【墓堀り人夫の死】カルロス・シュヴァーベ
>>エリフはさらに続けて言った。
あなたはこのことを正義によると思うのか。
「私の義は神からだ」とでも言うのか。
あなたは言っている。
「何があなたの役に立つのでしょうか。
私が罪を犯さないと、
どんな利益がありましょうか」と。
私はあなたと、
またあなたとともにいるあなたの友人たちに
答えて言おう。
天を仰ぎ見よ。
あなたより、はるかに高い雲を見よ。
あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。
あなたのそむきの罪が多くても、
あなたは神に何をなしえようか。
あなたが正しくても、
あなたは神に何を与ええようか。
神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。
あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、
あなたの正しさは、ただ、人の子に、
かかわりを持つだけだ。
(ヨブ記、第35章1~8節)
再びまた、ヨブ記です。
なので、このブログ内での、旧約聖書ヨブ記のあらすじ等に関しては「マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教え-【5】-」、「功利的信仰」、「つばを飲む間も、わたしたちを放っておかれない神」などをご参照くださいm(_ _)m
二つくらい下の記事のところでも、何か物断ちをして神と<取引>することについて書きましたが、それはあくまで悪魔のやることであって、神さまというのは誰とも取引などなさいません。
けれども、今回のタイトル、「わたしが神に罪を犯さないとどんな良いことがありますか」と同じく、「それが自分の利益ともなることだから、自分の良心に照らし合わせて罪を犯さない」ということには、結局のところ限界があるわけです(^^;)
また、この方法を推し進めていくと、人間は誰もが袋小路の壁にぶつかるわけですよね。
ここで少し、人の罪意識の構造について説明しましょう。
わたしたちは普段日常的に、誰かの悪口を言ったり、嘘をついたりなどしており、おそらく一日の終わりに「あーっ、今日も自分は何ひとつとして罪を犯さなかった!」などという人はいないのではないでしょうか。また、もしいるとしたら、自分の心の内側の偽善や欺瞞に気づいていないだけ……のような気がします。
わたしたちは自分の良心が痛まない程度の軽微な罪に関しては、多くの場合においてすぐ忘れてしまいます。それでも、「相手が物凄く△□さんのこと悪く言ってたから、つい合わせて色々言っちゃったけど、あそこまで言うことはなかったな」と反省したり、あるいは明らかにひどい嘘を誰かについてしまい、「いつかバレたらどうしよう」と怯えるということもあるかもしれません。
けれども、こうした場合でも、自分の罪の墓穴をほんのちょっと掘ったくらいなもので、次の日にはその場所には茶色い土がしっかり盛られ、わたしたちはこう思います。「ま、こんなことくらい、誰でも日常茶飯事的にやってることだよ」と……。
ところが、問題が深刻になると――たとえばアルコール中毒や麻薬中毒のように――ある感覚が麻痺して、人はもう自分の罪の穴をどんどんざくざく堀り進めてゆくということがあります。アルコール中毒も麻薬中毒も、「全部、自分の体のことじゃないか。自分の好きなようにして何が悪い」といったように思う場合もあれば、「もうこれ以上掘ったら流石にやばい」と自分でわかっていても、もう自動的に勝手に体が動いて、ざくざく罪の穴を掘っていくばかり……ということもあると思います。
そうこうするうち、あまりに穴が深くて、そこから自分で出られないだけでなく、通りかかった人が魚の骨や肉片といった生ゴミを捨てていくことだってあるかもしれません。「こんな奴、もうこんなふうにされて当然だ」というわけです。こうしてあなたは、自分の手で自分の力によってでは出ることの出来ない穴に陥り、さらには人が投げつけるゴミによってそこには腐臭が立ち込めるまでになってしまいました。
