神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神さまの正しさと人間の正しさ。

2021年05月06日 | キリスト教
【善き羊飼いとしての幼児キリスト】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ


 聖パウロの信仰義認について書いたりすると、それだけですごく長くなりそうなので(汗)、この間マーリン・キャロザース先生の本を読んでいてちょっと思ったことを……と思いました(^^;)

 人間の正義、正しさといえば、簡単にいえば「罪を犯してない状態」のことではないでしょうか。法的な意味でもそうですし、時々人の悪口を言ったり、嘘をついたりといったことがあったにしても――まあ、自分の良心の許容の範囲内であれば、そのことを三か月過ぎたあとも覚えている……といったことはないのではないでしょうか。

 そして、これは「キリスト教においては」という前提が必要と思いますけれども、「キリスト教における人間の正しさ」とは、とにかくただひたすらに神を信じているという、この一言に尽きると思います。

 よく、(クリスチャンの方の間では)「信仰が試される」といった言葉を聞いたりしますが、「神さまを信じることの出来ない酷い状況」というのは、悲劇としか呼ぶことの出来ないほどの酷い状況だけでなく、個々人の小さな生活内においても、数え切れないほど多く許されていると思います。もちろん、戦争など、「それは神というよりも、単に人間が自分で原因を作って苦しむ結果になったのでは?」ということもあるにしても――それを止める力が神にはあったはずだという、この種の議論に関することは数限りなくあると思うんですよね(^^;)

 地震や津波といった災害、交通事故、病苦……などなど、本人に何か罪があったわけでもなんでもないのに、突然にして不幸に見舞われる方は、地球上に数え切れないほどたくさんいると思います。こうした事柄について、「神は責任を取らないのか」、「もし神が我々人間を生み出したというのなら、責任を取るべきではないのか」と、わたしやあなたが思ったにしても――それはたぶんすぐ忘れ去られます。何故といって、「神が~~してくれないから、わたしは今この問題のことで苦しんでいる」と文句を言ったところで、結局なんにもならないわけですから、それよりも何かしら実効性のある現実的な手段のことについてわたしたちは考えはじめるだろうからです。

 マーリン・キャロザース先生の「感謝と讃美の教え」は、こうした時、わたしたちに「何か人間的で現実的な手段を取ろうとするその前に」、まずはイエスさまにその嫌な苦しい重い問題について感謝し讃美する時に……その後、人生が変わってきた人々が数え切れないほどたくさんいるということを教えています。

 普通、神さまに感謝したり、神さまのことを賛美したりするのは、どう考えても道端に100万円落ちているのを拾ったといったような、ラッキーなことが起きた時だけではないでしょうかそれか、自分の人生が自分で計画した通り、順調にうまくいっているように感じられる時とか……でも言うまでもなく、そうした人というのは稀ですし、わたしたちが頭の中で100%完璧だと思った人生の計画のようなものは、多くの場合たくさんの困難を乗り越えつつ、いずれは達成される――といった場合のほうがほとんどという気がします。

 でも神さまは、「明日わたしが100万円拾いますように」という願いは聞かれないかもしれませんが、わたしが「こうこうこういう計画を自分の人生で立てています」とか、「それがうまくいきますように」といちいち祈るなら、確かに間違いなく聞いてくださいます。というか、それがわたしがクリスチャンになって以来日々実感していることと言っていいと思います。

 でもですね、大抵は聖霊さまを通して注意の入ることのほうが多いわけです(笑)。「そんな人間的な価値のない人生上の計画よりも、神の働き人として働きなさい」と語られたとしたら、どうでしょう?「ええ~っ。わたしの人生だもん。自分の思い・考えのとおり、あーしてこーしてそーして、一体何が悪いのよう。失礼しちゃうわ、もうっ。プンプン☆」といったようになる場合って、信仰の初期においては特に多いのではないでしょうか。

