(サタン)・悪霊というのはよくわたしたちの思考に入れてこようとしますし、最終的にこのよじれた白のタオルと黒のタオルを引き離すには、非常な決断力、あるいは痛みに耐える忍耐力などが必要になってくると思います。
コカイン中毒やアルコール中毒、ギャンブル中毒、ショッピング中毒など、そうしたどこからどこまでが自分の思いで、どこからが敵の攻撃領域なのか、まるでわからなくなっている方も多くいると思います。そしてこうした場合、傷口になっている侵入口、その<破れ口>を閉ざす祈りというのが必要になってくるのです。
>>もしあなたが人生で悪霊に入口を開けてしまったことがあるなら、それを閉じなければなりません。
「もし私たちが私たちの罪を告白するなら、神は忠信で正しい方であられ、私たちに対してそれらの罪を赦し、私たちをすべての不義から清めてくださいます」
(ヨハネの手紙第一、第1章9節)
もしあなたが以上述べてきたことと何らかの関わりを持ったことがあるとしても、次のように祈ることによってその扉を閉ざすことができます。
「お父さま、私は○○と関わりを持ったことをあなたに告白します。そのようなことはあなたに忌み嫌われることであると、私は知っています。私がこのことで犯した罪のために、あなたにへりくだって赦しを求めます。私の行ないによってできた悪霊の入口を取り除き、私を罪から清め、イエス様の尊い血でその入口を永遠に閉ざしてくださるよう、お願いいたします。私はこのことを求め、またあなたに感謝します。イエス様の御名によって」
それから、あなたがサタンと彼の悪霊たちに対し、声を出して次のように言うことをお勧めします。
「サタンと悪霊ども、私は天の父に、私が○○に関わったことの赦しを求め、その赦しを受けた。私は今、信仰により、私のために十字架上で流されたイエス・キリストの血により、私の生活のその領域の入口を、おまえたちに対して永遠に閉ざす。イエスの御名によって、おまえたちに命じる、私から去れ!」
力の強い悪霊で汚染されている場合は、解放のために他の一人あるいは複数の人々の助けを必要とすることがあります。あなたが熱心に祈り、どんな犠牲を払ってでも解放されることを願うなら、主はあなたがどうする必要があるかを教えて下さり、確かに、捕われ人を自由にしてくださいます。
(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊)
そして、この傷口が何故できたかというと、日常で満たされない思いを感じていることが原因でしたら、その部分を聖霊さまによって満たしてもらう必要があるでしょうし、親から虐待されたり、過去にレイプされたことや、誰かに対する憎しみが原因でしたら、その傷が癒されるように祈ったり、また二度とその<破れ口>から悪魔(サタン)・悪霊といったものが入ってこないように祈ることも大切なことです(個人での祈りも有効ですが、教会でより多くの方に祈ってもらうと、さらに強い効力、聖霊さまからの癒しがあるのではないでしょうか)。
自分の人生上の問題について、悪魔(サタン)・悪霊が働いていると感じる方というのは、実際そう多くはないと思います。けれどもそれでいて、いわゆる霊感商法というのでしょうか。ああしたものに引っかかる方の中には、「あなたの家庭に問題のあるのは、悪い霊の仕業だ」と出会った瞬間に見抜かれ、三十万する壺を買い、言われたとおり「悪霊の入ってくる細い隙間がある」という北東の方角にこの壺を置くこにとした……など、人から見れば「バッカじゃね?☆」といったことに惑わされるのは、「多少なりとも心あたりがある」という場合が案外あるからだと思うんですよね(この心理的カラクリというのは簡単なもので、家庭に何も問題のない人などほとんどいないことを思ってみれば――大抵の方が少しくらいはそうした<隙>を持っているということです)。
また、悪魔・悪霊といった存在を、そう本格的に信じているわけでもないのに、「あなたには悪い霊が取り憑ついている。除霊してあげましょう」とお寺系の宗教の誰かしらに言われたら、「とりあえず一応念のため」と思って、そうしてもらう方も多いのではないでしょうか(特にお金がかからなければなおそうだと思います^^;)。
「悪魔・悪霊だって?馬鹿らしい」と思いつつも、「何かそうした霊らしきものはいるよね」ということを信じている方はとても多いですし、こうした<霊関係>のことについて、系統立てて説明しようする宗教というのは、かなりのところ用心が必要だと個人的には思います(その時点で「オカシイ」ということに、クリスチャンであれば気づけなければ駄目です)。
たとえば、人間は肉体と心(精神)と魂(霊魂)から出来ていて、この霊魂は普段目には見えないが、霊の世界でこの霊魂の中核にある魂魄を破壊されると、その人は二度と生まれ変わってこの世に誕生することが出来ない、それが霊的死である……など、ちょっと聞くと物語性があって頷きたくなるようなところもありますが、結局のところ「誰にも確かめようがない」ことでもあるわけですし、わたし自身、霊の世界で誰かの魂魄を破壊されるその瞬間を目の当たりにするといったことは――今後死んでも、あるいは死んでからもないのではないかと思っています。
