神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

主にある勝利。

2018年05月10日 | キリスト教


 聖書には、「恐れるな」という言葉が365回、喜び、ということについては800回以上言及があるとのことだったのですが――この間ふと(マーリン・キャロザースさんの本を読んでいて)「そういえば、聖書には<勝利>という言葉が何度も出てくるけれど、これも数えたら全部で何箇所くらいになるんだろう?」と思ったんですよね。

 数えるの大変なので、「どなたか数えて教えてくださらないかしら♪」とか、他力本願なことを思ってしまうのですが、以下は<勝利>ということについて言及された聖書箇所の抜粋となります


 >>主は、私の主に仰せられる。

「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」

(詩篇110編1節)


 >>わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。

 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

(ヨハネの福音書、第16章33節)


 >>なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。

(ヨハネの手紙第一、第5章4~5節)


 >>朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」

 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

(コリント人への手紙第一、第15章53~58節)


 けれど、マーリン・キャロザースさんの著書にも書かれてあるとおり、この世というところではすべての人が<勝利>しているわけではありませんし、わたしもそうかもしれませんが、「人生の敗北者」のようにしか見えないクリスチャンの方も多いのではないでしょうか。

 そのことについてマーリンさんは、聖書に書かれてある「すべてのことを神さまに感謝し喜ぶ」という逆のことをクリスチャンが行う場合、その人生はノンクリスチャンの方と実質まるで変わりのないものとなる……といったように御著書の中で書かれていたと思います。

 すなわち、あらゆることについてつぶやき、不満と他人の悪口などでわたしたちがいっぱいになるなら――イエスさまの十字架を信じていても、その勝利に与れる者とはなれない……ということですよね。

 もちろん、神さまの召命と約束は変わることがありませんから、イエスさまのことを信じる告白をし、聖霊さまを受けた方はその全員が天国へ行くことが出来ます。仮にもしその信仰生活がかなりのところいい加減なものであったとしても、神さまはその恵み深さのゆえに御自身の名を信じている方のことは天国へ招いてくださると思います。

 けれども、ヨハネの手紙には>>「すでに世に勝った」、またイエスさま御自身も「すでに勝利をとった」とおっしゃっているのに……どうも自分の人生はそのような勝利とは無縁のものとしか思えないというクリスチャンの方も多いのではないでしょうか(^^;)

 ただ、同じくヨハネの手紙には>>「世をも、世にあるものをも、愛してはならない」とあり、イエスさまにある勝利というのは、いわゆる日本人の間で流行っている<勝ち組>、<負け組>といった意味での「勝利」とは別のものだということですよね。

 そもそも聖書は<この世>は誰のものかといえば、悪魔(サタン)のものであると言っています。つまり、この世の権力・富・地位といったものは彼に一任されており、彼がそうしたものを与えたいと思う者に与えるということでした。つまり、世をも世の欲をも愛するなというのは、そうした悪魔(サタン)に属する物を愛するなという意味なのだと思います。

 とはいえ、ではより良い役職や収入や高い地位(たとえば大統領や会社の社長など)を求めるのが悪いかといえば、それもまた極端という気がしますよねクリスチャンの方の中にも何かの企業のCEOや重役の方もいらっしゃいますし、横にとてもゼロの多い収入を得られている方も多いと思います

 ただ、そうした種類のこの世的成功を与えられているクリスチャンの方がいる一方、マーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の教え」を実践していてなお――自分の望んだ人生の状態に到達していない方がいらっしゃるかもしれません

 随分長く祈っているのに、自分の夢が全然叶わないとか、貧乏になる一方だとか、問題や悩みがまったく解決しないなどなど……けれども、あくまでこれはわたしが思うには、ということですけれども(汗)、神さまはわたしたちが思っている以上に実は公平な方なのかもしれないと思うことがあります。

 わたしたちを取り巻く外的状況が仮にどんなに悲惨で惨めなものでも……神さまの喜び、イエスさまにある喜びって、すべて天国に属するものです。つまり、この世にいながらにして天からの光、天からの霊(聖霊さま)に満たされることによって――普通なら自殺を考えるところを喜びで満たされる、普通なら死んでもおかしくないところを神さまの力によって喜びをもって生き延びる、普通ならとても克服できないような苦難を、神さまの力によってなんの苦もなく喜びをもって克服していく……そしてその力に一度満たされると、自分が貧乏だとか、年収三百万以下の人は負け組と呼ばれるらしいから、その状態から脱却して自分も勝ち組へ移行したい……といったことは正直どうでもよくなるっていうんでしょうか(^^;)

 聖霊さまによって祈っていくと、自分の抱いている望みが果たして神さまの御旨に適ったものなのかどうかといったこともわかりますし、状態は極めて貧しかったとしても、聖書に神さまが必要のすべてを満たしてくださるとあるとおり、確かに「必要なもの」は真実祈るなら確かに与えられると思います。

 ただ、神さまに「俺は三十代になるまでに金持ちになりたい」といったように日時を指定することは出来ませんし、「あいつは神さまのことをろくに信じてもいないにのに、何故運の良さによってあんな成功を手に入れているのだろう。俺もああなりたい」とか、聖霊さまがおっしゃるのはたぶん、そうしたことよりも神さまの御旨に沿った大切なことは他にある……といったように、わたしたちの視線を御自身に向けさせるということが神さまの目的であり、それがまた聖書に書かれた「二心の者」ということかもしれません。人は神と富というふたつのものに仕えることは出来ない、何故なら一方を重んじて他方を軽んじるからである……とあるとおり。

 もちろん、わたしが書いていることに納得できない方はとても多いと思います。ただ、これもまた聖書にあるとおり「貧しい者は幸いです」とあるのは、本当のことだと思うんですよね。自分が貧しい時、本当に心の底から神さまを求めて必死に祈りますし、でも経済に余裕が出てくる、あるいは自分の悩みがその後すぎさると、喉元すぎればなんとやらで、信仰生活が堕落するというのもよくあることだと思います(^^;)

 わたし自身、信仰生活を塩けのあるものとするために自ら試練を求めたいとはまったく思いませんが――でも人は黙っていても試練にあう時は嫌でもあうし、その際に与えられる勝利というのが、誰が見ても神さまが与えられた奇蹟のよう見える輝かしいものであるとは限らないというのでしょうか。そしてわたし自身、神さまがわたしの祈りに応えてくださったりするのが割と地味だったりしても、そのことを気が狂ったように喜べることのほうがよほど嬉しいと感じています


 >>結局、一番幸福な日というのは、素晴らしいことや驚くようなこと、胸が湧き立つような出来事が起こる日ではなくて、真珠がひとつずつすべり落ちるように単純な小さな喜びを次々に持ってくる一日一日のことだと思うわ。

(「アンの青春」モンゴメリ著、村岡花子さん訳/新潮社より)


 これは「赤毛のアン」に出てくるアンの名言のひとつですが、わたしもある日自分が三億円の宝くじに当たるような成功者となるより……こうした種類の聖霊さまの喜びで満ちた毎日を過ごせるほうが、よほど幸せではないかと思うのです♪(^^)

 それではまた~!!





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