「神はあなたに、最善の計画を用意しておられる」というのも、教会でよく聞く言葉と思いますが、ノンクリスチャンの方がふと教会へ立ち寄って、牧師さんからそう聞かされたとしたら――「そんなものかねえ?」くらいなものなのではないでしょうか。

 でも、これは本当です。イエスさまはあなたが神さまの最善の計画に与れるように導いてくださっているので、もしわたしがそれ以外の、最善以下の、人間的な第二の道や第三の道を選んだ場合……それでも、愚かなわたしをイエスさまが助けてくださることに変わりはないにせよ、神さまにとって、御自身の最善の計画をわたしが選び取らなかった場合、それ以外のことについて責任はないと示されることはあると思います。

 これは人間が、「神さまはわたしの願いを聞いてくださらない、冷淡な存在だ」と誤解する理由のひとつと思いますが、それでも神さまは本来的に「責任はない」のだけれど、それでもそのたびにブチブチ☆神さまに対し文句を言い続けるわたしたちを……イエスさまは助けてくださるわけです。そして、ここにこそ、というか、こうしたところにも神さまの愛は満ち満ちていると思います。すべての人がこのことを理解したりわかったり、気づいたりするかどうかは別としても。


 >>神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

(ヨハネの手紙第一、第4章9~12節)


 >>私はあなたの救いを慕っています。主よ。
 あなたのみおしえは私の喜びです。

 私のたましいが生き、
 あなたをほめたたえますように。
 そしてあなたのさばきが
 私の助けとなりますように。

 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
 どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
 私はあなたの仰せを忘れません。

(詩篇119編、174~176節)


 わたしたちは、迷える羊としてイエスさまの懐ろへ戻るよりも、他の神に願いごとを聞いてもらってその胸に抱かれたいとか(=偶像礼拝)、あるいは自分なりに考えた人生の自由な道こそが正しいと思い、最悪の場合は袋小路に迷いこみ、あとはもう敵(悪魔・サタン)に攻撃されるばかり――そんな道へ迷いこみやすいものです。

 そして、こうした人生上の迷路を紆余曲折し、袋小路であとは死ぬばかり……といったところをイエスさまに救われてクリスチャンになった方ならわかるでしょう。「イエスさま、どうか許してください。わたしは今まで自分なりに正しいと思うとおりに人生を歩んできました。でも今はあなたのおっしゃる、『わたしを信じて義とされなさい』ということの意味がよくわかります。わたしはわきまえのない人間で、何が正しいかももうわかりません。そして、あなたがわたしにあなたの正しいことを教え、あなたの正しい道へと愚かなわたしのことを導いてください」と、神さまの御前に跪き、涙を流しながら祈る人の、その気持ちが……。


 >>「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」

 この人は預言者イザヤによって、
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、
 主の通られる道をまっすぐにせよ』
 と言われたその人である。

(マタイの福音書、第3章2~3節)


 >>知恵ある者はだれか。
 その人はこれらのことを悟るがよい。
 悟りのある者はだれか。
 その人はそれらを知るがよい。
 主の道は平らだ。
 正しい者はこれを歩み、
 そむく者はこれにつまずく。

(ホセア書、第14章9節)


 多くの人々の魂の道は平らでも真っ直ぐでもなく、曲がったり歪んだりしているのが普通ではないでしょうか。これはわたしも含めてそうだという意味ですが、イエスさまはそのわたしたちの曲がったり歪んだりして、自分ではどうにも出来ないところに(聖霊さまを通して)手を入れ、整えてくださる方でもあるのです。曲がったり歪んだりしているところに手を入れ、正しい状態にするわけですから、時にそのことには痛みが伴うこともあります。

 けれども、その神さまの愛の整えの御手は、「本来なら神さまはわたしたち人間に、そこまで親切にする必要はないはずなのに」、イエスさまを信じるすべての人に神さまがわざわざ行なってくださることでもあるということなのです。それは、親の子供に対する無償の愛よりも……より大きな愛であり、すべての人が必要としている深い愛なのではないでしょうか。

 それではまた~!!






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