それはさておき、霊の世界については、肉体にある以上、その一部しか人は知ることが出来ない……というのが、キリスト教、また聖書の教えているところです。神さま、イエスさまの御心により、聖霊さまを通してその一部を啓示などによって知るというのは、旧約聖書の預言者たちや、新約聖書の聖徒のみならず、現在のクリスチャンに対しても起きることです。
けれど、そうした方が語ることというのは、「霊の世界(神さまや天国に属する世界)の一部を知っただけでもこんなに素晴らしいのに、死んでそのすべてをいつか知ることが出来たとしたら、それはどれほどのことだろう!」といったことであり、たとえば、霊の世界はすべてで十二階層から出来ているとか、そのすべてを見渡して私は感嘆した――といった証しについては、少なくともわたしは聞いたことがありません(^^;)
それで、ですね。何を言いたいかと言いますと、聖霊による啓示でない以外のそうした霊的情報というのは、大抵がその人自身の頭が考えだしたものか、あるいは悪魔・悪霊が働いて、そちらから得た情報のいずれかということです。
そしてこの際の悪魔(サタン)・悪霊の目的は何かというと、自分の教えに染めることで、真実の神(イエス・キリスト)へ立ち返る道から遠ざける、もっと言うなら永遠に二度とそちらへと続く道を閉ざしてしまうということです。
こうした道へ迷いこんでしまった場合、先にあげた白と黒のタオルの例で言うとしたら、まず白いタオルが灰色になり、もう元の白い状態には戻れないだろう……というくらい、オカルトの道などにどっぷり漬かってしまった、という方もいらっしゃるかもしれません(マーリン・キャロザース先生の奥さまのメアリーさんは、救われる以前、オカルトに関わっていたことがあり、その頃の自分は霊的にまったく惨めな状態だった、というように告白されていたと思います)。
わたしも小学生くらいだった頃、こっくりさんを何度かやったことがあり、わたしはその頃からこうした事柄については非常に懐疑的な性格をしていたので、自分では一切指は動かしませんでした。けれど、もうひとりの当時の友達がですね、まあ、動かしていたんだろうなと思います(^^;)でも本人は「わたしは動かしていないのに!」みたいに言うんですよ(笑)そして、最後に「そろそろお帰りください」って言うと、「か・え・り・た・く・な・い」って文字が動いていったわけなんです。んで、その瞬間その場にいた5~6人の子供たちは「ギョエ~!!」みたいになって、慌てて教室から出て逃げ帰りました。
もちろん、ああしたこっくりさんというのは、二人のうちのどっちかが無意識のうちにも手を動かしているというのが答えらしいですが(と、本に書いてあるのを昔読んだことがあります)、でもこっくりさんについては、こっくりさんをやってる最中に隣のクラスの子がちょっとおかしくなったですとか、別の学年の生徒が突然おかしくなって窓から飛び降りた……といった噂話がいつでもありました。
そして個人的に思うに、「こっくりさん?馬鹿らしい」というのが一般的な大人の見解でしょうけれども、あれは降霊術の一種ですから、時に何か変な霊がやって来るとか、そうしたことはありうるだろうと思っています。
また、こうしたことが自分でも知らない間に悪魔・悪霊の侵入してくる<破れ口>となって、そこから不運がはじまるということもありえます。「念のため、ヨガはやめておこう」とわたしが考える理由というのが、実はそれです。ヨガをやったからといって、ヒンズー教徒になるわけでないことは確かです。けれども、こうした霊的な何かで不幸になった経験のある人で、そののち、イエスさまのことを知って救われた人というのは、絶対的にこうした事柄について用心深くなるということなんです(^^;)
一度、悪魔・悪霊側の侵入を許した方というのは、霊的な意味で向こうのコントロール下に置かれるということになります。たとえば、新興宗教的なものを信じている方で、キリスト教の教えの何かを聞いただけで怒り狂ったようになったり……といった話を聞くことが時にありますが、この場合は、悪霊側の支配がそれだけ強く、霊的に解放される道の方角へは向かわせないように阻んでいる可能性が高いということなんです。
また、こうした悪魔・悪霊の支配が強いからといって、不幸な目に遭っている……という人ばかりでもないんですよね。新興宗教の教祖の方など、お金と権力もあり、家族も全員健康で幸せそうだ――といった場合も結構あると思います。ただ唯一、イエスさまのことを教会で信仰告白しようとは思わないというだけで、イエスさま自身のことは歴史上の優れた人物として褒めそやしているといった場合も多いのではないかと思います。
けれども、個人的な経験として、わたしが救われることが出来たのは、唯一イエス・キリストの御名によってだけでした。長く、心身症によって普通に働くということが出来ませんでしたので、「働けないような人間は死ぬしかない」と思い、悩んでいましたから、確か19歳か20歳くらいの頃に、神社に厄払いに行ったことがあります。わたしの心理としては、それで治るというよりも、まあようするに「藁にも縋る思い」というやつですよね。いくらお金払ったのか忘れてしまったんですけど(確か2,500円くらいだったかなあ^^;)、神社の中に厄年の人だけ通されて、神主さんみたいな方がお祓いしてくださるんですけど、その時、紙の人形みたいなものを渡されて、神主さんがお祓いをする間、悪いところがあったらその紙人形を悪いところに当てなさいと言われました。それで言われたとおりにしたんですけど、結果からいえば、このお祓い、わたしにはなんの効果もなかったのです(^^;)
