如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

秋の旅(13)

2007-10-10 21:41:53 | インド旅行記
11月11日
毎日の生活が安定してきた。風邪はなかなか抜けきらないが、悪くなるわけでもない。生誕祭に向けてアシュラムには人が多くなり始めている。
ギリシャ人のグループが何回もインタビューに呼ばれている。同じグループである。12人ぐらいのグループで服装もきちっとしているし、背丈も揃っていて、年齢は25から30くらいか。グループとして統率が取れていることは遠目にも分かる。はっきりした目的を持ったグループのようである。
彼らは、バンガロールからプッタパルティーまで歩いてきたという話である。それをスワミは誰に聞くこともなくご存じだったという話。そのくらい徹底したグループに対してならスワミは、それなりに優遇してくれるのだろう。それにしても、バンガロールからプッタパルティーは200km。一週間近くかかる距離である。

サイババの最近の奇跡としてクマール先生が話してくれた話にこんなのがあった。
ダルシャンの時、スワミはひとりの婦人から手紙を受け取ると、その場で手紙を差し出していた他の婦人にその手紙を投げ返したのだそうである。手紙を渡した婦人は、その手紙はスワミに渡そうとしたのであるから返して欲しいと言い、受け取った婦人はスワミからいただいたのであるから私のものだと言うので、もめたそうである。それで、よくよくふたりの話を聞いてみたところ、最初に手紙を出した婦人の方は、寄付金の入った封筒をスワミに渡したのだそうである。金額は5000US$。だから返してもらいたい。スワミに渡したのであって見ず知らずの人に渡すお金ではない。では受け取った方の婦人がその日渡そうとした手紙の方はというと、生活が苦しいのですがなんとかならないでしょうか、と云う内容が書いてあったのだそうである。それで、スワミが受け取った手紙を別の婦人に投げ返した理由が分かったわけである。

輪廻転生の話もある。スワミ自身がシルディーのサイババの生まれ変わりと言っているくらいだから、ほかにあっても不思議ではない。今回聞いた話の中では、スワミにインタビューに呼ばれたスリランカの青年がヴィヴェカーナンダの生まれ変わりだったという話。これは、インタビューの後、スワミが傍にいた学生に話した事として伝わっていた。ヴィヴェカーナンダはラーマクリシュナの弟子である。
輪廻転生の発想はどこから出てきたのかと考えてしまう。肉体は親から子へ受け継がれてゆくものである。脳の機能や性格、精神のあり方なども肉体の一部分として遺伝によって同様に受け継がれてゆくと思われる。それなのに、人格の受け継ぎ方だけが、親から子へではなく、肉体の物質的因果関係とは別の次元で行われているというのだ。何か変な気がする。
『前世療法』と云う本が出版されていて、精神医学の面で効果を上げていることは確かのようだが、だからといって、前世のカルマによって今の人生が影響を受けているとか、人格の発達・向上が遺伝によってではなく輪廻転生によって進められてゆくとかが証明されたわけではもちろんない。
現象として、過去に存在した誰かの人生を自分の人生として感じてしまう人が存在するという事だけである。
別の考え方としては、この現象をテレパシーの一種として説明する事も出来る。通常のテレパシーと違う点は、受け取った情報を自分の経験として感じてしまうところだ。
前世療法というくらいだから、過去に遡ってゆく、未来にいければ来世療法なのだが、そう云った話は聞かない。そういう、過去から現在への方向性が、カルマを背負って輪廻転生するというイメージになるのだと思う。
もっとも、テレパシーと呼んでも輪廻転生と呼んでも、現象は同じなのだから、どちらも正しいという事もできる。

輪廻転生でもうひとつよく言われるのは、何らかの関係のあった人達が、転生して再び関係を持つ傾向がある事である。前世では兄弟だったが、今生では夫婦になったとか、主従の関係になったとか、である。過去に良い関係だったから引きつけられるように再び一緒になったのかと思えば、そうでない場合もあって、犬猿の仲であったり宿敵であったりする場合もあるらしい。しかし、それは、前世において印象の深かった人物のイメージを、現世の似ている誰かに投影しているに過ぎないような気もする。さらに、もっと複雑にテレパシーのネットワークが絡み合っている場合もあるかもしれないが。

スワミの特徴的なしぐさ。第1は、手のひらを上に向けて空をなでる。第2は、指で空中に何か書く。第3は、上に向けた手のひらを物を投げるように後ろに跳ね上げる。第3のしぐさは第2のしぐさに続いて行われることが多い。第4は、ヨダレを拭うように唇を拭くしぐさ。

第1のしぐさはよく見かける。まるで空中に何か手触りの良いものがあって、それを無意識に撫でている感じである。私もそっとまねしてみたら、何となく分かるような気がした。ただこのしぐさは、インドでは人前でしない方がよいだろう。不敬とにらまれそうである。
第2のしぐさは、ダルシャンの時に、信者の間を歩いていて、誰かと目があったりした後に、チョコチョコッと空中に書き留めるのである。いわゆる閻魔帳に書いているような感じである。第3のしぐさは、信者についていた悪い物をぽいっとどこか別世界に送ってしまうような、そんな感じに見えることもある。
第4のヨダレを拭うしぐさは、あまり見た目の良くない動作である。おいしい食べ物を見たときとか、実際においしい物を食べた直後とかに、そんな動作をしそうである。なぜそうなのか?あるいは、スワミの健康状態がとても良くて、赤ちゃんのように唾液がたくさん出てしまうのかもしれない。

物を出す場合のしぐさは有名である。手のひらを下に向けて、ちょうど鞠をつくような手の位置で、その手を水平方向にくるくると数回回して、ヒョイと掬う感じに手のひらを閉じながら上に向けるのである。
その他にも、手紙やインタビューの依頼を断ったりするとき、あるいは、前に出て来る人を制するときに使う両手の平を前に出した姿勢、その手のひらを顔の辺りまで上げれば、人々に答えるしぐさにもなる。
スワミの動作には、全く無駄なところがなく、歩くのは速い。しかし、目の動きなどはゆったりしていて、きょろきょろするような風は全くない。一つ一つの物や人をはっきり見ている感じである。

ダルシャンに行って私たちが期待するのは、サイババを見ること。サイババと目が合うこと。ビブーティをもらうこと。サイババに声をかけてもらうこと。サイババの足に触れることである。少しでも近くに長い間いてもらいたいと、そう思っている。
しかし、そういった欲望のようなものが、だんだんもっと大きなものに飲み込まれて、しばらくすると、ただそのスワミの雰囲気に浸っていれば幸せと思うようになる。

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