神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

天国という情報。

2018年11月23日 | キリスト教
【最後の審判三部作之三:天国の平原】ジョン・マーティン


 もちろん、クリスチャンにとっては、天国というのはただの情報などではなく、聖霊さまを通してはっきり確信できるような場所と思うのですけれども、死にかけて戻ってきた方などが、花畑や三途の川といった同一のイメージを持っていたり(つまり、夢の中で川の向こうにいっていたら自分は死んでいたろう等)、そうした種類の情報ってありますよね。

 もっともわたし、臨死体験系の本を読もう読もうと思ってて、まだ読めてないんですけど(汗)、昔何かでこんなよーな仮説を聞いた記憶があります。つまり、人の体っていうのは死という最大の危機に際し、脳がエンドルフィンといった快楽物質をいっぱいだすので、それでそうした意識の中で花畑を見たり、あるいは過去の記憶が走馬灯のように次から次へと浮かんでは消えていく……といった、共通の体験をするのではないか、と(情報元曖昧なんですけど、確かそんなよーな話だったような^^;)。

 ようするに、天国とか、そうしたことっていうのは、神同様人間の生みだした脳内の産物であり、また、この脳内で起きることは化学物質の引き起こす現象の連なりに過ぎないっていうんでしょうか。。。

 そして、こうしたことの対立項目として、仮にわたしが今頭の中に可愛いうさぎさんをイメージしたとして、その瞬間わたしの脳をかっさばいても、このうさぎを捕まえることは出来ない……という不思議さがあるわけです。もしわたしが脳内に無限の宇宙を思い描いても、わたしの脳の中からこの無限の宇宙がはみだしてくることはないのと同様に。

 そして、人にはバランス感覚というものがありますから、こうした「科学と宗教」の問題については、「まあ、大体その<あいだ>くらいを取るべきなんじゃないかな☆」と思ったりするわけです。

 でも、「天国」ということについては、やっぱり神さま同様「信じるか信じないか」のどちらかしかない気がするんですよね。いえ、曖昧にしておけるのは、自分が今健康で特に差し迫って身近に死を感じさせるシチュエーションがないだけで、究極、病気などで死を間近に感じたとすれば……「自分がこれまで生きてきたことの意味」や「自分が存在していることの意味」などと関連して、神さまとか天国とか、「人の意識は死後どうなるのか」とか、やっぱり色々考えるものだと思います。

 それで、キリスト教では天国っていうのは、イエスさまのことを神の御子であると告白する魂だけが入れる場所なわけですが、自分的には聖書を読んでも、この「天国」については限られた情報しかないような気がしてます(^^;)

 黙示録、あるいはダニエル書やエゼキエル書などを読むと、「天国ってこんな場所なのかな?」って想像できる記述があったりするわけですが、でも、実際そこへ行った時にはそこに書かれている以上に素晴らしく、つまりはそれを人間の「文字」という限られた表現では十分描き尽くせないことから、こうした記述に留まっている――ということなのかなって思ったりするわけです。


 >>御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

(ヨハネの黙示録、第22章1~5節)


 それでもこうした箇所を読むと、自分的にうっとりしてしまったり

 この前の第21章などにも、わたしたちが死後にゆくべき世界、天国の都がどのような場所なのかについての記述があるわけですが、これは地上のエルサレムということではなく、天国というのはキリスト教徒にとっては霊的エルサレムということですよね。

 そして、この霊的エルサレム、天国が現れた時、十二あるという門のうち、自分はどこから天国へ入っていくことになるのだろう、十二種類あるという実の果実を味わう時、それはどんな味がするのだろう……などなど、神さまから聖書を通して開示されている情報を元に色々想像を膨らませていると、霊的に平安で、幸せな気持ちになることが出来ます。


 ――その日、わたしたちは肉体の衣をぽいと脱ぎ捨てて、霊だけの姿となり、地上のことは振り返らず、ただひたすらに天を目指して、そこでイエスさまと出会うことが出来るのです!かの命の君の名を信じ、告白することさえ出来るなら!


 クリスチャンはこのことをキリスト教徒に与えられたもっとも素晴らしい恵みであり特権と信じていますが、ノンクリスチャンの方にとっては、「何故そんなアホらしいホラ話を信じることが出来るのだ」、「現実のエルサレムを見なさい。イスラエルとパレスチナの問題がいつか解決するかね?また、このことのために今までどのくらいの血が流されてきたか、君は考えたことがあるのかね?」……ということになるかもしれません。

 けれども、わたしたちが望んでいるのは、いずれ地上のエルサレムの上に来るという天のエルサレム、霊的エルサレムのことを天国と呼び、その天国へ血肉の体によってではなく、霊の体で入っていくということなのです。


 >>というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

(ピリピ人への手紙、第3章18~21節)


 わたしたちの国籍は天にあります。そして、この世的な言い方をするとしたら、イエスさまへの信仰は、天国へ入るための霊的パスポートと言えるかもしれません。

 さらに、この世的な言い方をするなら(笑)、地上の多くの人々がケータイなるものに夢中になっているわけですけれど、もしそれがわたしたちの霊的パスポートのサイズだと想像してみてください。そして、天使が真珠の門のところで「ピッ」とそのケータイをかざすと、わたしたちの生前の行い、何をして何をしなかったか、あるいは地上にいる間、どのくらい祈っていたか、神さまに聞き従ったか……そんなことが一瞬にしてわかってしまわないと、誰に言うことが出来るでしょう?

 また、本物の天使(あるいは聖ペテロでもいいですよ・笑)、はもちろんそんな人間的な手続きを取ったりはされません。彼らにはわたしたちがどのような人間か、霊の姿として見て、0.1秒とかからず、すべてのことがわかってしまうのはないでしょうか。

 天使と出会うのだってそのくらい恥かしいのに、天国ではイエスさまと会えるだなんて、本当にそこまで人は清い、聖なる存在になることが本当に出来るのでしょうか?この疑問は唯一、イエスさまのことを信じる時だけ消滅します。何故なら、かの命の君は、相応しくない者をこそ選び、汚れた者を罪の穢れから救い、聖くすることの出来る唯一の方なのですから!

 この方を敵として歩まず、逆に味方になっていただきましょう。何故ならイエスさまは地上で苦難の生涯を歩まれ、痛みの極みを肉体と霊の両方を通して経験されたそのことのゆえに――わたしたちの悩み、痛み、苦しみのすべてに対し、深い憐れみをもって理解を示してくださる方だからです。

 それではまた~!!




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