そして、「どうしてこんなことになってしまったんだろう……」とあなたが涙に暮れていると、突然そこに梯子がかけられて、あなたはそこから出ていくことが出来ることになりました。イエスさまが墓堀り人にあなたの贖い金を支払ってくださったので、あなたは罪の墓穴から出てくることが出来たのです。
あなたは思いました。「ああ、神さまっ。あなたを信じます。これからは心を入れ替えてがんばります!」と。ところがですね、あなたはその舌の根も乾かぬうちに――また自分の罪の墓穴を堀りはじめてしまいます。最初は、「ほんの少しくらいなら大丈夫だろう」とあなたは思いました。「こんなこと、みんながやってることじゃないか」と。ところが、それがまた再び巨大な深い墓穴になってしまいました。あなたは絶望して思います。「こんな自分を、神さまはもう二度と助けてくださらないだろう」と……けれど、イエスさまは再び墓堀り人に贖い金を支払ってくださいました。こうして再び梯子がかけられて、あなたは自分の罪の穴から出てくることが出来たのです。
さて、何やらイエスさまの忍耐をお試しするようですが、一体何度までなら、神さまはわたしたちのこうした罪深い所業について赦してくださるのでしょうか?答えは、「心から悔い改めるなら、何度でも」です。また、わたしたちも誰か他の人が自分の罪について「赦してください」と言うなら、同じように赦してあげなさいともイエスさまはおっしゃいました。
問題は、わたしたちが良心の番人をしっかり監督して、罪を犯さないことではないのです。そのことをいつまでも放置し続け、神に赦しさえ乞わないような心理状態にある時……その人は表面的には仮に「まともそうに見える一般人」であったにしても、神さまとわたしたちを隔てる霊的な壁をより一層厚くしていると言えるでしょう。
>>確かにあなたは、この耳に言った。
私はあなたの話す声を聞いた。
「私はきよく、そむきの罪を犯さなかった。
私は純潔で、よこしまなことがない。
それなのに、神は私を攻める口実を見つけ、
私を敵のようにみなされる。
神は私の足にかせをはめ、
私の歩みをことごとく見張る」
聞け。私はあなたに答える。
このことであなたは正しくない。
神は人よりも偉大だからである。
なぜ、あなたは神と言い争うのか。
自分のことばに
神がいちいち答えてくださらないといって。
神はある方法で語られ、
また、ほかの方法で語られるが、
人はそれに気づかない。
夜の幻と、夢の中で、
または深い眠りが人々を襲うとき、
あるいは寝床の上でまどろむとき、
そのとき、神はその人たちの耳を開き、
このような恐ろしいかたちで彼らをおびえさせ、
人にその悪いわざを取り除かせ、
人間から高ぶりを離れさせる。
神は人のたましいが、
よみの穴に、はいらないようにし、
そのいのちが槍で滅びないようにされる。
あるいは、人を床の上で痛みによって責め、
その骨の多くをしびれさせる。
彼のいのちは食物をいとい、
そのたましいはうまい物をいとう。
その肉は衰え果てて見えなくなり、
見えなかった骨があらわになる。
そのたましいはよみの穴に近づき、
そのいのちは殺す者たちに近づく。
もし彼のそばに、ひとりの御使い、
すなわち千人にひとりの代言者がおり、
それが人に代わって
その正しさを告げてくれるなら、
神は彼をあわれんで仰せられる。
「彼を救って、
よみの穴に下って行かないようにせよ。
わたしは身代金を得た」
彼の肉は幼子のように、まるまる太り、
彼は青年のころに返る。
彼が神に祈ると、彼は受け入れられる。
彼は喜びをもって御顔を見、
神はその人に彼の義を報いてくださる。
彼は人々を見つめて言う。
「私は罪を犯し、正しい事を曲げた。
しかし、神は私のようではなかった。
神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、
私のいのちは光を見る」と。
見よ。神はこれらすべてのことを、
二度も三度も人に行なわれ、
人のたましいをよみの穴から引き戻し、
いのちの光で照らされる。
(ヨブ記、第33章8~30節)
エリフがヨブに答えて言ったように、わたしたちも命の光、イエスさまの霊的な心の――魂の光に照らされつつ、生きる者とされたいと思います
それではまた~!!
