神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人生。

2016年04月28日 | キリスト教
(『獄中からの讃美』マーリン・キャロザースさん著)


 つい最近、小さい頃に兄とスケートした時のことを思いだしました。

 おばあちゃんの家から少し行ったところにあるスーパーへ行く途中に空き地があって、冬、そこの広い面積の水たまりが凍っていたため、そこでスケートしないかと兄に言われ……小学校三年生くらいの頃だったと思うのですが、実は最初、「ちょっと嫌だな☆」と思いました。

 何故そう思ったかというと、いくら広い面積に溜まった水がカチンコチンに凍っていたとはいえ、そんなところでスケートを滑っているところを人に見られたくないし、馬鹿にされたくないな……とぼんやり思ったからでした。

 ところが結果は、これがもう楽しいのなんの♪時間を忘れてこのままずっとスケートを滑っていたいくらいでした。

 まあ、今にして思うとスケート靴のエッジには良くなかったかもしれませんが、でも小学生くらいの子にとっては面積もなかなかあり、兄とふたりで滑る分にはとっっても楽しかったのです♪(^^)

 けれどこの時やはり、若干予期していた通り、「あんなところでスケートなんかしちゃって、バカじゃないの?( `д´)ケッ」とのたまう小学生の一団がやって来て、非常に気分を害されたという。でもやっぱりスケート滑るのが楽しかったので、そのあと兄ともう少し滑ってから家へ帰ることにしたのでした。

 このことはずっと忘れていたのですが(兄自身、覚えているかどうかあやしい^^;)、なんとなく最近ぼんやり思いだしまして、そこから連想的にちょっと思ったことがあり。。。

 なんていうか、「人生っていうのはそんなものだよなあ☆」というか。何かのことで凄く楽しい時間を過ごしていると、どこかから横槍が入ってちょっと嫌な気分というか、グレーな気分になって、落ち込んだり

 何かそうしたアップダウンが人生にはあるわけですが、マーリン・キャロザース先生の感謝と讃美の教えというのは、そういう時にこそ「(神さまにあって)喜びなさい」ということでした

 でもわたし自身、マーリンさんの感謝と讃美の教えを実践しはじめて△年以上になるのですが、やっぱり「なんでも神さまに感謝と讃美♪(^^)」と心がけていたにしても、難しいことはその時々で色々あったなあ~なんて思います。

 自転車で転んでも神さまに感謝と讃美♪とか、そういうのはもう朝飯前的になったとはいえ、でもなかなか人間関係的なことでは神さまに感謝したり讃美したりするのは難しいなあ~と日々思わされます

 最近も「試練が来る」と聖霊さまに語られ、祈りの中で「どうか聞き違いでありますように」と願っていたのですが、いやいややって来ました、試練と困難がwwしかも、自転車で転んで二週間くらいちょっとうまく歩けなかったとか、そういう時にはすべてに関して神さまに心から感謝できたのに、自分の体のこと云々ではなくて、人間関係が絡んでくると、どうしても感謝しずらくなる傾向がわたしにはあるようで。。。(^^;)

 でも、その試練や困難を乗り越えると、神さまの祝福があるってよく言いますよね??なので、その試練や困難を信仰の学びと思うことにしよう……と、先ほど気持ちが暗く沈みこむ中、決意しました

 もちろん今までにも人生上の試練や困難や神さまからの訓練など――自分にも自分なりに色々あったな……とは思います。でも、↑の腰の痛みがそうですが、痛みがなくなっちゃうと、「あの時、二週間くらいうまく歩けなかったよな」という記憶だけは残るものの、リアルな痛みに関しては、ある程度治った途端にパッと忘れてしまったり。。。

 教会のメッセージの中でも、「他人の試練に対してはいくらでも励ませるが、自分の試練・困難は喜べない」と牧師様が語っていたことがあり、わたしもまったく同じだな~とあらためて思います