日本ではイエス・キリスト以外の霊的なものが宗教として主流ですから、自分では「縁起がいい」と思ってしていることが、悪魔・悪霊との繋がりや結びつきを作ってしまうことが案外多いのではないでしょうか(一般に言われるパワースポット参りというのもそうです。パワースポットと呼ばれるところは、霊の力が強いからこそパワースポットなのであり、色々な霊の力が働いていますから、それらからむしろ悪い影響を受けるということがあると思います)。
これもまた小学生の頃、神社からもらったお守りの中身がどうなっているのか見たくてたまらなくなり、中を開いてしまったということがわたしにはあります。中には赤い文字で<巡礼>とあるだけでしたが、その瞬間、わたしものすごく縛られました。ようするに、見てはいけないものを見てしまったという、強い罪悪感に、です。もちろん、今はわかります。お守り自身にはなんの力もないですし、それに力を持たせるのも持たせないのも、人間の思いひとつだということは。けれどもわたし、昔から信心深い性格をしていたので、「あーっ、もうものすごく悪いことしちゃった!!」と思って、そのことは結構そのあとも尾を引きました。。。
こうした、特に恐れるべきでないものを恐れたり、怖がらせたりする力が悪魔・悪霊にはあり、また、わたしたちのそうした弱い部分を巧みに突いてきます。こうした事柄から防御する力というのは、わたしの知る限りイエス・キリストから以外ありませんし、この方の御名を通した時にのみ、(悪魔・悪霊からの)霊的な開放が起こってくるというのは本当のことです。
>>「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、
羊の毛のようになる。
もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、
この国の良い物を食べることができる。
しかし、もし拒み、そむくなら、
剣にのまれる」と、主の御口が語られた。
(イザヤ書、第1章18~20節)
>>長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。
すると、彼は私にこう言った。
「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を子羊(イエス・キリスト)の血で洗って、白くしたのです。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことありません。
なぜなら、御座の正面におられる子羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」
(ヨハネの福音書、第7章13~17節)
さて、例の白いタオルと黒いタオルですが、一度灰色になったタオルは二度とは元に戻らない……と考えるのが普通かもしれません。どんなに超強力な洗剤も、わたしたちの罪で汚れた性質や、悪魔・悪霊によって汚された霊的領域を清めることは出来ないと思います。
けれども、唯一イエス・キリストの御名を通した時のみ――<破れ口>から侵入してきた悪魔・悪霊といったものがそこから追い出され、灰色のタオルも黒いタオルも、神さまにあってまったく白く清めていただくことが出来ます。これはただ神にのみ成しうることで、わたしたちの罪の状態というのは言ってみれば、心の中に灰色と黒のタオルがぐちゃっと置かれていて、自分でもどうしていいかわからないわけですが、イエスさまは自らそれを洗濯してわたしたちの心を隅々まで綺麗に整理整頓してくださるのです(そしてこれがクリスチャンにとっての清め、新生にあたることだと言っていいと思います)。
わたしたちが神の御名を信じているにしても、イエスさまがそこまでしなくてはいけない理由はないはずです。けれども、わたしたちがまた不注意にごちゃっ☆とさせてしまった時にも、イエスさまは繰り返し聖霊さまを通して同じことを何度でもしてくださる方なのです。
そして、一度このような霊的状態に達した人というのは――もう、イエス・キリストに由来しない霊のことは一切受けつけないようになります。何故なら、イエスさま自らの手で清めてくださったのに、他の小汚い霊の影響をあらためて受けるだなんて、もはや馬鹿らしいというか、何より、自分の霊を健全に保つことがどういうことかが一度わかると、他の宗教的なことやオカルトや占い、あるいはそれに関連したことにはまったく興味がなくなるのです。
まとまりのない文章で申し訳ありませんが、このことについては次回、再び取り上げて記事にしてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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