>>エリフはさらに続けて言った。
あなたはこのことを正義によると思うのか。
「私の義は神からだ」とでも言うのか。
あなたは言っている。
「何があなたの役に立つのでしょうか。
私が罪を犯さないと、
どんな利益がありましょうか」と。
私はあなたと、
またあなたとともにいるあなたの友人たちに
答えて言おう。
天を仰ぎ見よ。
あなたより、はるかに高い雲を見よ。
あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。
あなたのそむきの罪が多くても、
あなたは神に何をなしえようか。
あなたが正しくても、
あなたは神に何を与ええようか。
神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。
あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、
あなたの正しさは、ただ、人の子に、
かかわりを持つだけだ。
(ヨブ記、第35章1~8節)
再びまた、ヨブ記です。
なので、このブログ内での、旧約聖書ヨブ記のあらすじ等に関しては「マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教え-【5】-」、「功利的信仰」、「つばを飲む間も、わたしたちを放っておかれない神」などをご参照くださいm(_ _)m
二つくらい下の記事のところでも、何か物断ちをして神と<取引>することについて書きましたが、それはあくまで悪魔のやることであって、神さまというのは誰とも取引などなさいません。
けれども、今回のタイトル、「わたしが神に罪を犯さないとどんな良いことがありますか」と同じく、「それが自分の利益ともなることだから、自分の良心に照らし合わせて罪を犯さない」ということには、結局のところ限界があるわけです(^^;)
また、この方法を推し進めていくと、人間は誰もが袋小路の壁にぶつかるわけですよね。
ここで少し、人の罪意識の構造について説明しましょう。
わたしたちは普段日常的に、誰かの悪口を言ったり、嘘をついたりなどしており、おそらく一日の終わりに「あーっ、今日も自分は何ひとつとして罪を犯さなかった!」などという人はいないのではないでしょうか。また、もしいるとしたら、自分の心の内側の偽善や欺瞞に気づいていないだけ……のような気がします。
わたしたちは自分の良心が痛まない程度の軽微な罪に関しては、多くの場合においてすぐ忘れてしまいます。それでも、「相手が物凄く△□さんのこと悪く言ってたから、つい合わせて色々言っちゃったけど、あそこまで言うことはなかったな」と反省したり、あるいは明らかにひどい嘘を誰かについてしまい、「いつかバレたらどうしよう」と怯えるということもあるかもしれません。
けれども、こうした場合でも、自分の罪の墓穴をほんのちょっと掘ったくらいなもので、次の日にはその場所には茶色い土がしっかり盛られ、わたしたちはこう思います。「ま、こんなことくらい、誰でも日常茶飯事的にやってることだよ」と……。
ところが、問題が深刻になると――たとえばアルコール中毒や麻薬中毒のように――ある感覚が麻痺して、人はもう自分の罪の穴をどんどんざくざく堀り進めてゆくということがあります。アルコール中毒も麻薬中毒も、「全部、自分の体のことじゃないか。自分の好きなようにして何が悪い」といったように思う場合もあれば、「もうこれ以上掘ったら流石にやばい」と自分でわかっていても、もう自動的に勝手に体が動いて、ざくざく罪の穴を掘っていくばかり……ということもあると思います。
そうこうするうち、あまりに穴が深くて、そこから自分で出られないだけでなく、通りかかった人が魚の骨や肉片といった生ゴミを捨てていくことだってあるかもしれません。「こんな奴、もうこんなふうにされて当然だ」というわけです。こうしてあなたは、自分の手で自分の力によってでは出ることの出来ない穴に陥り、さらには人が投げつけるゴミによってそこには腐臭が立ち込めるまでになってしまいました。