 そうなんですよね。人に対してはほんと、「そんな時こそマーリンさんの感謝と讃美」みたいに、いくらでも励ませる気がするんですけど、自分ごとになると、種類によってはほんとに全然喜べない……そしてつい、「わたしだって色々あるのに、その上また△□みたいなことまで背負わせるだなんて、神さまはほとんにしどいよ!ぐっすん」みたいに呟いてしまいたくなったり(もちろんツイッターにではなく)。。。

 でもほんとに、試練や困難には学びと教訓があるなとは思います。具体的に「それだけは嫌」みたいなことを神さまに感謝したり讃美したりするのは難しいのですが、このあとに現される神さまの御業に期待したいと思っています♪(^^)

 そして最初のスケートのお話なのですが――今、わたしにわたしなりの試練と困難が訪れているように、幸せな時とか面白楽しい時って、水のようにすべらか~に流れていってしまうと思いませんか?困難とか試練にある時の時間こそ、それこそ水のようにすべらか~に流れていって欲しい気がするんですけど、こういう時っていうのはどろ沼にいる一秒が一時間にも思えるみたいな??(^^;)

 そして、人生にこれといって大きな悩みがなく、自己充足的に過ごしていたとしても、そうした時間というのは大きな時間の単位としてそう長く続くっていうものでもなく、何かしら割り引かれるような嫌な気持ちになる出来事が起き、気分を害されたりと……人生っていうのはそんな感じのことの繰り返しだな~なんて思います

 わたしの場合、それはもちろん若かったせいもあるのですが、キリスト教に出会う前、クリスチャンになる前の悩みや苦しみというのは、「それがこれから先永遠に続く」といったように感じられたものでした。「狭間に落ち込むという苦しみ」のところでも書きましたように、わたしの心身病は結局今も治ったわけでもないのですが、でもべつの人生の側面においては神さまから祝福されていたりと、試練の谷山乗り越えて、ここのところ平坦な地形(?)が続いていたようにも思うので、「あ、またこれが来たか」なんて思っています。

 ただ、昔の「この苦しみが永遠に続くのなら自殺したほうがいい」と思っていた頃と違うのは……キリスト教、イエスさまに出会えたことが一番大きいとはいえ、それなりに歳を重ねて「この苦しみは永遠には続かない」とわかっていることが違うかな、なんて思うのです(^^;)

 人生、良い時もあれば悪い時もある。旧約聖書の伝道者の書には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」とありますけれども、人間として弱くされた時こそ、割と平坦な地形(?)を歩んでいた時に、どのくらい神さまにお祈りしていたかとか、信仰を使っていたかとか、そういうのが全部出るので……わたしの場合、一番大きいのが、「今もすでにこういう病気があって、治りもしないのに、その上さらに試練や困難に遭わせるだなんてしどいよ!神さまのイジワール(ドラちゃんの秘密道具の類似品・笑)」とつぶやいてしまうというパターンでしょうか。

 でもこのパターン、わたしこれまで何度も経験してきているもので、今更珍しくもなかったり……でもやっぱりまたつぶやきそうになったので(いやまあ、実際心の中でつぶやきましたけども^^;)、「いやいや、いかんいかん。腹にぐっと力を入れて、マーリンさんの感謝と讃美だ!」と思ってこの試練と困難を喜びました

 まあ、わたしの場合すぐ体に症状が出てストレスで痩せてしまうので、今回も体重減りましたけども、でも近いうちにきっとまた神さまが状況を良くしてくださると信じて、毎日を大切に信仰生活を歩んでいきたいと思っています♪(^^)

 それではまた~!!



 P.S.神さまの人に対する試練の乗り越えさせ方っていうのは、祈ったことで試練や困難がすぐにパッとなくなる、状況が変えられるというより(そうしたことももちろんあるのですが)……個人的には、<その試練や困難を乗り越える力を与える>、<試練や困難を乗り越える方法を信仰によって学ばせる>というバターンのほうが多い気がします。そして、この後者のほうが、のちに見る神さまの力の業や栄光などが大きいように自分的には感じます





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 世界は神について知りたくない。 | トップ | 1%の信仰を使う時に現され... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事