神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

おまえは本当にわかっているのか?

2020年12月07日 | キリスト教

 おそらく、わたしも含めた多くの日本人の方にとって「ユーゴスラビア紛争」というのは、「あ~、そういえば昔、そんな戦争があったっけ」くらいの記憶のような気がします(^^;)

 わたし、この紛争時に、赤十字に七千円ほど寄付して、あとは難民の方などが着るための服を募集していた時に、自分の持っている服の十何着かを送った、ということがありました。それで、当時阪神大震の時に、「ボロボロのもう着れないような服を送ってくる方がいる」と報道されていたことがあったので、自分が送る分の服は全部、一度クリーニングに出してから送ったのですが、そのクリーニング代に七千円くらいかかったような記憶があります。

 ちなみにこれ、慈善自慢とかいうことではまったくありません(^^;)わたしはその時、ユーゴスラビア紛争のニュースなどを見て、「何か自分に出来ることを」といった気持ちはあったにしても――実際のところ、ユーゴスラビア紛争というのがどういう戦争だったのかを自分で調べて知ったのは、その後かなり経ってからのことです。

 でも、クリーニングした服を送り、その後赤十字からユーゴスラビアの子供たちが写っている写真が送られてきた時には、なんとなく嬉しかったような記憶があります。もちろん、その子供たちのうちの誰かが、わたしの送った服を着ていたとか、そういうことではなかったにしても……とにかく、そうしたことがあったゆえに、自分的に今もユーゴスラビアというか、実際には今はもうユーゴスラビアという国はどこにもないわけですが、それが何故なのかということに、今も興味だけは持っていたりするわけです。

 それはさておき、今回のタイトルは「おまえは本当にわかっているのか?」です。

 そうなのです。当時(あるいは今も)、わたしは何もわかってなどいませんでした。年がバレるという話でもありますが(笑)、今よりずっと若かったということもあり、「世界のどこかにいる困っている人のために何かしたい」という気持ちだけなんとなくあって、厳しい言い方をするとしたら、そうした自己満足のために何かした気になったという、それだけのことだったのかもしれません。

 ところが、日本では阪神大震災以後――さらには、東日本大震災やそれ以後、毎年のように自然災害によって困り果てる……ということが続き、シリア難民の方ですとか、あるいは今もパレスチナで電気のない生活を送られている方の苦しみといったものが、その昔よりもぐっと近くなっているような気がします。また、新型コロナウイルスに至っては、もう世界共通の苦しみといっていい災厄なわけですが、この苦しみに関しては、言語の別はあっても、「こういうところが本当に苦しいよね、大変だよね」ということに関しては、まったく同じなわけですよね

 先日、「新型コロナウイルスは大変だけど、それでも明日食べるものがないわけじゃない。そうした大飢饉や戦争よりは遥かにマシだと思って、がんばりましょう!」といった言葉を聞きました。ええとですね、本当にわたし、ポジティヴな良い言葉と思うし、その方の言葉によって励まされた方もたくさんいらっしゃると思うので、何かケチをつけたいというわけでもなんでもないのです(^^;)

 ただ、医療従事者の方で、特に新型コロナウイルスに関係した病棟で働いておられる方にとって――これはもう、形を変えた新しい戦争なんじゃないかというくらいの大変さ、苦しさ、孤独やつらさがあるのではないかと思うのです。そのですね、そこがどんな病院でも「一床あける」っていうのは、本当に至難の業といっていいくらい、大変なことだと思います。今までも、政府のほうからそう指示があって、「追加で10床用意した」とか「20床用意した」とか、そういう話を聞くたびに、「よくそんなことが出来たなあ」と、そのミラクルといっていいほどの奇跡に、本当に驚くばかりでした(いえ、テレビのニュースなどでもっと報道しなきゃならないのは、上の人から指示があって、具体的にどうやって空けられないベッドを増やしていったのかの、その苦悩の部分、それがどんなに大変なことかとか、そのあたりではないかと思うくらいです^^;)。

 ところがですね、それのみならず、集中治療室とか、いつもなら業者の人がやっている掃除といったことまで看護師さんがやっていたり、納棺といった葬儀社の方が普段はやることまで看護師さんがやっていると聞いて――これはもう、医療従事者の方はパンクしてしまう、パンクしてしまうと言われ続けて、第二波も乗り越えたし……これで第三波もなんとかみんなで頑張って乗り越えよう!とかいうのは、絶対無理だと思いました。

 それに、医療従事者の方の心理的負担というのも、異常ですよね。食事の時にも、人と話をしないでひとり孤独に、とか、家に帰っても家族とは一緒にごはんを食べられないなど、普段以上に大変な業務を終えたのちの娯楽であるとか気晴らしといったことについても――どこへ行くにしても「自分が誰かに移す可能性がある」ことを念頭において行動しなくてはならないのですから。

 一応、新型コロナウイルスについては、「人類はすでに勝利をとっている」といったようには言われています。ちょっと不謹慎なたとえかもしれませんが、野球にたとえるとしたら、今は六回の裏あたりで、試合状況としてはコロナウイルスのほうが勝っているような状況かもしれません。けれども、9回裏までの試合が終わったとしたら――最終的なスコアとしては、人類が勝つとわかっている、といったような戦いなわけです

 けれども、今はコロナウイルスが次々ホームランを打って、あいつらがお互いにハイタッチを決めているように感じられる状況であり、9回裏まで進めば勝てるとわかっているにしても、それまでどのくらいの人的損失があるのか、新型コロナウイルスに罹患して苦しまなくてはならない人がどのくらい出るのか、また亡くなる方の数は……と考えると、本当に目の前が真っ暗になってしまいます

 ただ、わたしは一応クリスチャンですから、そうした「神も仏もありゃしない☆」といった中でも、イエスさまに祈り続けることが出来ます。でも、医療従事者の方にとっては、もしかしたら「本当に欲しいのはそういうことじゃない」とおっしゃられる可能性はあると思うんですよね(^^;)「祈ってくれるっていうのは有難いけど、我々が欲しいのは明日にでもより多くの人員が手厚く補充されることなんだよ~っ!」ということだと思いますし、実際のところもしそうじゃないなら、第一波や第二波の時よりも今回は――まず、ピッチャー(お医者さん)が潰れる、一塁と二塁と三塁を守っていた看護師さんも潰れる、もはや試合にすらならない=医療崩壊ということになってくるんじゃないかと、本当にそのような危険性をひしひしと感じています。

 第一波と第二波を耐えられたんだから、今回だってきっとどうにか大丈夫……というのではなく、「今回こそ本当にヤバイんだって!!」という危機感を物凄く強く感じるので、アメリカやイギリスやロシアなどで、ワクチンの摂取がはじまっているそうですから、こちらから明るいニュースがせめてももたらされることで――日本でも、「ああ、本当の本当にもう少しなんだ。かんばろう!!」みたいな機運に繋がってくれたらと、そのことを願うばかりです。

 さて、今回のタイトルは「おまえは本当にわかっているのか?」ですが、おそらくわたしは今も、本当に本当の意味では、何もわかってなぞいないのだと思います。でも本当に、今現在新型コロナウイルスで苦しむ方のために、高熱が下がり、咳や痰や悪寒といった不快な症状がなくなるよう、また、後遺症が残らないように肺の隅々までが癒されるよう、祈っていきたいと思っています

 それではまた~!!





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