そして、「どうしてこんなことになってしまったんだろう……」とあなたが涙に暮れていると、突然そこに梯子がかけられて、あなたはそこから出ていくことが出来ることになりました。イエスさまが墓堀り人にあなたの贖い金を支払ってくださったので、あなたは罪の墓穴から出てくることが出来たのです。
あなたは思いました。「ああ、神さまっ。あなたを信じます。これからは心を入れ替えてがんばります!」と。ところがですね、あなたはその舌の根も乾かぬうちに――また自分の罪の墓穴を堀りはじめてしまいます。最初は、「ほんの少しくらいなら大丈夫だろう」とあなたは思いました。「こんなこと、みんながやってることじゃないか」と。ところが、それがまた再び巨大な深い墓穴になってしまいました。あなたは絶望して思います。「こんな自分を、神さまはもう二度と助けてくださらないだろう」と……けれど、イエスさまは再び墓堀り人に贖い金を支払ってくださいました。こうして再び梯子がかけられて、あなたは自分の罪の穴から出てくることが出来たのです。
さて、何やらイエスさまの忍耐をお試しするようですが、一体何度までなら、神さまはわたしたちのこうした罪深い所業について赦してくださるのでしょうか?答えは、「心から悔い改めるなら、何度でも」です。また、わたしたちも誰か他の人が自分の罪について「赦してください」と言うなら、同じように赦してあげなさいともイエスさまはおっしゃいました。
問題は、わたしたちが良心の番人をしっかり監督して、罪を犯さないことではないのです。そのことをいつまでも放置し続け、神に赦しさえ乞わないような心理状態にある時……その人は表面的には仮に「まともそうに見える一般人」であったにしても、神さまとわたしたちを隔てる霊的な壁をより一層厚くしていると言えるでしょう。
>>確かにあなたは、この耳に言った。
私はあなたの話す声を聞いた。
「私はきよく、そむきの罪を犯さなかった。
私は純潔で、よこしまなことがない。
それなのに、神は私を攻める口実を見つけ、
私を敵のようにみなされる。
神は私の足にかせをはめ、
私の歩みをことごとく見張る」
聞け。私はあなたに答える。
このことであなたは正しくない。
神は人よりも偉大だからである。
なぜ、あなたは神と言い争うのか。
自分のことばに
神がいちいち答えてくださらないといって。
神はある方法で語られ、
また、ほかの方法で語られるが、
人はそれに気づかない。
夜の幻と、夢の中で、
または深い眠りが人々を襲うとき、
あるいは寝床の上でまどろむとき、
そのとき、神はその人たちの耳を開き、
このような恐ろしいかたちで彼らをおびえさせ、
人にその悪いわざを取り除かせ、
人間から高ぶりを離れさせる。
神は人のたましいが、
よみの穴に、はいらないようにし、
そのいのちが槍で滅びないようにされる。
あるいは、人を床の上で痛みによって責め、
その骨の多くをしびれさせる。
彼のいのちは食物をいとい、
そのたましいはうまい物をいとう。
その肉は衰え果てて見えなくなり、
見えなかった骨があらわになる。
そのたましいはよみの穴に近づき、
そのいのちは殺す者たちに近づく。
もし彼のそばに、ひとりの御使い、
すなわち千人にひとりの代言者がおり、
それが人に代わって
その正しさを告げてくれるなら、
神は彼をあわれんで仰せられる。
「彼を救って、
よみの穴に下って行かないようにせよ。
わたしは身代金を得た」
彼の肉は幼子のように、まるまる太り、
彼は青年のころに返る。
彼が神に祈ると、彼は受け入れられる。
彼は喜びをもって御顔を見、
神はその人に彼の義を報いてくださる。
彼は人々を見つめて言う。
「私は罪を犯し、正しい事を曲げた。
しかし、神は私のようではなかった。
神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、
私のいのちは光を見る」と。
見よ。神はこれらすべてのことを、
二度も三度も人に行なわれ、
人のたましいをよみの穴から引き戻し、
いのちの光で照らされる。
(ヨブ記、第33章8~30節)
エリフがヨブに答えて言ったように、わたしたちも命の光、イエスさまの霊的な心の――魂の光に照らされつつ、生きる者とされたいと思います
それではまた~!!
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